夏休みに入ったせいか、ランチタイムに子ども連れの客がポツポツと来るようになった。去年の夏、料理担当アルバイトが蒼空ではなく、別の女性だった頃には、見られなかった光景だ。

 ランチメニューは、基本的に料理担当者に任せている。前任者はワンプレートに豆腐ハンバーグ、豆乳グラタン、サラダといった健康を意識したおかずを彩りよく盛り付けたいわゆる「カフェ飯」を数種類用意していたが、蒼空はメニューを刷新した。カフェ飯は一種類に留め、「昭和の真っ赤なナポリタン」、「みんな大好き玉子サンド」といった喫茶店風メニュー、「ガツンと辛い夏のガパオライス」、「ホロホロすぎるチキンカレー」などを日替わりで提供した。それが子どもや高齢者に受けているようなのだ。ネーミングは正直微妙だが、あえて注文はつけていない。

 その日も、十二時を過ぎた頃、母親と小学校低学年ぐらいの男の子が入ってきた。頭をスポーツ刈りにして、真っ黒に日焼けしている。

 母親の切れ長の目に見覚えがあった。この前、訪問販売員に栄養補助サプリを売りつけられていた小柄な女性だ。今日は息子が一緒のせいか、この前より柔らかな印象である、カットソーにジーンズというカジュアルな服装が爽やかだった。

 窓際のテーブル席に座ると、母親はカフェ飯、男の子はカレーを頼んだ。食後の飲み物は、母親がこの前と同じでフルーティーな豆を使ったアイスコーヒー、息子はアイスミルクだ。

 コーヒーが気に入って、ランチに息子を連れてきたのだろうか。もしそうなら嬉しい。販売員はともかく、彼女を悪く思う気持ちはない。

 客が次々と来店し、満席になった。今日のホールはめぐみ一人なので、目が回るような忙しさだ。

 さっきの母子に食後の飲み物を出していると、入り口に女性が現れた。ころころとした体型で蜜柑色のカットソーがよく似合っている。

 少しお待ちいただいてよろしいですか、と声をかけようとしたときだ。女性がテーブルの母子に声をかけた。

「相沢さん、ここでランチだったんだ。相席、いいかしら」

「どうぞ。このお店、高橋さんもよく来るの?」

「今日が初めてだけど、前から気になってたんだ」

 高橋はそう言うと、めぐみに玉子サンドとコーヒーを注文した。「ちょっとごめん」と言ってスマホを触り始める。

 カウンターの客にナポリタンを出していると、窓際の席から驚いたような声がした。

「相沢さん、それ、ぜんぶ大地くんの?」

 カウンターの中から様子をうかがうと、男の子の前に紙ナプキンが広げられ、錠剤やカプセルが十個ほど並べられていた。

 苦い記憶がめぐみの胸をよぎった。この前、ここで販売契約を結んでいた栄養補助サプリも、息子に飲ませるためのものだろうか。それはともかく、いくらなんでも種類が多すぎると思うが、相沢は平然と言った。

「大地は食が細いから、身体を大きくするには、食事だけじゃ足りなくて。サプリやプロテイン、栄養補助剤なんかが必要なの」

 相沢は、お冷のコップを息子の前に置いた。男の子は眉を寄せると、それらを一粒ずつ口に入れ、水で飲み下し始めた。

 別の客が注文したアイスコーヒーの準備をしながら、彼女たちの会話に耳をそばだてた。

「確かに大地くんは、小柄だよね。それにしても、ちょっと多すぎない?」

「監督さんがいい顔をしないから、内緒にしてほしいんだけど、近いうちにリトルリーグのチームに移ろうと思ってて。リトルは軟式と違って、甲子園出場やプロを狙っている子が多いでしょ。大地もそうだけど」

「大地くん、才能があるもんね。でも、そんなにたくさんだと、かえって身体に悪くない?」

「そんなことないでしょ。プロテイン、カルシウム、ミネラル……。身体にいいものばかりだもの。大地も気に入ってるし」

 大地という少年は最後の一粒を口に放り込むと水をぐっと飲んだ。母親の顔を見上げると、スポーツ刈りの頭をこくりと動かしてうなずいた。

「うーん、でも……。私の母、レモン味のビタミン剤をおやつ代わりにボリボリ食べてたんだ。そうしたら顔が腫れちゃって。そういうこともあるから、気をつけたほうがいいと思う。それと、チラッと聞いたんだけど、身長を伸ばす整体に通わせてるんだって? それって本当に効果があるの?」

 相沢の顔が、能面のように無表情になった。

 突然、大地が立ち上がった。半分ほど残っていたミルクを飲み干すと、店の外に走り出る。

「大地!」

 相沢は腰を上げ、大地を追いかけようとしたが、支払いが済んでいないのに気づいたようだ。財布を取りだしながら、高橋に厳しい視線を向けた。高橋が申し訳なさそうに両手を合わせる。

「ごめん。でも、心配で……。通りがかりに窓から見かけたから、押しかけちゃった。三好さんにも声をかけた。よかったら、三人で話さない?」

 相沢は首を横に振った。

「大地は本気で野球をやってるの。他の子たちとは違うのよ。お医者さんならともかく、素人にあれこれ言われたくないわ」

 そこで二人の会話は途切れた。

 めぐみの胸に、ザラっとしたものが広がった。相沢の会計をしている間、ずっと心臓がドキドキしていた。

 相沢が店を出てほどなくすると、もう一人、女性が入ってきた。高橋が呼んだ三好という女性だろう。背が高く、スポーティな印象の人だった。

 二人は、相沢親子について話し始めた。聞かないようにしようとすればするほど、気になってしようがない。

 めぐみの胸の古傷がうずき始めた。傷口を突き破って、悲しみ、悔い、そして焦燥感が噴き出してくるようだ。

 シンクの縁に手をつき、身体を支えながら、襲ってくる眩暈に耐えた。

 厨房から蒼空が出てくる気配がした。

「めぐみさん、お願いします」

 顔を上げると、ナポリタンを盛り付けた皿を手にした蒼空が眉をひそめた。

「顔、真っ青だけど……」

「大丈夫」

 息苦しさは薄れていた。発作は起こさずに済んだようだが、ぐちゃぐちゃになった気持ちを立て直す気力がなかった。心が宙をさまよっているようだ。

 途方にくれながら、めぐみは蒼空が差し出す皿に手を伸ばした。皿を受け取ったと思った瞬間、手が滑った。派手な音がして、ケチャップで真っ赤に染まったスパゲッティが床に散らばった。

 もうダメだ。めぐみはその場にうずくまった。

 

 午後のカフェタイムとバータイムは臨時休業にした。

 自宅から下りてきて店に入ると、玉ねぎを炒める匂いが漂っていた。蒼空が、カレーの仕込みをしているようだ。

 めぐみはカウンターの内側に入ると、厨房の中をのぞき込んだ。蒼空が、慣れた手つきでフライパン一杯の玉ねぎを炒めていた。蒼空が手を動かすたびに、きつね色の塊がフライパンの中をリズミカルに動き回る。

 蒼空はめぐみに気づくと、心配そうな目をした。

「大丈夫っすか?」

「もう元気。迷惑をかけて申し訳なかったです」

 蒼空が呼んでくれたタクシーでめぐみは、丸山のクリニックへ向かった。診察を受け、症状も落ち着いたので、自宅に戻って今までベッドに横になっていたのだ。

「あの後一人で大変だったでしょう。私の粗相の片付けもあったし」

「余裕っす。それより、医者はなんて?」

「別に。ちょっと気分が悪くなっただけだから」

「でも、変な震えかたしてましたよ」

「本当になんでもない。ただ、お医者さんに相談があってね。診察が終わったら、ここに来てもらうことにした。そろそろお見えになると思う」

 蒼空は、ヘラでフライパンの中をかき回しながら言った。

「俺、いないほうがいいっすよね。でも、できれば今晩中にやっつけちゃいたいんです。耳にチャックしとくんで、このまま作業を続けてもいいですか?」

 蒼空の公演は三日後に迫っている。作業を中断するのも難しいだろう。入り口に近い席に座れば、話はほとんど聞こえないはずだ。何かの拍子に聞こえてしまったら、それはそれでしかたがない。

「チャックは口でしょ。聞こえちゃったら、他言無用でお願いします」

 蒼空は口にチャックするしぐさをすると、作業に戻った。

 それからしばらくして、ビジネスリュックを背負った丸山がやってきた。ストライプの半袖シャツに涼しげな麻のパンツを穿いている。服だけ見るとオシャレなのだが、体形が丸っこいからなんとなく冴えない。

 丸山は興味津々といった表情で店内を見回した。

「素敵なお店ですね。特にカウンターやテーブルの木目がいいなあ。それになんだかいい香りがする」

「すみません。調理スタッフが、仕込みをしているんです。それより、お忙しいところ、お呼びたてして申し訳ありませんでした」

「いえいえ。美味しいコーヒーをごちそうしていただけると聞いて、喜んでやってきました」

 厨房の音や匂いを理由に、入り口に近い席に座ってもらった。ふくよかな身体を縮めるようにして椅子に収まった丸山に、メニューを手渡す。

「コーヒー、三種類あるんです。お好みのものをおっしゃってください」

「コーヒーは大好きなんですが、よく分からないので、お任せします」

 少し迷って、フルーティーなタイプを選んだ。たぶん、重い話をすることになる。軽くて甘いコーヒーで中和したかった。

 コーヒーを淹れ、テーブルを挟んで向かい合って座ると、丸山は両手を合わせ、押しいただくようにしてコーヒーカップに口をつけた。

 一口飲んで、目を丸くする。カップに鼻を近づけて香りを嗅ぐと、感心したように息を吐いた。

「普段飲んでいるコーヒーとは別物です。フルーティーというより、フルーツそのものというかんじだ」

「浅く煎っているんです。コーヒーってサクランボに似た赤い実の種ですし」

「あー、そうか。確かに」

 コーヒーをもう一口飲むと、丸山は改まるように背筋を伸ばした。

「ご依頼について、熟考しました。申し訳ないけれど、やっぱり無理です。お子さんをサプリづけにしているお母さんがいるのは痛ましいことだし、心配です。でも、彼女を説得しろと言われても……。赤の他人である僕が口を挟むことではないし、医者の仕事でもないような」

 丸山の言う通りだと思う。

「でも、このままでは、よくないことになりそうで」

 気になってしようがなかったので、あのあと、三好と高橋のやり取りをずっと聞いていた。

 三人の女性の息子は皆三年生で、同じ少年野球チームに所属している。チームの名はカブスで、この近くのグラウンドで練習しているらしい。

 保護者の間では、相沢が息子にサプリやプロテインを大量に飲ませたり、背が伸びるという触れ込みの整体に通わせているのが、話題になっているようだ。二人は、チームの世話役で、少し前から相沢親子を心配し、機会を見つけて意見しようと話し合っていたようだ。

 ――作戦失敗。でも、このままじゃまずいよね。費用もすごいことになってるみたい。コウキくんのお母さんは、お金を貸してほしいって頼まれたらしい。五十万円だって。

 ――ってことは、ご主人には内緒なんだろうね。

 ――たぶんね。海外に単身赴任してるから。でも、元はと言えばご主人が悪いのよ。甲子園球児だったのはすごいけど、自分が果たせなかったプロ野球選手の夢を息子に託すなんて、何を考えているんだか。

 ――相沢さん、大地くんが小柄なのは、お前のせいだってご主人から責められてるらしいよ。

 ――ひどい。私だったら「は? だったら結婚するなよ」ってキレるけど、相沢さんはそういうキャラじゃないもんね。それはそうと、どうすればいいんだろう。

 ――監督が注意しても逆切れしたんでしょ。お医者さんならともかく、素人に口を出されたくないって。

 ――それ、さっき私も言われた。私ら三年生の世話役だけど、これ以上は無理なのかな。あ、そういえば、リトルに変わるみたい。

 ――それなら、もう私たちと関係ないか。とも言いにくいよね……。うちの子も高橋さんちのトシくんも、大地くんと仲がいいから。

 二人はそこでそろってため息をついたのだった。

 めぐみは丸山に頭を下げた。

「なんとかお願いできませんか? 費用は私が負担します」

 丸山は小さく首を横に振ると言った。

「お金をいただくような話ではありません。それはそうと、僕にはよく分かりません。あなたがどうしてそこまでする必要があるんですか?」

 そう聞かれると思っていた。めぐみは、目を閉じた。ゆっくり二度、深呼吸をする。

 この話は、父にしかしていない。一生誰にもするつもりはなかった。でも、話さないとたぶん分かってもらえない。

 目を開くとめぐみは言った。

「相沢さんは、十四年前の私だからです」

 丸山は首をかしげたが、うん、とうなずいた。めぐみは、重い口を開いた。

 めぐみは二十五歳のとき、友人の紹介で出会った男性と結婚した。金沢に本社がある精密機械製造会社の二代目である。彼の父親はすでになく、彼が社長だった。周囲には「玉の輿」と羨まれたものだ。

 結婚して五年後、待望の長男が生まれた。歩と名づけたその子は、赤ちゃんの頃から虚弱体質だった。同居していた姑は、そのことでめぐみを責めた。

 ――うちの家系に身体の弱い人間はいない。ちゃんと食事をさせないからいけない。

 夫は仕事に忙殺され、話を聞いてくれなかった。実家の母はめぐみが二十歳になる前に亡くなっていたし、父には相談しにくかった。金沢に知り合いは皆無。他人と打ち解けやすい性格ではなく、歩が幼稚園に通うようになっても、心を許せるママ友はできなかった。

 そんなある日、歩と二人で公園に行き、のんびり過ごしていると、優しそうな中年女性が声をかけてきた。その人は、歩を賢いと褒めちぎってくれた。なんとなく世間話が始まり、二人ともコーヒー好きだと分かった。誘われるまま、彼女の自宅でコーヒーをごちそうになった。使っているドリップペーパーは粗悪なもので、味に深みもなかったが、笑顔で話しながら飲むコーヒーはしみじみと美味しかった。

 その日から、めぐみはその女性の自宅に入りびたるようになった。苦しい胸の内を聞いてもらうだけで、救われた気持ちになる。一緒に泣き、一緒に憤慨してくれる人がいると、人は強くなれるようで、姑の皮肉も、受け流せるようになった。

 しかし、親身に寄り添ってくれる人が善人かどうかは別の話である。ある日、彼女は言い出した。

 ――歩ちゃんの身体が弱いのは、腎臓に毒が溜まっているからじゃないかしら。

 最新の研究で、成長過程にある子どもの腎臓に毒が蓄積しやすいことが分かってきたのだそうだ。海外のセレブの間では、毒の排出を促すサプリを子どもに飲ませるのが常識なのだとか。

 ――そのサプリ、私の親族の会社が輸入販売してるの。よかったら試してみない? 薬と違って副作用もないから安心よ。

 値段の高さに驚いたが、歩の虚弱体質を治してやりたかった。ただ、本当に効くのかどうか、疑う気持ちもあった。

 夫はサプリの類を毛嫌いしており、相談しても却下されるだけだろう。他に相談できる人は思いつかなかった。そもそも素人には、判断のしようがないと思った。

 効かないようならすぐに止めればいいか。

 そう考えて、めぐみは自分の貯金でサプリを購入した。

 服用を始めてしばらく経つと歩の顔色が良くなった。体力もついてきたようだ。これは効果がありそうだ。是非、続けたいと思って追加を頼んだら、その女性は言ったのだ。

 ――人気が出過ぎて価格が高騰しているんだって。この先、もっと値段が上がるのは確実だから、まとめ買いをしておいたら?

 それもそうだと考え、一年分の代金を支払おうとしたら、値上がりしたので三百万円必要だと言われた。取り合いになって値上がりするのは効く証拠だと思った。お金が足りず、夫から管理を任されていた定期預金に手をつけた。

 今思うと、なんであんな稚拙な詐欺に引っかかってしまったのか不思議だ。歩の虚弱体質が治ったように感じたのは、その女性がしきりにそう言ったからに決まっている。

 あの頃は歩の虚弱体質を治したくて必死だった。姑を見返したいという気持ちも強かった。それがあだになったのだろう。

 事態が急展開したのは、歩が五歳の誕生日を迎えてすぐのことである。体調不良に陥った歩を夫婦で病院に連れて行ったところ、肝臓の数値がひどく悪いとのことで、緊急入院の運びとなった。

 ――薬剤性肝障害の可能性がある。薬、サプリ等の摂取状況を教えてほしい。

 医師にそう言われたとき、心臓が止まりそうになった。おずおずと説明を始めた時、夫の顔に浮かんだ驚愕と憎悪の表情は今でも時々夢に出る。

 歩は一時、生死の境をさまようほどの重症に陥った。幸い一命を取り留め、後遺症も残らなかったが、結果オーライとはならなかった。夫に離婚を言い渡されたのだ。歩の親権は渡さないと言われた。

 自分に非があるのは分かっていたし、夫と争う気力もなかった。離婚の条件をそのまま受け入れ、一人で実家に戻った。

 夫はその後、めぐみにサプリを売りつけた女を訴え、勝訴したようだ。詳しい話は聞いていないので、そのサプリの正体がいったい何だったのかよく分からない。

「息子とは、離婚以来、会っていません。元夫が離婚後、わりとすぐに再婚したんです。新しい母親になついているから、そっとしておいてくれと言われました。小学校に上がる前、遠くから二人の様子を見させてもらいました。二人が手を繋いで笑いあっているのを見たとき、諦めたんです」

 正確に言うとそうじゃない。諦めようと決めたのだ。でも、たぶん今も諦められていない。

 店に名前をつけるとき、真っ先に思い浮かんだのが歩の顔だった。

 カミナーレ。イタリア語で「歩く」という意味だ。

 そして、今も当時のことを不用意に思い出すと、軽いパニックに襲われてしまう。今日のように。

 

(第12回につづく)