3章 小さな巨人

 

 

 朝から降り続く雨が、アスファルトを激しく叩いている。今年は梅雨らしい梅雨がなかった。雨の日自体少なかったから、植物にとっては恵みの雨となりそうだ。

 水島めぐみは、食洗機から取り出した食器を棚に戻し終えると、コーヒー豆を並べた棚に目をやった。

 この店は来月、開店五周年を迎える。毎年、開店記念日の前後一週間の間に来店したお客さんには、感謝を込めてディップスタイルのコーヒーを配る慣わしだった。ティーバッグのようにお湯に浸すだけで飲める、手軽な商品だ。

 去年、フルーティーな浅煎りの豆を選んだら、たいそう評判がよかった。今年も同じものにしようか。それとも、別のもののほうがいいだろうか。思案していると、カウンターの前でハンドドリップの練習をしている丸山賢太が、大きなため息をついた。

「うーん、難しい」

 カフェエプロンの紐が食い込み気味の背中を丸め、ぎこちない手つきで空のドリッパーにお湯を注いでいる。お湯は途切れ途切れだった。一定のスピードで注ぎ口からスーッと出せるようにしてほしいのだが。

 丸山がカフェ・カミナーレで働くようになってから二か月が過ぎた。この調子では、いつになったらお客さんに出せるレベルのコーヒーを淹れられるか分からない。恰好はよくないが、注ぎ口の根元が細くて初心者にも扱いやすいポットを用意しようかと思いながら、丸山に声をかけた。

「今日は暇そうですね」

 丸山がビクッと背中を動かした。ポットを持ったまま、申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません、ホンっとすみません。僕が力不足なものだから」

 めぐみは慌てて首を横に振った。

「そうじゃなくて、こんな天気だから……」

「今日だけじゃなく、僕のカフェタイムはいつも暇です。もう二月にもなるのに」

「まだ二月です。リピーターさんもポツポツ出てきたし、これからですよ」

「リピーターって啓子さんのことですか? あの人は、誰かに愚痴を聞いてほしいだけだと思うなあ。相談内容は、もはや医療と関係ないし」

「それは確かに」

 お嫁さんの潔癖症についての相談だったはずが、最近は、略奪婚を企てている娘の愚痴ばかりだ。

「でも、大場祥子さんは、頻尿が改善してからも、通ってくれていますよね?」

「彼女の目当ては、僕ではなくソラくんでしょう。彼がいないと、すぐに帰ってしまいます」

 丸山は独り言のように続けた。

「じっくり話をしたいのは僕だけで、患者さんのほうはそうでもないのかなあ」

 丸山は自然体でマイペースだが、実は意外と繊細で「気にしい」だ。一緒に働いてみて、初めて分かった。考えてみれば当然かもしれない。他人の心の動きに鈍感だったら、聞き上手にはなれない。

 店の前で、傘をさした小柄な女性が立ち止まった。窓越しなのではっきりとは分からないが、小学生ぐらいの男の子を連れている。二人は傘を閉じ、水滴を切るように、何度も振った。

 めぐみは、スツールから腰を上げた。

「お客さんみたい。こんな雨の中、ありがたいわね」

 丸山は外を見ると、気合いを入れるように、エプロンをかけたお腹のあたりをポンと叩いた。

「いらっしゃいませ」

 声をかけると、女性は柔らかい笑みを浮かべ、めぐみたちに会釈をした。ほっそりとした顔の輪郭と、切れ長の目に見覚えがあった。

 久しぶりのお客さんだろうか。考えあぐねていると、女性の後から入ってきた少年と目が合った。日焼けしており、野球帽をかぶっている。

 丸山が、驚いたような声を上げた。

「大地くん? 相沢大地くんだね?」

 その名前を聞いて、女性のことも思い出した。

 少年は、カウンターに駆け寄ると、頬を上気させて丸山を見上げた。

「僕、リトルでショートのスタメン取った。四年でスタメンは僕だけなんだ」

 丸山は目を見開くと、顔いっぱいに笑みを浮かべた。

「それはすごい。いや、でも大地くんの運動神経なら当然か」

 大地の母が、丸山とめぐみに会釈をした。以前とは別人のように、明るい表情だ。

「しばらく前にお店の前の看板を見かけたんです。丸山先生がいらっしゃるかもしれないと思って」

 そう言うと、深々と頭を下げる。

「その節は、ありがとうございました。もっと早くうかがいたかったんですが、今日みたいな天気でもなければ、大地の練習があるから」

 落ち着いた口調で言う彼女に向かって、めぐみは何度もうなずいた。

 丸山と話をすることで、救われる人は必ずいる。相沢親子が証人だ。

「どうぞ、おかけください」

 相沢と大地は、丸山の正面の席に座った。「お医者くんカフェタイム」専用のメニューを渡すと、二人でメニューをじっくり検討し、相沢は言った。

「この子にはアイスのカフェオレ。私はホットコーヒーで。フルーティーなタイプをお願いします」

「かしこまりました」と言うと、丸山に声をかけた。「ドリップは私がやります。丸くんは、ミルクと氷の用意をお願い」

 相沢が怪訝な表情を浮かべた。

「丸くんって、先生のことですか?」

 冷蔵庫からミルクの瓶を取り出しながら丸山は言った。

「ここではお話しするだけで、診察はしません。先生っていうのは違うかなと思って。相沢さんも大地くんも、丸くんでお願いします」

 大地が早速丸山に声をかけた。

「丸くん、今度僕の試合、見に来る?」

 浅煎りの豆をミルにセットしながら、めぐみは去年の夏、相沢親子と会ったときのことを思い返していた。

 

 

 十時になった。開店時間だ。水島めぐみは、立て看板を出しに表に出た。まだ午前中だというのに、強烈な日差しが肌に突き刺さった。アスファルトからは凶暴な熱気が立ち上ってくる。

 ガラス戸にかけてあるプレートを「OPEN」の面に変えると、めぐみは店内に戻った。

 関東地方は昨日、梅雨明け宣言が出た。あと一月弱でお盆休みが来る。そのすぐ後に、カフェ・カミナーレは開店四周年を迎える。

 しばらく前に読んだ記事によると、開店四年後の飲食店の生存率は二割程度。よくここまでやってこられたものだ。

 この店を開く前まで、飲食店勤務の経験はなかった。コーヒーは昔から好きで、自分でもよく淹れていたが、愛好家の域を出るものではなかった。にもかかわらず、店を立ち上げ、今日まで続けられているのは、複数のビルオーナーだった亡父と師匠のおかげである。

 店が入っている六階建ての賃貸マンションは、五年前に父から相続した。その五年ほど前、めぐみは離婚して実家に戻り、都下にある二世帯住宅の一階部分に父と二人で住んでいた。母はすでに亡く、二階に住む弟一家とは折り合いが悪かった。

 その後、がんを患い、余命宣告を受けた父は、自分の死後、めぐみが一人で生きていける算段をつけてくれたのだった。

 飲食店の経営は、カミナーレの前にこの場所でコーヒーショップを営んでいた老店主から学んだ。その店のコーヒーは美味しく、居心地もたいそうよかった。店が入っている建物の最上階の部屋に越してきてから、毎日のように通っていた。

 ところがその年の年末、店主が半年後に閉店すると言ってきた。高齢で身体が動かなくなってきたので、妻の故郷の福島県で静かに余生を送りたいという。

 残念だったが、引き留めるわけにもいかない。年明け早々、ビルの管理会社を通じて新たなテナントを探し始めた。

 場所が悪くないせいか、すぐに数件の入居希望があった。いずれも大手資本の飲食チェーンだった。そのうちの一つに決めるようにと管理会社に言われたが、めぐみとしては不本意だった。味気ないチェーン店より、地域の人に愛される店に入ってほしかったのだ。そこで思い切って、老店主に相談を持ちかけた。

 ――お店を継いでくれる人を探してもらえませんか?

 賃料は相場より安めに設定すると伝えると、店主は十秒ほど沈黙した後、言った。

 ――でしたら、自分で店をやってみてはいかがです?

 無理な相談である。めぐみに飲食業の経験はない。病状が安定しているとはいえ、喘息の持病もある。老店主もそのことを知っているから、皮肉でも言われているのかと思った。しかし、そうではなかったようで、店主は淡々と続けた。

 ――賃料がかからなければ、リスクはそこまで高くありません。経営や運営のノウハウは、閉店するまでの間に私が教えます。豆の仕入先や税理士も引き継ぎましょう。

 そして、めぐみの目をまっすぐ見て言ったのだ。

 ――コーヒーの味が分かる人が、この場所で店を続けてくれたら街の人たちは喜ぶし、私も嬉しいです。

 それを聞いたとき、不安と希望が入り混じった感情がこみ上げた。「潮時」という言葉も浮かんだ。

 離婚して以来、その原因となった自らの愚行を悔いながら生きてきた。でも、過去は変えられない。父もいなくなった。残りの人生、何もせずに一人で生きていくには長すぎる。

 三日ほど考えた後、めぐみは老店主に弟子入りした。閉店までのおよそ四か月、一緒に店に立ち、コーヒーの淹れかたから帳簿のつけかたまで、店舗経営のあらゆるノウハウを叩き込まれた。夜はバリスタの資格をとるためのスクールに通った。

 老店主が店を閉めた翌日から一月半ほどかけて、店の改装を行い、お盆明けに、カフェ・カミナーレの開店にこぎつけたのだ。

 あれから四年……。本当にあっという間だった。

 エプロンの紐を締め直していると、ガラス戸が開いた。今日最初のお客さんかと思ったら、アルバイトの鈴木蒼空だった。寝起きなのか髪がボサボサだ。切れ長の目も、腫れぼったい。

 今年二十二歳になる蒼空は、小劇団の役者だ。この店では、ランチタイムとバータイムの調理を担当している。稽古がない日は、カフェタイムに仕込みをしに来ることもあるが、午前中に顔を出すのは珍しい。

「おはよう。早いのね」

 蒼空はあくびをすると言った。

「台詞覚えで完徹だったんです。目ぇ閉じたら、起きられなくなりそうで。それはそうと、公演中のフード、どうします?」

「そうだったわね」

 蒼空の劇団の定期公演が二週間後に迫っていた。公演中の四日間、蒼空は店に出られない。

 前回の公演の際には、ランチ用にカレーを作り置きしてもらい、「カレーフェア」と称して出した。バータイムはチーズやナッツなどの乾き物でしのいだ。バータイムはともかく、カレーフェアは評判がよかった。

「前と同じでお願いしていい?」

「了解です。ランチの前に、材料チェックして足りないものを書き出しとくんで」

「ありがとう。注文しとく」

 蒼空は、軽そうに見えるが、仕事に関しては真面目だ。高校生の頃から、調理関係のアルバイトをしてきたというから、料理の仕事が好きなのだろう。

 着替えのために化粧室に向かう蒼空の背中を見送っていると、再びドアが開く音がした。今度こそ、お客さんだ。

「いらっしゃいませ」

 二人連れの女性に声をかけながら、めぐみはハッとした。若いほうの女性に見覚えがあったのだ。ショートカットのパーマヘアと、口角を意識的に上げた不自然な笑み。先週、別の女性と一緒に来店した販売員だ。テーブルに健康食品やサプリのパンフレットを広げ、熱心に説明をしていた。

 配膳の際、パンフレットが目に入り、めぐみは不快な気持ちになった。

「飲むだけでみるみるうちに十キロ減!」という表現は誇大広告そのものだ。「一か月分九万九千円が今なら半額!」という煽り文句はなんとも怪しげだし、値段も高すぎる。

 この手の商品は世の中に少なくない。違法とまでは言えないのだろう。ただ、自分の店でそんな商品の売り込みをされるのは、許せない気持ちだった。

 退店を促したかったが、なんと声をかければいいのか分からない。

 商品に問題があるというのは、めぐみの主観にすぎなかった。しかも、相手の女性は、商品の購入に前向きな様子である。下手に声をかけたら、営業妨害だと言われてしまいそうだ。

 結局、気を揉みながら、彼女たちが帰るのを待った。

 今日もきっと同じことが起きるだろう。連れの女性は、小柄で切れ長の目をしていた。全体的に地味なかんじの人で、見るからに気が弱そうだ。思い詰めたような表情も気になった。悩みを抱えている人は、寄り添ってくれる人を簡単に信じてしまう。もっとはっきり言えば騙されやすい。

 めぐみは深呼吸をすると、思い切って言った。

「商談でしょうか」

 商談であれば、遠慮してほしい。

 そう言って入店を断ろうと思ったのだが、その前に相手はニコっと笑った。

「ホームページ、拝見しました。カフェタイムだから大丈夫ですよね? ここのフルーティーなコーヒー、本当に美味しいので、私のクライアントさんにも飲んでほしくて」

 めぐみは、臍をかんだ。

 彼女が言うように、ホームページには、「ランチタイム、バータイムの商談はご遠慮ください」と書いてある。カフェタイムならОKと受け止められてもしかたがない。それでも、断りたかった。何かうまい理由はないだろうか……。こういうとき、自分の社会経験の乏しさ、そして押しの弱さが嫌になる。

「テーブル席、いいですか?」

 相手に問われ、めぐみは覚悟を決めた。トラブルになっても構わない。

 めぐみが口を開こうとしたときだ。化粧室のドアが開き、蒼空が出てきた。キャスケットタイプのコック帽とカフェエプロンをつけた蒼空は、来客に気づくと、さっきとは打って変わった爽やかな笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ。外、暑かったでしょう。奥のテーブル席が涼しいですよ。四人がけだけど、遠慮なく座っちゃってください」

「あら、ありがとうございます。さあ、行きましょう」

 販売員は連れの女性を促して席へ向かった。

 こうなってしまっては、ノーとは言いづらい。「騙されないで」という思いを込めて、連れの女性を見たが、うつむいている彼女とは視線が合わなかった。

 

(第10回につづく)