1章 自然の呼び声

 

 

 ゴールデンウィークが明けて二日後の金曜日、北新宿にある中堅水産加工会社、ハッピーマリン本社の会議室に商品企画部のメンバーが次々と集まってきた。

 これから始まるのは、来年の春先にスーパー向けに発売する新商品候補を決めるプレゼン会議だ。コンセプトは「子どもが喜ぶ丼の具材」。メインで使用する具材はトロサーモンまたは釜揚げしらす。今日の会議は「予選」に当たり、部員十二人が考案した十八の案を三つにまで絞り込む。

 おおしようは、出入り口に一番近い席に陣取り、プレゼン資料の最終チェックを進めた。祥子は、女性にしては大柄だ。奥の席へ向かう人は、祥子の背後を通り抜けるのに苦労している。申し訳なく思ったが、普段より三十分早く出社して確保した席なので替わるわけにはいかない。

 祥子が提案するのは、「トロサーモンとブロッコリーの二色丼」だ。子どもに人気のサーモンと、保護者への訴求力が高い緑黄色野菜を組み合わせた。ブロッコリーはチーズソースで和えて、食べやすくしてある。春っぽい鮮やかな色合いで写真や動画で映えること間違いなし。はっきり言って自信作である。

 会議室の奥には、海外製の巨大なデジタルホワイトボードが鎮座している。社長のうみ幸助こうすけが、自ら販売店のショールームに足を運んで選んだという。海野曰く、ウェブ会議やプレゼン会議の効率が飛躍的に向上するそうだが、社員の間ではすこぶる評判が悪い。マニュアルがひどく分かりにくいのだ。

 プレゼンのトップバッターを務める若手社員も、ボードと自分のPCを接続するのに、苦労しているようだ。演台でしきりに首をひねっている。

 資料は完璧に作りこんできたし、説明の内容も、すべて頭に入っている。

 ――大丈夫、絶対にいける。Yes I Can!

 PC画面をスクロールしながら何度も自分に言い聞かせたが、不安は膨らむばかりだった。

 祥子はかつて「商品企画部の若手エース」と呼ばれていた。三年前、コンビニ向けに出した「スペインバル風いわしのエスカベッシュ」が、チルド商品として異例の売れ行きを見せたのを皮きりに、立て続けにヒットを飛ばしたのだ。子どもの頃から食べるのが大好きな自分にとって、今の仕事は天職だとも思っている。

 なのに、ここ半年はさっぱりだった。率直に言って焦っていた。今年三十二歳になるが、結婚の予定はない。恋人もいないし、夢中になっている趣味もない。せめて仕事を充実させたかった。

 緊張のせいか、喉が猛烈に渇いてきた。ペットボトルの麦茶は持ってきた。でも、水分は控えなければ……。

 そう考えたところで、はっとした。次の瞬間、泣きたい気分になった。

 その感覚は、かすかなのに、はっきりしていた。矛盾するようだが、尿意はいつもそんなふうにやってくる。

 ――気のせい、気のせい。絶対に気のせい。

 先月、会社帰りに受診した泌尿器科クリニックの医師には「心因性の頻尿」と言われた。何かに集中しているときには症状が和らぐ、トイレに間に合わず失敗することはない、就寝中にトイレで起きることはあまりない、といった特徴があるそうだ。すべて自分に当てはまる。

 そういえば、ゴマ塩のあごひげを蓄えたその医師の態度はひどかった。思い出すだけで腹が立つ。でも、そのクリニックは激混みだった。腕は確かなのだろう。

 ――気のせい、気のせい。絶対に気のせい。

 心の中で繰り返しながら、PC画面から視線をはずして顔を上げた。意識を身体の外に向けて、尿意が消え去るのを待とうと思ったのだ。

 演台では、最初に発表するはやしこうろうが、焦った様子でマウスを操作していた。自分のPCと電子ボードがいまだにつながらないようだ。

 三期下の林は、空気を読むのが苦手で、不穏当な発言をしがちだ。彼と距離を置く社員は多い。祥子もその一人だが、彼の商品企画力には一目置いていた。突拍子もない案ばかりで採用されたことはないが、なんだか楽しそうなのである。

 演台に近い席に座っている商品企画部長のおかあつが、苛々いらいらと声をかけた。

「林くん、まだ?」

「もう少しです」

 情報機器の操作が苦手なら、事前に自分のPCと繋いで動作確認をしておけばいいのに。祥子は当然そうした。

 背後でドアが開く音がした。井岡が弾かれたように立ち上がる。

「社長!」

 振り向くと、海坊主のような頭をぬらりと光らせた海野が立っていた。

 海野がプレゼン会議に参加するのは稀だ。しかも今日は予選である。井岡は驚いた様子だったが、むしろ来ないわけがないと祥子は思っていた。今日は、電子ボードが導入されてから初めてのプレゼン会議である。

 部員たちの間に、静かな動揺が広がる気配があった。無理もない。海野は激情型だ。昨年会議に臨席した際は、プレゼンの途中でつっかえた社員を怒鳴りつけ、その場で配置転換を命じたのだ。

 でも、これはピンチではなくチャンス。海野のお眼鏡に適えば、その場で企画が採用される可能性がある。

 問題は尿意だった。緊張が高まったせいか、早くもさっきより強くなっていた。頭の中で「トイレ」という文字がぐるぐる回り始める。

 とてもではないが、こんな状態で演台に立つ自信はない。

 祥子の発表順は林の次である。一人当たりの持ち時間は五分。今すぐに林が発表を始めたとしても、トイレに行ってくる時間はありそうだ。

 立ち上がろうとしたそのときだ。海野が太い指で猪首を掻きながら、井岡に声をかけた。

「とっくに定刻を過ぎてるぞ」

 井岡は狼狽した様子で林に尋ねた。

「林くん、どう?」

 林は顔を上げ、のんびりと言った。

「マニュアルが解読不能なんです。自動翻訳ソフトに丸投げしたんじゃないかな。粗悪な海外製品にありがちですよね」

 今の発言は問題だと思いながら、祥子は海野の横顔を盗み見た。案の定、憤怒で歪んでいる。

 空気が緊迫したせいか、尿意はいよいよ強くなっていた。タイミングとしては最悪だが、背に腹は替えられない。祥子は静かに腰を上げた。井岡と目が合ったので、「中座して申し訳ありません」という意味を込めて会釈をしたところ、井岡がほっとしたような表情を浮かべた。

「悪いね、大場さん」

「えっ」

「君は一昨日、電子ボードでリハをしてたから大丈夫だよね」

 林と発表順を替われと言われているようだ。

「そうか、そうか。大場はやる気満々だな。おおいに結構。さっそく頼む」

 海野にそう言われては、やるしかない。

 颯爽とプレゼンを始めれば、評価は確実に上がる。社長がその場で案を採用してくれる可能性だってありそうだ。

 しかし、演台へ向かって歩き始めるや否や、祥子の頭の中で言葉がぐるぐると回り始めた。

 ――トイレ、トイレ、トイレに行きたい。いますぐ行きたい。

 これは気のせいだと自分に言い聞かせながら、自分のPCと電子ボードを接続した。

 さあ、始めよう。そう思って口を開きかけたとき、海野の隣に座った林が、ペットボトルの水を豪快に飲み始めた。

 それが引き金になったようだ。強烈な尿意に襲われた。祥子は自分の顔が歪むのが分かった。無理だ。とてもじゃないけど、プレゼンなんかできない。

「すみません、中座させてください。すぐに戻ってきます」

 誰にともなく言うと、うつむきながら、小走りで出口へ向かった。皆の視線が全身に突き刺さるようだった。海野が怒鳴り声を上げた。

「どいつもこいつもたるみすぎだ!」

 小走りでトイレへと急ぎながら、唇を噛み締めた。

 休日返上で都内の主なスーパーをはしして自主リサーチを行った。昨日だって、帰宅した後、午前二時まで資料をブラッシュアップしていたし、今日は三十分前に出社した。これ以上ないほど意気込んで会議に臨んだのだ。なのに、たるみすぎだなんて言われたらあまりに救われない。目の奥から熱いものがこみ上げた。でも、涙より先に出したいものがある。

 祥子はトイレへ急いだ。

 

 昼休みに入ると、経理部に所属する橋爪はしづめ美紀みきとエレベーター前で落ち合った。社内でたった一人の女性同期である美紀は、息子が四月から保育園に入ったのを機に育休を終えて復職した。特別仲がいいわけではなかった。しかし、廊下で顔を合わせたとき、週に一度ぐらいは外食したい、付き合ってくれと言われたので、金曜は二人で外にランチに行っている。

 エレベーターに乗り込むと、祥子は美紀に尋ねた。

「今日は何食べる?」

 間髪を容れずに美紀は答えた。

「辛いもの! 家では息子に合わせて薄味のものばかり作ってるから、刺激に飢えてるんだ」

「それなら四川料理は? 去年できたお店があって、麻婆豆腐が美味しいよ」

「うーん、本格中華はパス。花椒ホアジヤオだっけ? しびれる香辛料が苦手なんだ。油がきついのもちょっと」

「じゃあ、タイ料理とか? 橋爪さんが気に入ってた店、まだあるよ」

「あそこは並ぶよね」

 エレベーターを降り、ビルの外に出ると、青空が広がっていた。日差しはそこまで強くなく、風は爽やかだ。

 美紀は、「どうしようか」と言いながら祥子の顔を見上げた。小柄で華奢な美紀は、女学生のように見えた。

 それはともかく、辛いものか……。

 中華、タイ料理がNGなら、残るはカレーぐらいだろう。近場のカレー店はコスパ重視の全国チェーンしかない。

 キッチンカーはどうだろう。歩いて五分ほどの高層オフィスビルの前に、人気のスパイスカレーを出すキッチンカーが来ていると聞いたことがある。天気もいいし、公園のベンチで食べたら気持ちがよさそうである。

 提案すると、美紀は不満そうに頬を膨らませた。衛生面が気になるという。しかし、代案を考えるのも面倒だと思ったのだろう。

「子どもに食べさせるわけじゃないし、たまにはいいか」

 やれやれと思いながら、祥子は歩き始めた。

 

 空いているベンチをみつけ、二人で並んで腰を下ろした。

 人気店だけあって、その店のバターチキンカレーは絶品だった。付け合わせのアチャール、野菜や豆の漬けものも、彩り豊かで味もいい。美紀も気に入ったようだ。「こういうのが、食べたかったのよ」と言いながら、スプーンを口に運んでいる。

「そういえば祥子ちゃん、今朝はプレゼン会議だったよね。どうだった?」

 チキンを飲み込むと、祥子は作り笑いを浮かべた。

「今回は無理っぽい。準備不足だったから、しかたないかな」

「ふーん、そうなんだ」

 本当はそうじゃない。トイレに行っている間に、別の社員のプレゼンが始まっていた。祥子は彼の次に演台に立った。海野が不快感をあらわにしているものだから、プレゼンはボロボロだった。発表を終えるのと同時に海野は「準備不足。却下、却下」と吐き捨てた。

 案自体は絶対に悪くなかったと思うのだが……。

 紫キャベツのアチャールを噛み締めながら、ふと思った。美紀に悩みを打ち明けてみようか。

 迷っていると、美紀がため息をついた。

「実は昨日、息子が保育園で熱を出してね。大事な会議を抜け出してお迎えに行かなきゃならなくて……」

 一昨日の夜、夫に「明日は決算関係の重要な会議がある」と伝え、保育園から緊急連絡が入ったら、対応してもらう約束をしていたという。保育士にもその旨を伝えておいた。

「なのに、旦那が電話に出ないもんだから、私に連絡が来たの。父親なのに無責任すぎると思わない? 急な商談が入ったらしいけど。そもそも、家事だって、半々に分担する約束だったのに、いつの間にかほとんど私がやってる。もう、くたくたよ。なのに、明日から旦那の両親が泊まりで遊びに来るんだって。勝手に旦那がオーケーしちゃってさ」

 また愚痴かと思ったが、「大変だね」と話を合わせた。

「しかも、義母は危なっかしいの。ずいぶん前のことだけど、朝食の準備をお願いしたら、息子に食べさせるヨーグルトにもはちみつを入れたのよ。一歳未満にはちみつはダメだって常識だよね」

 カレーを食べ終わっても、美紀の愚痴は終わらなかった。相当ストレスが溜まっているようだ。

 それでも少し羨ましかった。彼女は、自分が選んだ人生を前に進んでいる。それに引き換え自分はどうだ。尿意に振り回され、仕事すらままならないなんて、とことん冴えない人生だ。

 スマホの時刻表示をチェックした。昼休みは、もうすぐ終わる。美紀に話を聞いてもらう時間はなさそうだ。

 祥子は笑顔を作ると、美紀に声をかけた。

「そろそろ戻ろうか」

「えっ、そんな時間?」

 美紀は驚いたように腕にはめたスマートウォッチを見た。

 

 

 

 翌日の午前中は、洗濯機を二度回し、部屋の掃除を徹底的にした。このところ、週末もプレゼン会議の準備に追われていた。完全オフは久々だ。

 冷凍庫で眠っていた和風パスタをレンジで温めて遅い昼食を済ませると、東中野の駅のほうに徒歩で向かった。昨夜ゆうべ、駅の近くにあるフィットネスジムを見学する予約を取ったのだ。

 トレーニングマシン、スタジオ、更衣室などを見学した後、トイレを確認した。清潔だし、個室も十分な数があった。その後、フロントのカウンターで、料金システムの説明を受けた。

 今日、入会を決める気はなかった。「見学後」、「断り方」で検索をかけた結果を参考に、丁寧にお礼を述べ、他施設も見学して決めたいと説明してジムを後にした。

 スーパーで食料を買い込むと、東中野を南北に縦断する道を北に向かって歩き始める。

 さて、どうしよう。運動は苦手だ。気乗りがしない。

 なのに、ジム通いを思い立ったのは、ストレス解消のためだ。ゴマ塩あごひげも、「心因性の頻尿はストレスが原因の一つ」と言っていた。

 真っ先に思い浮かんだストレス解消手段は、高校から大学にかけて打ち込んでいたチューバの演奏だ。いつか社会人向けの吹奏楽団に入りたいと思っていたのだ。しかし、すぐに気づいた。楽団に入るのは無理だ。練習はともかく、演奏会に出る自信がない。

 気分を変えるために一人旅でもと思ったが、ここでも心配になるのは移動中のトイレだ。映画鑑賞も途中で席を立ちにくい。

 トイレの心配をしなくていい趣味は……。いや、そもそも自分は趣味を探しているのではない。ストレスを解消したいのだ。

 ストレス解消の王道と言えば運動だろう。好き嫌いの問題ではなく、やるしかない。とはいえ、一万円もの月会費を払って、嫌なことをするなんて。

 思い悩みながら歩道を歩いていると、知っている店の前に、立て看板が出ていた。日中はカフェ、夜は軽食とアルコールを出すバーとして営業をしている。祥子は休みの日に時々このカフェを利用していた。落ち着いた雰囲気の女性バリスタが、美味しいコーヒーを淹れてくれるのだ。新しいサービスでも始めたのだろうか。

 足を止め、看板に視線を走らせる。

 ――お医者くんのカフェタイム。火、木、土。14時~17時。

 お医者様でも、お医者さんでもなく、お医者くん……。アニメかゲームのキャラクターの呼び名だろうか。

 袖看板の店名を確認した。店名はこれまでと同じ「カミナーレ」。経営者が替わったわけではなさそうだ。

 祥子は立て看板の説明を読み始めた。

 ――お好きなドリンク(1500円)を楽しみながら、カウンターの中にいる「お医者くん」と健康管理や気になる症状についてお話ししませんか? お医者くんは、医師免許を持っている医師です。健康に関するよもやま話はもちろん、簡単な医療相談ならその場でお答えできます。個別相談をご希望の方には、後日別料金で対応します。詳しくは店主またはお医者くんにお尋ねください。

 お医者くんは、二次元のキャラではなく、実在する医師のようだ。雑談に応じ、相談にも乗ってくれるらしい。

 寄ってみたい気がした。

 

(第2回につづく)