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日曜日のせいか、都内の道路は比較的空いていた。東中野を南北に走る道の途中で、優斗は車を停めた。カーナビの画面と窓の外を交互に見ながら、外を指さした。
「あのビルみたい。看板も出てる」
美央も後部座席の窓から外を見た。「カフェ・カミナーレ」という名の店が確かにある。
真鈴はチャイルドシートで熟睡していた。このまま、しばらく寝ていてくれるといいけど、どうだろう。
美央はドアのハンドルに手をかけた。
「真鈴のこと、しっかり見ててね」
バックミラー越しに優斗が視線を送ってきた。
「東中野の家で待ってちゃだめかな……。俺が責任を持って真鈴を見る。父はゴルフでいないから、駐車場も使えるらしいし」
美央は首を横に振った。ここから車で五分もかからない場所に、わりと大きな公園がある。そこで真鈴を遊ばせながら待っていてもらう約束だ。
「言ったでしょ。優斗がそこまで困っているなら、お医者さんの話を聞いてもいい。でも、真鈴をあの家には行かせたくないの」
優斗は、あっさりうなずいてくれた。
「じゃあ、公園で待ってる」
美央としては、啓子の知り合いだという医者の話を聞く気はなかった。そうもいかなくなったのは、キムチを突き返して追い出した日から、啓子が優斗に昼夜問わず何度も電話をかけるようになったからだ。「鬼電」と呼ばれる迷惑行為である。
――美央さんはやっぱり潔癖症よ。精神的に不安定にもなってる。すぐに医療相談を受けさせたほうがいい。美央さんを説得しなさい。
啓子は電話でそう繰り返すのだそうだ。
優斗は着信を無視することにした。すると、啓子は会社に電話をかけてくるようになった。同僚から文句が出て、優斗はとうとう音を上げた。
――悪いけど、協力してくれない? 一時間だけだっていうから
場所は、東中野のカフェ。そこのスタッフである医師が、個別相談に応じるそうだ。料金の一万円は、啓子が出すという。
カフェで働く医者なんて、聞いたことがない。東中野まで行くのは面倒だし、啓子の知り合いだというのも引っかかる。そもそも自分は潔癖症ではない。鬼電に屈するのにも反対だ。
まずは啓子に謝罪か反省をしてもらいたかった。そのうえで、今後について話し合いたい。悪いのは啓子だ。なのに、啓子の言いなりに、医師の話を聞くなんて悪手だと思う。
しかし、優斗には彼なりの考えがあった。
――その医者に「潔癖症ではない」っていうお墨付きをもらってきなよ。
そうすれば、啓子も考えを改めるはずだという。その可能性はあると思った。それに、引っ越しの計画も控えている。啓子といつまでもいがみ合っているわけにもいかないのだ。
啓子には、優斗を通じて自分の意向を伝えた。
――そのお医者さんに会ってもいいけど、同席は遠慮してほしい。面談している間の真鈴の面倒は、優斗にみてもらう。
啓子は、当初、自分も同席すると言い張っていたが、「だったらこの話はナシだ」と強気に出たら、折れてくれた。
いよいよこれから面談だ。有意義な時間になれば嬉しいのだけれど……。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」
なるべく静かにドアを閉めたが、振動と音が伝わったのだろう。チャイルドシートで真鈴が目を開けた。寝起きのぼんやりとした目で、美央を捜している。
車内に戻りたかったが、約束の時間まであと一分しかない。自分も真鈴も一時間の辛抱だ。後ろ髪を引かれる思いで、美央は車を離れた。
カフェ・カミナーレのドアを押して中に入った。カウンターとテーブル二卓のさほど大きくない店だった。テーブルや椅子は明るい色調の木製で椅子の座面には、ブルーグレーの人工皮革が張ってある。清掃も隅々まで行き届いているようだ。なかなかいい雰囲気の店である。
奥のテーブル席で男性が腰を上げた。比較的小柄で、ふっくらした身体つきをしており、髪を短く刈り込んでいる。紺と赤の細い縞が縦横に交差したタッターソールチェックのシャツを着ていた。
医師らしくない服装だ。しかし、カフェで患者の相談に乗るのに、白衣を着ていたらむしろ場違いだろう。
会釈をすると、男性が口を開いた。
「大河内美央さんですね? 医師の丸山賢太です。丸くんと呼んでください」
びっくりしたが、丸山の意図は理解できた。元職場の辣腕デザイナーは、親しみやすい雰囲気づくりを狙って、年下の同僚を「ちゃん」づけで呼んでいた。たぶん、それと同じだ。
丸山はテーブルに置いてあるペットボトルの水を手で差した。
「こんなものしか出せなくてすみません。カフェの仕事にまだ慣れてなくて……。それで今日はどうされました?」
「えっと、義母から聞いてませんか?」
丸山は、弓形の太い眉を寄せると、口元に微笑みを浮かべながらうなずいた。
「うーん、そうですね。あれこれおっしゃってました。でも、今日は美央さんの話を聞く場です。困りごとがあれば、聞かせてください」
「困りごと、ですか」
「ええ。啓子さんの前では話しづらいこともあると思うので、彼女の同席は断りました。面談の内容も、美央さんの許可がなければ啓子さんには話しません」
啓子の知り合いだというので、丸山を警戒していた。でも、それは性急だったらしく、丸山はフェアな人のようだ。であれば、悩みを正直に話してみようか。前々から、優斗以外の誰かに話を聞いてほしいという気持ちはあった。ママ友とはそれほど親しい仲でもないので、深刻な話は打ち明けづらかったのだ。
なんだか喉が渇いていた。美央はペットボトルを開けて水を一口飲むと切り出した。
「義母に潔癖症だと決めつけられて、困っているんです。二歳の娘に悪影響があるって騒ぐものだから、頭に来ちゃって」
丸山は、うん、うんと二度うなずいた。
「自分でもきれい好きだとは思います。でも、潔癖症だとは思っていません。私に言わせれば、義母の衛生観念のほうに問題があるっていうか」
「どういうところが気になりますか?」
「たとえば、自分が口に入れた箸を使って、娘に食べさせようとするんです」
丸山は、うん、とうなずいた。
「最近は、伝統食品や発酵食品がマイブームみたいで、素手で握ったおにぎりや、イカの塩辛が入っている手作りキムチを持ってきて娘に食べさせようとします」
丸山は腕を組むと首を横に振った。
「二歳でキムチはないなー。うちの子は小一だけど、まだ食べさせていません」
「義母は、表面の唐辛子を洗い流したから大丈夫だ、本場ではそうしているって言うんです」
「それは知りませんでした。でも、そこまでして食べさせなくてもいいですよね。おにぎりも、自分や家族が握ったものをその場で食べるならいいけど、衛生観念に不安がある人が何時間も前に握ったものは僕は無理だな」
「義母によると、手の常在菌が腐敗を防ぐんだそうです」
丸山は顔をしかめた。
「普通に考えて、科学的根拠はないと思います」
やはりそうなのだ。
美央は、啓子の衛生観念について、気になっていることを挙げていった。調子に乗りすぎているかもと思ったが、次々と溢れ出す言葉を止められない。
賞味期限が切れた食品を食べさせようとする。夏場、麦茶に入れる氷は角が取れて小さくなっている。作ってからかなり日が経っているはずだと指摘すると、氷が腐るはずがないと開き直る。
「義母の家のキッチンの蛇口が最悪でした」
今年の秋、啓子が真鈴を夢中であやしているとき、こっそりキッチンに行って、蛇口を取り外してみた。洗い物をしているとき、ヤバそうだなと思ったのだ。
案の定、蛇口の内部には水垢が溜まり、黒カビが発生していた。こんな蛇口を通過してきた水を自分も真鈴も口にしたのだと思ったら、吐き気がこみ上げてきた。
早速、蛇口を分解し、塩素系漂白剤で消毒していたら、啓子がキッチンに入ってきた。カビが生えていたと訴えると、悪びれる様子もなく「生水を飲んでるわけじゃないし、平気でしょ」と言ったのだ。今、思えば、あのとき初めて啓子から「潔癖症だ」という指摘を受けたのではなかったか。
丸山が同情するように目を瞬いた。
「旦那さんの実家に行くのは気が重いでしょうね」
「お正月の集まり以外、極力避けています。娘が乗り物酔いしやすいので遠出は難しいと嘘をついて……。ただ、義両親が娘に会いたい気持ちは分かるんです。なので、遊びに来てもらうようにしていました。でも、さっき話したように、不潔な食べ物を持ってくるし、手を洗わずに、娘を抱こうとするし……。そんな人に、『あなたは潔癖症という病気だから、医師に相談するように』と言われても、納得できなくて」
丸山は、うん、うんと二回うなずいた。
「そもそも、医師ではない人が、他人を病気だと決めつけちゃダメですよ。気分が悪かったでしょう」
分かってもらえて、よかった。そう言えば、優斗からお墨付きをもらうようにと言われていたのだった。
「私、潔癖症ではないですよね?」
丸山は申し訳なさそうに頭を下げた。
「精神科は専門外なので……。あと、潔癖症って、正式な病名じゃないんですよね。説明しますが、その前にもう少し聞かせてください。美央さんは、自分がきれい好きで困っているわけではないですよね?」
「まったく困っていません。義母にあれこれ言われることを除けば」
「旦那さんはどうですか? きれい好き過ぎるのは困ると言われたことは?」
「ありません。でも、結婚直後は多少ぎくしゃくしました」
――帰ったら手を洗う、使った食器を翌朝までシンクに置きっ放しにしない。トイレの水は、便器の蓋を閉めて流す。
美央にとっては当たり前の習慣が、優斗にはなかったからだ。
「でも、頼んだら、協力してくれるようになりました」
「なるほど。たとえば、服を玄関で着替えてもらったり、浴室に直行してもらったりは?」
美央は思わず目を見開いた。
「そんな人もいるんですか?」
丸山はテーブルの上で手を組むと、「強迫性障害」という精神科領域の病気について聞いたことはあるか、と尋ねた。
「不安や恐怖にかられ、意味があるとは言えない行動を繰り返してしまう病気です。その結果、本人や家族の生活がままならなくなってしまう」
強迫性障害の患者の中に、細菌や汚れ、つまり不潔さを過度に恐れる人たちがいる。
「そういう人たちを俗に『潔癖症』と呼ぶようです」
本人や家族が困っている。本人は行動を改めたいと思っているのに、止められないのが特徴だそうだ。
「たとえば、手を何時間も洗い続けたり、外出先でトイレを使えなかったり……。さっき言ったように、家族に玄関で服を脱いでもらったり」
「それは大変ですね。私はそこまでは……」
「そうですか。さっきも言ったように、精神科は専門外です。でも、今の話を聞く限り、専門医の受診を勧めようとは思いません。啓子さんとのいざこざ以外に困りごとはないわけだし」
潔癖症ではないというお墨付きをもらったも同然である。美央の頬が緩んだ。しかし、丸山の顔に笑みはなかった。むしろ、申し訳なさそうである。
「ただ、啓子さんを全否定するのはどうなのかと……」
美央は神妙にうなずいた。啓子をやっつけたいわけではない。考えを改めてもらいたいだけだ。全否定は避けたほうがいい。
「発酵食品が身体にいいのは、その通りだと思っています。義母に糠漬けを勧められました。娘は食べられないけど、夫の好物だし、挑戦してみてもいいかなって。冷蔵庫で保管したらカビも生えにくいようだし」
「糠漬けですか。いいですね。それはそれとして……」
丸山は後頭部をバリバリ掻くと、恥ずかしそうに言った。
「賞味期限を過ぎた食べ物は、食べられないわけではないですよね。僕の家では食べちゃうことってわりとあります。今朝も妻が、昨日が賞味期限のちくわをピーマンと炒めてました。蛇口の分解清掃も、やったほうがいいのは分かってるけど、実はサボりがちだったりします」
美央の顔が険しくなったのが分かったのだろう。丸山は慌てたように言った。
「あくまで僕の家の話です。ちなみに、このお店では賞味期限切れのものは出しません。水回りの掃除もちゃんとしています。飲食店は、食品衛生法を守らないと保健所に怒られちゃうし、食中毒なんか出したら死活問題ですから。ただ、個人宅の場合、個人の裁量が大きいというか、本人の自由というか……。是非を線引きするのは難しいんじゃないかなあ。ただし、自分が妥当と考える線引きを相手に押しつけるのは、よくないですよね。モラル的にアウトだと思います」
それはそうだ。美央だって、啓子が不潔なものを食べるのを止めようとまでは思わない。食べさせられるのが嫌なのだ。
「押しつけるんじゃなくて、お願いしてみるのはセーフかな。あと、お願いのしかたですよね」
たとえば、素手ではなくラップやビニール手袋を使っておにぎりを握る方法は、公的機関が推奨している。
「検索すればすぐに情報が出てくると思います。それを見てもらったら相手は受け入れやすいかもしれません」
啓子にそれが通用するかどうか。でも、一つの考え方ではある。
「それと、落とし穴には、気をつけたほうがいいかもしれないです」
「落とし穴、ですか……」
「間違った情報を正しいと思い込んでいることって、誰にでもあると思うんです」
「分かります。義母がまさにそれで」
丸山は、曖昧に首を横に振ると、ゆっくり話を始めた。
医療や健康に関する情報は、身の回りに溢れている。中には、間違っているものや、古くなっているものもある。自分の知識が正しいかどうか確認したり、知識をアップデートする必要がある。
「たとえば、直箸や食器の共用ですが、あまり気にしなくてもいいようですよ」
「いや、でも、虫歯菌が……」
うつってしまうのではないか。昔の親がやっていたように、噛んだものを子どもに与えるのは論外。食器の共用も避けるべきだと聞いている。
「虫歯菌は、正式にはミュータンス連鎖球菌っていうんですが、僕も妻に言われて、めちゃくちゃ気にしていました。ところが、何年か前に、歯科予防の研究者たちが所属している学会から『そこが問題ってわけでもない』っていう突っ込みが入ったんです」
虫歯菌は、子どもが離乳食を開始する生後四か月以前、すなわち食器を使い始める前から、スキンシップを通じて親から子へと感染してしまっているケースが多い。なのに、食器の共用に目くじらを立てる必要はないという内容の声明を発表したのだそうだ。
「それより、歯磨きの習慣をつけたり、仕上げ磨きを親がやってあげるほうが、虫歯予防には大切なんだそうです」
そう言えば、ママ友の一人が、そんなことを言っていた。あり得ないと思って聞き流してしまったが、今の丸山の話を聞く限り、その人の情報は正しかったようだ。
だとしても、直箸や食器の共用が不潔であることに変わりはない。
「でも、唾液って雑菌まみれですよね」
「それはそうなんですが、唾液には有用な物質、たとえば抗菌物質なんかも含まれています。さらに言えば、最近、親の唾液によって子どものぜんそくやアトピーを予防できる可能性があるという研究結果が出ています。おしゃぶりを親が口に含んでから与えると、子どものアレルギーの発症率が下がるんだとか」
ぞっとした。親子であっても、おしゃぶりを共用するなんて考えられない。悪質な冗談かと思ったが、丸山の表情は真剣だ。
「腐ったものを食べればお腹を壊します。不潔な環境で生活するのも健康によくありません。でも、子どもの免疫システムは、土、ペット、食べものなど、様々なものを通じて体内に細菌を取り込むことで完成するらしいんです。そんなわけで、清潔すぎるのはよくない、という啓子さんの言い分にも、一理あるようです。要は程度問題というか、お互い様というか」
美央は唇を噛んでうつむいた。
――清潔すぎるのはよくない……。そんなことが本当にあるのだろうか。
ここまでの丸山の態度は終始フェアで、啓子の肩を持っている印象はなかった。丸山が嘘を吐く理由もみつからない。
それでも、認めたくなかった。清潔が悪だなんて、あり得ない。これまでの自分を全否定されるようだ。お互い様だなんて、とてもではないが思えなかった。
喉が猛烈に渇いていた。心臓もバクバクしている。水を飲んでみたが、動悸は治まらなかった。背中全体で息をしながら、テーブルをみつめる。
「それはそうと、娘さんと外遊びはしていますか?」
丸山に声をかけられ、我に返った。
「あっ、はい。公園にはよく行きます。友だちのおうちでワンちゃんと遊ばせてもらったりもするし」
丸山の顔に笑みが広がった。
「だったら、清潔すぎるということはなさそうです。すみません、余計なことを言って、不安にさせてしまったかもしれません」
美央は強張った表情のまま、うなずいた。
ほっとはしたが、丸山の言葉にえぐられた胸が、今もうずいている。
壁にかかっている時計を見た。面談開始から一時間以上が過ぎていた。
美央は、椅子の背にかけておいたバッグに手を延ばした。バッグを膝に載せ、丸山に頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
不満が顔に出ていたのだろう。丸山が、焦った様子で言った。
「僕の説明、分かりにくかったでしょうか。病院やクリニックに勤めていた頃には、診察に直接関係ない話をするなと上司に怒られてばかりでした。患者の話を長々と聞いたって、意味がないとも……。一般の医療機関は保険診療なので、採算を取るには、三分間診療でもしかたがないところが確かにあるんです。でも、じっくり時間をかけて話さないと、腑に落ちないこともあると思うので……。それでこの仕事を始めたんです」
裏を返せば、勤務医として不適格の烙印を押されただけではないだろうか。
ただ、今日の面談に意味がなかったとは思わない。
「自分が潔癖症じゃないと分かってよかったです」
美央が言うと、丸山は悲しそうに目を瞬いた。
「そうですか……。今日は啓子さんのご要望で、有料の医療相談という形を取りましたが、僕がお店に出ている火、木、土のカフェタイムであれば、ドリンク込みで千五百円で気軽にお話しできます」
その時間帯の店を「お医者くんカフェ」と称しているのだそうだ。
「お気軽にどうぞ。僕はお医者様でも、お医者さんでもなく、お医者くんです。名医からはほど遠いし、なんでも知ってるスーパーマンでもありません。でも、一緒に考えたり、調べたりすることはできると思うんです」
美央は曖昧に微笑んだ。
丸山は誠実な人なのだろう。でも、今の自分に彼の言葉を受け入れる心の余裕はない。