ランチタイムが始まる少し前に、販売員は意気揚々とした表情で席を立った。今日は栄養補助サプリを売りつけることに成功したようだ。めぐみは、忸怩たる思いで二人の背中を見送った。
今日中にホームページの文言を書き換えよう。「カフェタイムの打ち合わせは可、訪問販売等商品の売り込みは不可」とでも書けば、分かってもらえるだろうか。
その日、めぐみはランチタイムの途中で店を抜けた。木曜のランチタイムと午後のカフェタイムに来てもらっているアルバイトの女性は、若いころカフェに勤めていたそうで、コーヒーを上手に淹れる。平日の用事は、木曜に入れることにしている。
今日は月に一度の通院日だった。めぐみには喘息の持病がある。離婚して実家に戻ってから、発症した。薬で症状を抑えることができており、日常生活に大きな支障はないが、完全に治る病気ではないそうで、定期的な通院と服薬を続けている。
着替えのため、いったん建物の六階にある自分の部屋に戻った。仕事用の白シャツと黒いパンツをリネンのワンピースに着替える。先月、横浜で開かれた商談会からの帰り道、小さなブティックのショーウインドーに飾ってあるのを見て、衝動買いしてしまった。
着替えを終え、鏡に全身を映すと、思わず笑みが漏れた。紫陽花のような色と身体のラインを拾わないゆったりとしたデザインが、我ながら似合っている。
仕事着が嫌いなわけではないが、こういう服のほうが落ち着く。元来、人前に出たり、人に指図をしたりするのが得意ではないのだ。オフのときは、できるだけ素のまま過ごしたいと思いながら、めぐみは部屋を出た。
かかりつけのクリニックは、東中野駅の反対側にあった。外に出ると日傘を差して歩き出す。
今のクリニックに通い始めたのは、半年ほど前だ。それ以前は、引っ越す前に通っていた実家近くの個人クリニックに片道四十分かけて通っていた。そのクリニックの医師は腕がいいと評判だったからだ。にもかかわらず、かかりつけを変えたのには理由がある。
去年の秋、ホール担当のアルバイトが突然辞めた。求人サイトで募集をかけても、適当な人材がみつからず、めぐみが朝から晩まで店に立つ羽目になってしまった。そんな状況では通院もままならない。診察の予約を何度か先延ばししたら、薬が切れてしまった。
年が明けても体調に変化はなかった。そもそも、一年ほど前から症状は安定していたのだ。そのうち、「薬を止めるいいきっかけだった」と考えるようになった。
実はそろそろ薬を止めたいと思っていたのだ。その旨医師に伝えたこともある。医師は露骨に嫌な顔をして「あなたが決めることじゃない」と言った。でも、自分の身体は自分が一番よく分かっている。
しかし、喘息という病気は甘くなかった。ある日、いきなり発作を起こしてしまったのだ。
救急車を呼ぼうかと思ったが、そこまでひどくなさそうだったので、タクシーでかかりつけ医のもとに駆けつけたところ、その医師は皮肉な笑みを浮かべた。
――だから言ったでしょ。言う通りにしてればよかったんだ。
それを聞いて、涙ぐんでしまった。元気な時ならまだしも、こっちは体調が悪いのだ。そこまで言わなくてもいいではないか。
そのしばらく後、ネットで見つけたのが、今通っているクリニックだ。自宅から徒歩十分。経営母体が有名な医療法人なので安心感がある。それ以上の決め手となったのが、ホームページに掲載されていた院長の写真だった。顔も身体も丸いその医師は、人の好さそうな笑顔を浮かべていた。この丸山という名前まで丸い医師なら、患者の気持ちを踏みにじったりしないだろう。そんな気がした。
早速予約を取って受診してみると、丸山はめぐみが受けた印象通りの医師だった。
かかりつけ医を変えた理由を聞かれたので、ありのままを話したところ、丸山は腕組みをしてうなずいた。
――その先生と同じ経験があるので、皮肉を言いたくなる気持ちは分かります。でも、苦しい思いをした患者さんは、反省しているに決まってます。追い打ちをかけなくてもいいと思うんだよなあ。医者嫌いを増やしても、いいことなんかないですよ。
その言葉を聞いて、丸山に診てもらいたいと思った。共感してもらって嬉しかったのもあるが、それだけではない。フェアで信用できると思ったのだ。めぐみにも落ち度はあった。それを棚に上げて、前の主治医を批判するだけだったら、逆に警戒していたと思う。
その日から、月に一度の通院が始まった。
それまでのめぐみは、医師と患者の間で対等な会話が成り立つとは思っていなかった。患者にとって、医師は畏れ多い存在だ。知識に雲泥の差があり、大げさに言えば生殺与奪の権を握られているも同然だ。だが、丸山の診察を受けているうちに、必ずしもそうではないと思うようになった。相手の医師によるのだ。
めぐみが何を話してもどんな質問をしても、丸山は嫌な顔をしない。説明が回りくどくなったり、話が脱線しても、うなずきながら聞いてくれる。相手が自分の言葉を受け止めてくれていると思うと、リラックスして話ができた。
前回の診察のとき、話の流れで薬も変えてもらった。「日によって店に出ている時間が違うので、毎日十二時間間隔で服薬するのが難しい」と話したところ、それまで使っていた一日二度の吸入薬を一日一度のタイプに替えてくれた。それだけで服薬のストレスが減った。
真正面から顔を見てくれるのも、話しやすい理由の一つかもしれない。前の主治医は、キーボードに手を置き、身体をひねった状態で問診をするのが常だった。その間、視線はめぐみと電子カルテのモニターの間をせわしなく行き来した。そんな雰囲気の中では、言いたいことを言えず、聞きたいことも聞けなかった。それどころかビクビクしていた。なのに、診察が終わると、「片道四十分かけて通い、三十分待って診察を受けたのにあれだけか」と、物足りなさを覚えるのだ。
かかりつけ医を変えて本当に良かった。丸山のような理想的な医師と出会えた自分は幸せだ。
わずか十分とはいえ、猛暑日の午後早い時間に徒歩移動は、思いのほか過酷だった。クリニックが入っているビルにたどり着いたときには、全身が汗だくだった。日傘を畳んで中に入るとエレベーターで二階まで上った。降りるとすぐ目の前に、クリニックの入り口がある。
午後の診察時間は二時からだ。十分前だったが、待合室には先客が三人いた。
めぐみは二時の予約を取っているが、このクリニックの予約はきっちりしたものではなく、三十分刻みの枠に数人を入れる方式だ。先客もめぐみと同じように、午後の診療が始まる二時からの予約を取っているはずだ。今日は結構待つことになるかもしれない。
受付をすませると、めぐみは廊下の奥にあるトイレに向かった。トイレが使用中だったので、廊下のベンチに座って待っていたところ、近くにあるドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。丸山がスタッフと話をしているようだ。
盗み聞きをするのはよくないと思って、腰を上げかけたところ、怒りのこもった男性の声が聞こえてきた。
「何度も言わせないでください。丸山先生の診察は長すぎるんです。患者に好きなように話をさせて、なんの意味があるんですか」
「いや、でも、しっかり話を聞かないと、患者さんがなんで困っているのか、何を求めているか、分からないですよね」
ボソボソとした声で答えているのは丸山だ。
「問診表に書いてもらえばいいでしょう。書けない、書かない患者については、受付のスタッフにサポートするよう、僕から言っておきます」
「うーん、でも、本人が話しているうちに、気づくこともあると思うし」
めぐみはそっと唾を飲み込んだ。
丸山と対峙しているのは、クリニックの経営母体である医療法人の幹部のようだ。
トイレのドアが開き、女性が出てきたが、二人のやり取りが気になってその場から動けなかった。
幹部らしき男性が、大きなため息をつく。
「僕だって患者とゆっくり話したいですよ。親身になってくれるいい先生、と呼ばれたい。でも、保険診療でそれをやったら、採算が取れないんです。午後遅い時間に来院する患者からは、帰りが夜遅くなって困るというクレームも入っています。診察時間が延びるから、先生はもちろんスタッフの残業代も発生する」
「分かります。でも、患者さんの……」
相手は丸山に最後まで言わせなかった。
「先生が垂れ流す赤字の始末を僕や他の先生にさせるんですか? 他の患者を待たせてまで、長話を聞く必要があるんですか?」
「そんなつもりは……」
「結果的にそうなる。だから、改善を求めているんです。納得できないのなら、自分で開業したらどうですか。赤字の責任を取る気もないのに、採算度外視で好きなようにやりたいなんて虫が良すぎる」
だんだん聞いているのが辛くなってきた。動悸も速くなってきた。めぐみは、そっとその場を離れた。
トイレをすませ、待合室に戻った。いつもは文庫本を読んで時間を潰すのだが、そんな気になれなかった。
廊下の奥から、スーツを着た初老の男性が出てきた。興奮が冷めやらないのか、頬は紅潮し、口元をひくつかせている。男性は受付の女性スタッフに声をかけると、大股でエレベータへ向かった。
看護師による診察室への呼び込みが始まった。自分の順番はしばらく来ないだろうと思いながら、めぐみは目を閉じた。
自分にとって丸山は理想の医師だった。その思いは今も変わらないが、幹部の言い分も理解できた。
たとえばの話、蒼空が注文が入った料理を作るのをそっちのけに、別の客とカウンターで話し込んでいたとしたらどうだろう。カウンターの客は「理想的な接客をしてもらった」と喜ぶかもしれないが、待たされている客は不愉快に思うに決まっている。めぐみとしても、看過できない。料理を待っている客に失礼だし、店の混雑具合にもよるが、回転率が落ちて収益が減る。
師匠に当たる老店主は言っていた。
――収益はどうでもいい、お客さんを喜ばせたいという経営者もいるけど、それは間違っている。赤字が続けば店は潰れる。店を潰すことが、お客様への最大の裏切りだ。
さっきの幹部の言葉を好意的に翻訳するなら、そういうことだろう。それでも、丸山のやり方を否定したくなかった。では、どうするのがいいのか……。
看護師に名前を呼ばれた。気持ちを整理できないまま診察室に入ると、丸山は何事もなかったように、笑顔で迎えてくれた。
「水島さん、こんにちは。新しい薬はどうですか?」
ゆったりとした口調も、いつもと変わらない。仕事のやり方を全否定され、正論で詰められたら、心がくじけてしまいそうなものなのに……。
丸山はとてつもなく打たれ強いのか、柳に風とばかりに批判を受け流す性格なのか。あるいは、上司の言葉を正論と思っていないのか。
うつむいた瞬間、ハッとした。丸山は片方の足でもう一方のつま先を踏んでいた。よく見ると、首の筋も妙な具合に浮き出している。胸の中で渦巻く屈辱感や怒りを抑えながら、笑顔でめぐみと向き合っているのだ。
悲しような、切ないような、複雑な感情がこみ上げた。めぐみは思わず口走っていた。
「実はさっき……。クリニックの経営はよく分かりませんが、これだけは言わせてください。私、丸山先生に診てもらうようになって、本当によかったです」
唐突な告白に戸惑ったのだろう。丸山は首を傾げた。しかし、すぐに状況を把握したようだ。目を瞬くと、泣き笑いのような表情を浮かべた。