いつの間にか梅雨に入ったようだ。金曜日の昼休み、鞄からスマホと財布を出して、昼食のときに持って出る小さなトートバッグに移していると、部長の井岡が側に来た。

「大場さん、ちょっといい?」

「ああ、はい」

 何か話があるのだろうか。自分だけ座っているのはまずいので立ち上がる。

「先月のプレゼン会議は残念だったな。でも、気にするな。誰にだってスランプはある」

 スランプ……。井岡の目には、そんなふうに映っているのか。

 サーモンとブロッコリーの二色丼は、自分としては自信作だった。発表を途中で投げ出さなければ、今頃は、新商品のメイン担当として、忙しく過ごしていたと思う。

 でも、そんなことを言ってもしようがない。祥子は黙って頭を下げた。

「それはそうと、来月、アメリカに市場調査に行くことになったんだ。社長がトップのチームを作って、ニューヨーク、ロス、シアトルを回ってくる」

 ハッピーマリンは、中長期的な目標として、アメリカ市場の開拓を掲げていた。ヘルシー志向の高まりもあり、寿司を始めとする日本食はかの地で人気を博している。

 いずれは現地に工場も持つつもりだと、海野は鼻息を荒くしていた。いよいよ、その第一歩を踏み出すことになったようだ。

「いいですね。どのぐらいの期間ですか?」

「二週間。それでだな。大場さんもチームに参加してほしいんだ」

「えっ、私? てっきり社長に嫌われたとばかり」

「僕が大場さんを推した。今はスランプだけど、期待の若手だと思ってる。向こうの空気を吸ったら、スランプ脱出のきっかけもつかめるんじゃないかな」

 祥子の胸が高鳴った。井岡が、ちゃんと自分を見ていてくれたのが嬉しかった。

 それに、この会社に就職したのは、子どもの頃から大好きなにぎり寿司を、世界中の人に食べてもらいたかったからだ。熟練の職人が白木のカウンターに座るセレブのために握る特別な寿司ではなく、庶民的な家族が一緒に食べて「美味しいね」と笑顔になれる。そんな寿司を世界中に提供するのが夢だった。

 でも、どうしよう。行きたいのはやまやまだが、即答はできなかった。飛行機で通路側の席に座れるかどうか分からないし、勝手の分からない海外でトイレを探して回ることを考えると、頭が真っ白になりそうだ。

 ジムに通い始めておよそひと月が過ぎた。膀胱トレーニングも挑戦はしている。にもかかわらず、頻尿は改善されるどころか、悪化していた。努力しているのに結果が出ないものだから、苛々が募っているせいかもしれない。

 以前は、東中野から会社の最寄り駅である中野坂上まで地下鉄で通っていた。今は、たった一駅、わずか二分の乗車時間が心配で徒歩で片道四十分かけて通勤している。最短ルートなら三十分以内で着くのだが、万一のときに備え、トイレがある商業ビルやコンビニを経由したいので、遠回りになってしまうのだ。

 丸山と話した直後は、これで大丈夫だと思った。でも、頻尿を改善するのは、そう簡単ではないのだ。

 こんなことなら、さっさと薬を出してほしい。でも、ゴマ塩あごひげのところには二度と行きたくない。別の医療機関を受診したら、また一から検査だ。膀胱トレーニングをしろと言われて帰されるだけかもしれない。

 それはそれとして、このチャンスを逃すのは、あまりにももったいない。

 丸山の言葉を思い出した。

 不安を和らげる薬があるのだとか……。それを使えばなんとかならないだろうか。不安の強さを客観的に調べる方法なんてないはずだ。「不安が強くて強くてしかたがない」と訴えれば、あっさり薬を出してもらえそうな気がする。

 とはいえ、心療内科は祥子にとって未知の領域だ。心に作用する薬って、どんなかんじなんだろう。経験者に話を聞ければいいのだが……。

 心の中がザワザワとした。自分は焦っている。しかも、猛烈に。誰かに相談したかった。そういえば、今日は美紀とのランチだ。話だけでも聞いてもらいたい。

「少し時間をもらってもいいでしょうか。調整が必要で……」

 井岡は意外そうに目を瞬いた。

「ああ、そう。じゃあ、一週間以内に返事をもらえるかな」

「はい。必ず」

 視線を感じて顔を上げると、斜め前に座っている林と目が合った。あからさまに羨ましそうな顔をしていた。

 

 その日は、美紀と二人で大通りから離れた住宅街の中にある隠れ家風イタリアンに行った。

 本格的な料理を出す店だが、ランチはパスタにサラダと飲み物がついて千三百円という良心的な価格設定だ。当然、混み合うし、予約もできない。でも、今日は雨が降っている。こういう日こそ、狙い目だと思った。

 思惑は当たり、並ばずに入店できた。祥子はいわしのラグーソース、美紀は青じそのジェノベーゼを選んだ。どちらも初夏のお薦めだという。

 運ばれてきたサラダをつつきながら、美紀が唇を尖らせた。

「この前、ウチの息子がパパって言ったんだ」

 初めての言葉だという。

「ママじゃなくてショックだわ。旦那が、しつこくパパ、パパって言わせようとしてたからだと思う。育児の美味しいところだけ持っていこうとするから、頭に来ちゃう。おむつ交換を頼んでも、うんちはパス、とか平気で言うんだよ。うんちはパスって、意味が分からないでしょ」

 パスタを食べている間中も、美紀の愚痴は続いた。仕事と子育ての両立は本当に大変なのだろう。

 でも、今日はこっちにも聞いてほしい話がある。コーヒーが運ばれてきたのを機に、祥子は切り出した。

「部長にアメリカに市場調査で出張してほしいって言われたんだ。ニューヨーク、ロス、シアトルを二週間で回るんだって」

 美紀がため息をついた。

「いいなあ。羨ましい。うちは授かり婚だったでしょ。新婚旅行にさえ、行けていないんだ。遠出といったら、旦那の実家ばかり」

 祥子は話を強引に戻した。

「出張に行きたいけど、迷ってるんだ」

 祥子は周囲の耳を気にして声を潜めた。

「実は私、頻尿で……」

 美紀が露骨に顔をしかめた。

「食事中にする話じゃないでしょ。それより、聞いてよ。今度、保育園で……」

 祥子は押し黙ってコーヒーを飲んだ。美紀は気にする様子もなく、話を続けた。

 激しい怒りが祥子の胸に沸き上がってきた。

 子育てが大変なのは分かる。美紀の夫に問題もありそうだ。でもいったい祥子のことをなんだと思っているのだ。

 そもそも美紀は矛盾している。食事中と言うが、さっき、「うんち」を連発していたのはどこの誰だ。

 気づいたら口から言葉が飛び出していた。

「うんざりなんだけど」

 美紀が首を傾げた。

「どうかした?」

「二人でランチは今日で最後にしよう。橋爪さんの愚痴を聞かされるばかりなんだもの」

 美紀が目を大きく見開く。

「さっき遮ったのを怒ってる? だったら、ごめん。でも、食事中に下の話は……」

「おむつ交換の話はいいの?」

「子どもの話でしょ」

「お互い、困ってる話でしょ? 子どもの話はよくて、病気の話は駄目なの?」

 美紀の顔に困惑が広がった。

「ムキにならないでよ」

 視線を左右に走らせるのを見て、祥子の苛立ちは頂点に達した。周囲の目は気になるのに、祥子の気持ちはどうでもいいのだろう。

 そんな人、友だちじゃない。いや、そもそもただの同僚か。

 椅子の背にかけてあったトートバッグから財布を取り出した。百円玉がなかったので、千円札一枚と五百円玉を取り出してテーブルに置く。

「祥子ちゃん?」

「お釣りはいらない。あと、私、会社の人に下の名前で呼ばれたくないんだよね」

 何か言いかけた美紀を無視して、祥子は立ち上がり、店を出た。他の客たちの非難がましい視線を感じた。店内の空気を不穏なものにしたのだから当然だ。関係ない人たちに迷惑をかけてしまったと思うと、穴があったら入りたい気分だった。

 傘を広げ、本降りの雨の中を歩き出す。

 蹴散らした水がパンツの裾を濡らした。足元が冷たいせいか、トイレに行きたくなってきた。祥子は足を速めた。

 顔周りは熱を帯びているのに、心の中はシンと冷えていた。息が上がる。自己嫌悪感も湧き上がってくる。

 なんだか疲れた。そして、何もかもが最悪だ。

 

 その日、定時の午後六時で退勤すると、徒歩で帰宅の途に就いた。雨の中歩くのは憂鬱だが、帰宅ラッシュで混み合う地下鉄の中で、トイレに行きたくなったらと思うと、地下鉄で帰る選択はなかった。

 せめて最短ルートで帰ろうと決め、祥子は歩き始めた。

 客観的に見て、自分は普通ではないと思う。やはり心療内科に行くべきなのだろうか。

 でも、ネットを見ると、「処方された薬を飲み始めたら、止められなくなった」とか、怖いことを書いている人もいるし……。

 それはそれとして、出張はどうしよう。

 行きたい気持ちはおおいにある。でもやっぱり怖い。調査チームのトップは社長だ。今度粗相があったら、商品企画をはずされるかもしれない。あれこれよくしてくれる井岡の顔を潰すのも怖い。

 神田川沿いの遊歩道を進み、中央線の線路をくぐり、左に曲がった。ここまで来たら、自宅まであと少しだ。

 東中野を南北に走る通りに入ったところで、祥子は足を止めた。二十メートルほど先にあるカフェ・カミナーレから、ほっそりした女性が出てきたのだ。バリスタでこの店のオーナーでもある水島めぐみだった。ドアから顔を出して、通りを見回している。人通りがないのを確認しているようだった。低く雲が垂れこめた夜空を見上げると、ため息をつくように肩を落とし、店に引っ込んだ。

 寄って行こうか。歩きながら、そんなことも考えていたのだ。

 あの日以来、お医者くんカフェには行っていない。頻尿が一向に改善しないので、足を向ける気にならなかった。

 でも、改めて、丸山に話を聞いてもらいたいと思った。そのうえで、どうするか決めたい。

 できれば一対一で話をしたかったが、料金が気になる。ケイコが要望していた料金の値下げは、結局実現したのだろうか。

 ドアを開けて中に入ると、カウンターの中で水島が柔らかく微笑んだ。

「いらっしゃいませ」

 女性にしては低い声なのに驚いた。接客業に向いているかどうかはともかく、耳に心地よかった。

 そういえば、彼女の声を耳にするのは初めてだ。通常のカフェタイムの接客担当は若い女性だった。水島はカウンターの客に背を向け、エスプレッソマシンを操作したり、フィルターでコーヒーを淹れていることが多いのだ。

 他に客はいなかった。カウンターの奥の厨房からは、フライパンをかき混ぜるような音が聞こえてくる。

 祥子はこの前と同じ席に腰を落ち着けると、壁の黒板のメニューを見て、タコのペペロンチーノとカシスウーロンを注文した。

 水島が作ってくれたカシスウーロンをストローで飲んだ。さっぱりとした甘さが、心と身体に染みていく。注文以外で店のスタッフに声をかけるのは苦手だ。迷惑だったら申し訳ないと思ってしまう。でも、今日は話があって来た。

「あの、私……。しばらく前にお医者くんカフェに来たんです」

 水島は、口元に微笑みを浮かべ、静かにうなずいた。

「いかがでしたか?」

「話を聞いてもらって、アドバイスをいただきました。モヤモヤしていたことがすっきりしたけど、症状はよくならなくて……。丸山先生ともう少し話したいんです」

「火、木、土のカフェタイムにいらっしゃってください。個別相談をご希望であれば、丸くんの都合を聞いてみます」

 厨房からガーリックとオリーブオイルのいい香りがしてきた。

「個別相談の料金なんですが」

「一時間一万円になります」

 値下げは実現しなかったようだ。どうしようか。迷っていると、水島が言った。

「保険が効く医療の場合、自己負担が三割以下ですから、それに比べると高いと感じるのかもしれません。でも、どうなんでしょう。例えば、私のこの髪、カットとカラーで一万円ちょっとします。心理カウンセラーによるカウンセリングの相場は一回当たり五千円から一万五千円なんだとか」

 なるほど、高すぎるわけでもないようだ。

 水島は続けた。

「迷っているようでしたら、カフェにどうぞ。カフェに何度か来ていただいて、丸くんは信用できそうだ、もっと突っ込んだ話をしたい。そう思ったら、個別相談を申し込んでいただく。そんな流れを想定して作ったシステムなんです」

 物腰は柔らかいけど、しっかりした考えの持ち主のようだ。

「ちなみに丸山先生って、どこかの病院にお勤めなんですか?」

「いえ。画像診断のアルバイトはしていますが、この店が今の丸くんのメインの職場です。でも、医師としての経験は豊富ですよ」

 最初の勤務先は都内の大病院。その後、駅向こうの内科クリニックを経て、このカフェに来たという。

 勤務医と、カフェのスタッフでは、個別相談料が別にあったとしても相当収入が違うはずだ。本人か妻の実家が資産家なのだろうか。それはともかく、丸山はかなり変わった人のようだ。あるいは、強い信念でもあるのだろうか。

 そのとき、厨房から長身の若い男性が、パスタの皿を手に出てきた。色白で切れ長の目をしたイケメンだ。

「お待たせしました」

 皿を祥子の前に置くと、水島に向き直った。

「めぐみさん、タコは輸入物で十分っすよ。美味しいものを出したいのは分かるけど、タコの味が分かるお客さんなんて、いないんだから」

 水島が困ったように眉を寄せた。

なかおろしさんに、旬だからって勧められたのよ。でも、ソラくん、そういう話は後にして」

 ソラくんと呼ばれた若者は、肩をすくめた。そして祥子に笑いかけた。

「でも、実際のところ、分かんないと思いますよ」

 それはどうでしょう、と思いながら、祥子はフォークを手に取った。

 二年前、ハッピーマリンでアジア産のタコを扱うと決まったとき、国内各地の代表的なタコや、アフリカ産のタコとの違いを勉強した。アジア産タコの特徴を生かせそうだと思って祥子が企画した新商品、「タコのスパイシー唐揚げ」は、その夏のヒット商品になったのだ。

 厚めにスライスされたタコをフォークの先端に突きさし、口に運んだ。噛み締めると、豊かな旨みがあふれ出た。

「これ、麦わらダコですよね。美味しいです」

 梅雨から初夏に旬を迎える関西のマダコを麦わらダコと呼ぶ。国内のどこでとれたか、味だけで当てる自信はない。でも、旬だというなら、間違いないはずだ。

 ソラが首をひねった。

「麦わらダコってなんですか? いや、その前に、お姉さんは何者?」

「秘密です」と言いながら、個別相談を申し込もうと思った。

 水島も丸山もいい人だ。そして、自分の将来は、尿意をコントロールできるか否かにかかっているといっても過言ではない。一時間一万円は高くない。

 

(第4回につづく)