木曜日、パート勤務を終えると、その足でカフェ・カミナーレに向かった。父を店に連れて行くのは、どう考えても難しい。個別相談を申し込み、丸山に川崎まで一緒に行ってもらおうと考えたのだ。

 正式な申し込みの前に、料金を確かめたかった。個別相談料は一時間一万円だそうだが、往復の交通時間もあるから、それだけではすまないだろう。値切る気はないが、いくらかかるかは把握しておきたい。

 店には先客が一人いた。カウンターの真ん中付近の席で、明るい色の髪をした若い女の子が、丸山と談笑していた。年齢は、佑馬と同じぐらいに見える。

 丸山に話を聞いてもらうには、少し待つ必要がありそうだ。

 丸山は、唯に気づくと「いらっしゃいませ」と嬉しそうに言った。

 唯が、カウンターの奥のほうの席に腰を落ち着けると、丸山が厨房に「お願いします」と声をかけた。

 蒼空を呼んだのかと思ったら、そうではなかった。

 厨房から出てきたのは、ほっそりとした身体つきの美しい女性だった。年は、唯より少し上だろう。

 丸山が彼女を紹介してくれた。

「バリスタのめぐみさんです。今日はぜひ、美味しいコーヒーを飲んでいってください」

 めぐみが差し出すメニューを見て、三種類ある豆のうち、コクのあるタイプを選んでみた。

 美しい人が、流れるような手つきでコーヒーをドリップする様子は、見ているだけで心がなごんだ。漂ってくる香りも、素晴らしかった。ナッツやチョコの香りが際立っており、ゴージャスな気分になれる。

 めぐみは、コーヒーをカウンターに置くと、「ごゆっくりどうぞ」と声をかけ、厨房に戻った。誰かと言葉を交わしているのが聞こえる。

 厨房に蒼空がいるのかもしれない。でも、心は躍らなかった。できれば顔を合わせたくない。

 コーヒーのふくよかな味を楽しみながら、丸山と女の子の会話を聞くともなく聞いていた。どうやら、女の子の父親が、丸山と知り合いらしい。そして、彼女の父親の再婚話が消えたようだ。

「お父さんが、派手な女の人と別れてホッとしました。再婚には反対しないけど、あの人はなんか違う気がしたんですよね」

 女の子がそう言うのを聞いて、どこの家もいろいろあるのだなと思った。そろそろ佑馬に離婚を考えていると伝えようか。あの年頃の子は、親の動向に無関心なようでいて、案外そうでもないのだ。

 それから五分ほどして、女の子が会計をした。唯に軽く会釈をして席を立つ。唯が丸山の身体が空くのを待っているのに気づいて、気を利かせてくれたのだ。なんていい子なんだろう。あんなふうに気を遣える子が佑馬の彼女になってくれたら嬉しい。

 店を出ていく彼女を見送ると、丸山が「お待たせしました」と言って、唯の前に立った。相変わらずもっさりしている。今日は、後ろ頭に寝癖までついていた。

「お父さんに連絡はつきましたか?」

「はい。おとといの夜、電話したんです。相変わらず状況がよく分からなくて」

 本人は、処方薬は用法用量を守っているし、処方薬と市販薬の併用はしていないと言っていた。

「それを信じていいものかどうか……。あれこれ試しているっていうのも、人体実験みたいで、怖いかんじがします」

 丸山は、自分の顎をつまみながら、うなずいた。

「うーん、それは困りましたね。眠れない原因については、聞いてみましたか?」

「それもはっきりしません。中途覚醒が多いとか、レム睡眠が短いとか、難しいことを言うばかりなんです。そんなわけで、個別相談をお願いしたいと考えています。川崎の父の自宅に同行してもらいたいんです。川崎までの移動時間もあるので、料金はどうなるのかなって」

 丸山がいきなり人差し指を唇の前に立てた。はばかるような目で、厨房のほうを見ている。

 状況がよく分らなかったが、ひとまず口をつぐんだ。丸山はレジ台からメモ帳を持ってくると、ペンで何か書きつけて、唯の前に置いた。

 ――一万円でOKです。オーナー(さっきのバリスタ)には内緒でお願いします。

「そういうわけにはいきません。ちゃんと請求してもらわないと」

 丸山は、「シッ」と言って、もう一度指を立てた。こわごわとした表情で厨房の様子をうかがう。

 唯は呆れてしまった。厨房の入り口には、暖簾がぶら下がっているだけだ。今の会話が中に聞こえていないはずがない。

 丸山もそれに気づいたのだろう。照れたような笑いを浮かべながら厨房に声をかけた。

「めぐみさん、ちょっといいですか? 個別料金について相談させてください」

 厨房からめぐみが出てきた。話は聞こえていたと思うが、何食わぬ顔で丸山から話を聞くと、少し考えて言った。

「移動時間は相談料の半額、それと交通費を実費で請求させていただきたいです。いいでしょうか」

 そのぐらいが妥当だと唯も思っていた。

「それでお願いします」

 唯が言うと、めぐみは安堵したように胸に両手を当てた。

「ああ、よかった。うるさいことを言って申し訳ありません。でも、私がうるさく言わないと、丸くんは際限なくサービスしてしまうから……」

 丸山は、そういう人なのだ。それが悪いとは言わない。でも、正しいとも思えなかった。

 気まずそうにうつむいている丸山に向かって言った。

「面倒な仕事をお願いするんです。きちんと対価を払うほうが、気持ちいいです」

 丸山は顔を上げると、苦笑した。

「そんなものですかねえ」

「そんなものですよ」

 笑顔を交わしながら、切なくなった。こういうやり取りを、光男と一生していたかった。浮気が発覚するまでは、できると思っていた。今さら言っても遅いが、どこでどうボタンを掛け違ってしまったのか。

 そのとき、厨房から蒼空がのっそり出てきた。長身を持て余すように、少し背中を丸めている。

 やっぱり少しドキドキした。ここでの彼は、推しではなく店のスタッフだと自分に言い聞かせる。

「蒼空くん、どうしたの?」

 めぐみが尋ねる。蒼空の視線が唯をまっすぐ捉えた。

「話、聞こえてました」

「ええっと、相談料の?」

「いや、そうじゃなくて、お父さんの話」

 何が言いたいのだろう。首を傾げていると、蒼空はボソボソとした口調でしゃべり始めた。

「中途覚醒とかレム睡眠なんて言葉、普通は使わないっすよね」

 確かにそうだ。中途覚醒はともかく、レム睡眠がどういうものか、そもそも唯にはよく分からない。

 蒼空はパンツのポケットから、デジタル式の腕時計を取り出した。調理中は、はずしているのだろう。

「お父さん、こういうのを使ってません? スマートウォッチ」

 唯は戸惑いながらうなずいた。

「使ってます。散歩の歩数を管理しているって言ってました」

「やっぱり……。実はこれ、睡眠の質を計れるんです」

 睡眠の質……。その言葉も父は使っていた。

 蒼空は続けた。

「腕につけて寝ると、合計睡眠時間が足りないとか、レム睡眠が短いとか、深い睡眠が足りないとか、ガミガミ言ってくるんです。かなりウザいんで、俺は寝るときには、はずしてます。前に、仲間との飲み会で、その話になって……」

 睡眠の質を計れると言っても、医療機器ではないので、精度はそこまで高くない。外国製の安い商品の中には、品質が粗悪なものもある。腕への密着度が十分ではなく、うまく測定ができない場合もあるようだ。

「お父さん、いい加減な測定結果を真に受けて、眠れないと思ってやしませんかね」

 唯はそっと唾を呑んだ。その可能性は十分にあった。父は、生真面目な質だ。そして、あれこれ試していると言っていた。科学を信奉しているのに、デジタル機器が苦手でもある。

 蒼空が言った。

「今、電話してみたらどうですか。そうしたら、個別相談なんて必要なくなるかもしれない」

 丸山とめぐみが、うなずいていた。唯は、スマホをバッグから取り出した。

 

 

 東京駅の構内の喫茶店で、父と向き合った。珍しくジャケットを羽織っている父は、家で見るより若々しかった。父は照れくさそうな表情を浮かべた。

「いろいろお世話になりました」

「どういたしまして。お父さんが不眠症じゃなくてよかった」

「まったくだ」

 父は、蒼空が想像していた通り、スマートウォッチの測定結果が思わしくないことから、自分が不眠症だと思い込んでいた。そうしたら、本当に眠れなくなってきたようだ。

 丸山と相談し、父には東京駅の近くにある睡眠障害の専門医療機関を受診してもらった。

 ネットで購入した海外の無名メーカーの安価なスマートウォッチより、睡眠の専門家の診断のほうが正確に決まっている。正確な診断を受けなければ、睡眠の質はよくならない。

 そう言って、受診を勧めたところ、頑固な父も心を動かしてくれた。

 その医療機関の医師の助言で、父はスマートウォッチを処分した。睡眠薬の使用も止めた。そして一月後、一泊入院して、睡眠の質を脳波で調べる高精度の検査を受けた。

 今日はその結果を二人で聞きに行った。睡眠の質は、八十代にしては良好だそうだ。実際、毎夜ぐっすり眠れていると父は言っていた。これで一つ問題が解決した。これで自分も眠れるようになるといいのだけれど……。

「かかりつけ医の先生に、よく相談すれば、こんな大げさなことにならなかったな。でも、あそこは最近混んでて、そういう雰囲気でもなかったんだ」

 言い訳がましく言う父に微笑んだ。

「そういうことってあるよね。それはそうと、お母さんのお墓参り、いつにしようか」

 睡眠薬騒動で延び延びになっていたのだ。

「佑馬と光男さんの都合に合わせるよ」

「二人とも忙しいみたい。私とお父さんでよくない?」

 父は、唇をへの字に曲げたかと思うと、グラスの水を飲んだ。そして言った。

「光男さんは去年も来なかったな。正月にも顔を出さなかったし……。ひょっとして、うまくいってないのか」

 母が生前、そんな心配をしていたと聞いて、唯は唇を噛んだ。知らなかった。でも、母にはすべてお見通しだったのかもしれない。

 ここで嘘をついてもしかたない。

「実はそうなんだ。私、お父さんの家に住まわせてもらうことになるかもしれない」

 父はやや驚いたようだったが、力強くうなずいてくれた。もう一つ、問題が解決した。

 

 東中野駅で下車すると、カフェ・カミナーレに向かった。今日は土曜日だし、今はカフェタイムの最中だ。丸山に父の検査結果を報告しておこうと思ったのだ。

 ガラス戸を開けて中に入ると、ちょっとがっかりした。カウンターに五人もお客さんがいたのだ。この前の女の子も、お父さんと二人で来ている。

 バリスタのめぐみがドリンク作りを担当し、丸山は会話に専念しているようだ。五人を相手にするだけでも大変そうなのに、ボブカットの初老の女性が、声高にしゃべりまくるものだから、ちょっとしたカオスだった。

 ボブカットの女性の隣の席が空いていたが、めぐみは唯に目くばせをすると、テーブル席を手で指し示した。

 それが無難だと思って、奥の四人席に座らせてもらった。

 めぐみが淹れてくれたコーヒーは、今日もとても美味だった。スマホでハローワークの求人情報を検索しながら、複雑な味と香りを堪能した。

 スマホの画面をスクロールしていると、ふいに誰かが目の前の席に座った。顔を上げて、息を呑んだ。蒼空だった。着替えていないし、頭に手ぬぐいも巻いていないから、出勤してきたところのようだ。蒼空はいきなり頭を下げた。

「この前はすみませんでした」

「ええっと、あの……。謝らないでください。おかげさまで、父は不眠症ではないって分かりました。今日はその報告とお礼に寄ったんです」

 蒼空は微笑んだ。きれいな白い歯がキラキラと輝く。

「それはよかったです。でも、謝りたいのは、その前に店に来たときのことです。不愛想な対応をして、申し訳なかったです。あと、いつも応援ありがとうございます。公演の後、わざわざ待っててもらったのに、対応が中途半端になっちゃったのも、すみません」

「えっ、あの……」

「この前、丸くんに聞かれたんです。篠原さんは、君のファンじゃないのかって。ファンはファンでも、どうせ顔ファンだって答えました」

 顔ファンとは何かと丸山に問われたので、説明した。

「そうしたら、君は何も分かっていないと怒られてしまいました。意味が分かりませんでした。でも、丸くんの話を聞いて、へえーと思うところもあって……」

 丸山曰く。推し活は、人の生きがいや健康作りに役立っている。推し活で認知症のリスクが下がるという研究すらあるそうだ。

「ずっと思ってたんです。顔で応援されたり評価されるのは、嫌だなって。周りにもあれこれ言われるし。でも、ファンの人たちの役に立っているのは間違いないって丸くんは言うんです。俺もそんな気になってきました」

 そう言うと、蒼空は爽やかに笑った。

 唯は首を横に振った。好きなのは顔だけじゃない。夢に向かって頑張っているから好きなのだ。勇気をもらえるから、応援するのだ。

 そう伝えたかった。でも、胸がいっぱいで言葉にならなかった。

 

(第21回につづく)