2章 糠漬けと不倫
1
大河内美央は、ハイチェアで足をバタバタさせている真鈴をなだめながら、玄関で靴をはいている夫の優斗に声をかけた。
「帰りは?」
「たぶんいつも通り。行ってきます!」
叫ぶように言うと、優斗は慌ただしく出て行った。
美央は壁にかかった時計を見た。七時四十五分になるところだ。
優斗が勤務するアパレル会社は、渋谷区神宮前にある。始業時間である九時までに出社するには、最寄りの私鉄駅を八時ちょうどに出る電車に乗る必要があった。このマンションから駅まで徒歩で二十分弱。柳瀬川沿いの遊歩道をダッシュしないと間に合わない。さっきまで入念にスタイリングしていた髪は、駅に着くまでに台無しになるだろう。
あと十分早く起きるか、スタイリングが楽な髪形にすればいいと思うが、優斗によると、どちらも無理、だそうだ。
美央は真鈴の小さな手にスプーンを持たせた。
「さ、ごはんを食べよう」
「スプーン、嫌い」
真鈴はスプーンを払いのけるようにすると、ヨーグルトをかけたバナナを手づかみで口に押し込んだ。
「あー、もう」
真鈴は二歳半である。スプーンを使えるのに、手づかみのほうが好きなようで困る。真鈴の手を濡れタオルでぬぐい、食事の続きをさせながら、今日のスケジュールを頭の中で組み立てる。
今朝は久しぶりに太陽が出ているが、天気予報によると、昼前から雨になるようだ。遊びを最優先に予定を考えよう。朝食の片づけと洗濯をすませたら、掃除はパスして、公園へ行く。仲良しの親子も、きっと同じことを考えているはずだ。念のために後でメッセージを送っておこう。
公園遊びは十時半ごろまでに切り上げ、帰りにスーパーに寄る。帰宅して昼ご飯を作って食べたら、真鈴はお昼寝タイム。その間に、浴室、洗面台、トイレの掃除をする。この季節は、ちょっと油断するとカビが出てくるから、水回りの掃除は手を抜けない。そういえば、排水口に投入する洗浄タブレットが切れていた。公園の帰りにドラッグストアにも寄らなければ。真鈴の保湿クリームも補充しておきたい。
真鈴が起きたら、パズルか積み木で一緒に遊ぶ。いつも見ているテレビの幼児向け番組が始まったら、洗濯ものの始末と夕食の準備。七時ごろ、優斗が帰ってきたら、三人で夕食をとる。その後、夕食の片付け。風呂は優斗に入れてもらって、その間に明日の朝食の下準備。そして真鈴の寝かしつけ。その後、ゆっくり湯船に浸かる時間が取れるといいのだが……。
スケジュールを立てても、その通りに一日を過ごせるかどうかは、真鈴の機嫌と体調次第だ。でも、行き当たりばったりや出たとこ勝負は、美央の性に合わない。
食事を終えると、リビングのローテーブルに、木製の知育パズルを出した。真鈴がそれで遊ぶのをカウンター越しに見守りながら、キッチンのシンクで洗い物を始めようとしたときだ。
カウンターに置いてあったスマホが鳴った。メッセージが着信したようだ。ママ友から公園遊びの誘いが来たのかと思ったが、相手のアイコンは真鈴の横顔だった。東中野に住む義母の啓子である。先週遊びに来たとき、顔がはっきり分かる写真を使わないでほしいと頼んだ。おかしな犯罪に巻き込まれる心配があるからだ。啓子は不服そうだった。どうなることやらと思っていたので、替えてくれてよかった。ただ、この写真でも顔は分かる。
困ったものだと思いながら、メッセージを読み始めた。
――今日そっちに行くわね。渡したいものがあるの。午前と午後、どちらがいい? 美央さんも忙しいでしょうから、ほんの二時間ぐらいで退散します。食事の用意は必要ありません。ダイエット中だからお菓子もいらないわ。
美央はスマホをカウンターに戻した。シンクの縁に両手をついてため息を吐く。
気を遣ってくれてはいるようだが、啓子は先週来たばかりである。半月後には埼玉県西部にある大河内家の墓に一緒にお参りに行く予定だ。行き来の頻度が高すぎると思うのだが……。美央の両親は、北関東で民宿を経営していて、忙しいせいもあるが、真鈴とは年に二、三回しか会えない。
とはいえ、状況的に断れない。実は一昨日、啓子と電話で軽く揉めたのだ。啓子は美央を潔癖症だと決めつけ、自分の知り合いの医師に相談に行こうと誘った。やんわり断ったのに、しつこいものだから、つい声を荒らげ、電話を切ってしまった。
昨夜、優斗を通じて啓子に謝罪した。その際、優斗に「美央は潔癖症じゃない。余計な心配は無用」と釘を刺してもらった。
それで一件落着と思っていたのに、まだ何かあるのだろうか。
――二時過ぎでいいですか? 真鈴と二人で待ってます。
すぐに既読がつき、スタンプが返ってきた。真鈴が好きな幼児向けアニメに出てくるひょうきんな猫が、「OK」というボードを手に、腰を左右に振っている。
可愛いと思っていたその猫が、小憎らしく見えた。
玄関で出迎えると、啓子はとろけるような笑みを浮かべて、真鈴に向かって両手を広げた。
「真鈴ちゃーん、元気だった?」
なんだか濃厚な匂いがするなと思いながら、啓子に声をかけた。
「お義母さん、先に洗面所へお願いしていいですか?」
「あっ、そうだったわね。手洗い、手洗い」
歌うように言うと、啓子は持っていた紙袋を美央に差し出した。
「春白菜でキムチを漬けてみたの」
顔が引きつりそうになるのを笑顔でごまかした。キムチは優斗の好物だ。美央もわりと好きだが、素人の手作りはちょっと怖い。
啓子は得意満面で続けた。
「先月初めて作ったんだけど、コクが足りなかったのよ。ははーんと思って、今回はイカの塩辛を加えたら大正解。ぜひ食べてみて。発酵食品って身体にいいしね」
イカの塩辛入りだなんて、ますます怖い。でも、考えようによってはよかった。キムチは幼児の食べ物ではないから、真鈴に食べさせなくてすむ。
「優斗さん、喜ぶと思います。冷蔵庫にしまっておきますね」
「そうしてちょうだい」
啓子は白髪交じりのおかっぱ頭を左右に揺らしながら、洗面所へ向かった。
今日の啓子は、草木染の生地にダイナミックな花柄を刺繍したシャツワンピースを着ている。洋服作家の手による一点ものだろう。美央は、出産するまで優斗と同じ会社に、デザイン画を型紙に起こすパタンナーとして勤務していたから、その服の値段も想像できた。美央が着用している通販のシャツの十倍以上するはずだ。
昨今は、洋服であれ、食べ物であれ、手作りの品は時間かお金、あるいはその両方がないと、手にできない。義父は、中野区と新宿区西部を地盤とする中堅不動産会社の専務である。義両親は、経済的にも時間的にも余裕があるのだろう。
来春、美央が予定通り元の会社に復職すれば、自分たちの経済状況も上向くはずだ。復職に備え、都内に引っ越しを考えていた。ここからでは通勤に時間がかかりすぎるし、真鈴に何かあったとき、義両親の力を借りられれば心強い。義父の会社の取扱物件を安く借りたいという下心もあった。都内で教師をしている優斗の姉は、そうしていた。彼女が借りている新宿区内の単身者用マンションは、家賃が相場の七割なのに、築浅で広々としている。
キムチの容器をジッパーつきの袋に入れて冷蔵庫にしまうと、啓子と自分のために、紅茶の用意をした。真鈴にはスティック状のフルーツゼリーをあげた。
啓子は最近、伝統食品と発酵食品の素晴らしさに目覚めたという。紅茶を飲みながら、講釈を受けた。身体にいいのは確かだろう。キムチは難しそうだが、糠漬けならチャレンジしてみてもいいかもしれない。糠漬けも優斗の好物だが既製品は結構値が張る。糠床は冷蔵庫で保管できるそうなので、衛生面も安心だ。
「コツとか教えてもらっていいですか?」と言うと、啓子は大喜びで、後で詳しいレシピを送ると言った。
紅茶のお代わりを勧めると、啓子は断った。
「溜まってる家事があるなら、片付けちゃったら? 真鈴ちゃんは私が見てるから」
「あー、でも……」
「心配しないで。優斗に言われて反省した。私が雑すぎるのよね。これからは真鈴ちゃんと食器を共用しないようにする。キムチを作るときにも、ビニール手袋を使ったわ」
優斗は思いのほか、しっかり話をしてくれたようだ。
「うるさいこと言って、すみませんでした」
これで本当に一件落着だ。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お風呂掃除に行ってきます」
この季節、ちょっと掃除をサボると、ピンク色の汚れが出現する。カビではないそうだが、不潔なのに変わりない。
「どうぞ、ごゆっくり」と言うと、啓子は早速、真鈴に声をかけた。
「何して遊ぼうか」
「パズルするー」
二人の明るい声を聞きながら、美央は浴室へ向かった。
掃除を終えて浴室を出ると、美央は首をかしげた。かすかではあるが、キムチの匂いが廊下に漂っている。嫌な予感を覚えながら、リビングへ向かった。
啓子と真鈴は美央に背を向ける格好で、ダイニングテーブルに並んでついていた。テーブルには、刻んだキムチを載せた皿が置いてある。
「ばあばのキムチ、美味しいよー」
啓子がキムチの切れ端を箸でつまんで、真鈴に与えようとしているのを見て、美央の顔から血の気が引いた。考える前に身体が動いていた。美央は啓子の手から箸を払い落とした。乾いた音を立てながら、箸がフローリングの床に転がる。
啓子が振り返った。目を見開いている彼女に向かって、美央は言った。
「真鈴はまだ二歳です。キムチなんて、あり得ないです」
信じられないことに、啓子は笑った。
「余計な心配をさせちゃったわね。でも、辛くないから大丈夫」
「ええっと……」
「水で洗ったのよ。本場では、そうやって子どもに食べさせるんだって」
声にならない声が、美央の頭の中を駆け巡る。
――ここは、キムチの本場じゃない。辛くなければいいわけでもない。初心者が手作りした発酵食品が怖いのだ。
啓子は、「よっこらしょ」と言ってしゃがむと、箸とキムチの切れ端を拾った。言い訳がましく続ける。
「真鈴ちゃんがゼリーをもっと欲しがったの。合成着色料がたっぷり入ったゼリーより、発酵食品のほうがいいでしょ」
あのゼリーの原料は、天然果汁とゼラチンだけだ。でも、ポイントはそこじゃない。
美央は、真鈴を抱き上げた。ソファに移動し、真鈴を膝の上に乗せる。穏便に、と自分に言い聞かせながら口を開いた。
「唐辛子を洗い流しても、真鈴には塩っけが強すぎると思うんです。それと、イカの塩辛、危なくないですか?」
「プロの料理研究家のレシピを参考にしてるから大丈夫」
「いや、でも、梅雨どきだし」
「発酵食品は腐らないでしょ」
「市販のキムチもそうですが、ヨーグルトや納豆にも賞味期限ってありますよね?」
「あら、知らない? 賞味期限が切れた後のほうが美味しいのよ。それはともかくこのキムチは大丈夫」
漬ける際、ビニール手袋を使ったし、道具や容器はアルコール消毒したという。
「いや、でも……」
啓子はため息で美央の言葉を封じた。
「優斗が言ってた。美央さんは潔癖症じゃなくて、きれい好きなだけだって。でも、やっぱりちょっと病的だと思う。お医者さんに相談に行きましょうよ。付き合うから」
やっぱりこの話になるのか。もうたくさんだ。今日はきっぱり断ろう。
「結構です。必要ないと思うので」
「行きましょうよ。真鈴ちゃんのためにも、そうして」
押し黙っていると、啓子が焦れたように舌を鳴らした。
「母親が潔癖症だと、子どもに悪い影響が出るんだって。あれは不潔、これはダメってうるさく言ったら、消極的な性格になるらしいわよ」
美央は自分の顔が強張るのが分かった。
病気と決めつけられただけでも不愉快なのに、母親失格だと臭わせるなんて、あんまりだ。義実家と良好な関係を保ちたくて、モヤモヤすることがあっても呑み込んできたけど、もう限界だ。とりあえず今日は帰ってもらおう。反論は冷静になってからのほうがいい。
「すみません。なんだか体調が悪くて……。帰ってもらえますか?」
啓子は困惑するように目を瞬いた。
「気を悪くさせたのなら、申し訳なかったわ」
出た……。不祥事を起こした政治家などが使う「謝罪を装った、自分は悪くない構文」だ。啓子にその自覚はないと思うが、言われるほうは不愉快極まりない。
冷静になるどころか、怒りのスイッチが完全に入ってしまった。膝に乗せていた真鈴をソファに座らせるとキッチンへ向かった。冷蔵庫からキムチの容器が入った袋を取り出し、啓子の目の前のテーブルに置く。
「持って帰ってください」
啓子は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「傷つけてしまったのなら、ごめんなさい。でも、大事なことだと思うの。いい機会だから、話し合いましょう」
美央が繊細すぎると言いたいようだが、それは違う。啓子が無神経すぎるのだ。
不穏な空気を子どもなりに感じたのか、真鈴が突然、泣き始めた。美央は急いでソファに向かい、真鈴を抱き上げた。
「帰ってください」
「でも……」
「帰って」
叩きつけるように言うと、啓子が怯えたような目をした。
真鈴の泣き声が大きくなる。
「あらあら、真鈴ちゃん……」
甘い声で真鈴に声をかけたと思うと、唇をすぼめて舌を鳴らし始める。あやしているつもりのようだが、真鈴はもう赤ちゃんじゃない。美央は真鈴を抱いたまま、啓子に背を向けた。
結婚の挨拶に行ったときから、啓子が苦手だった。義父は「しっかりした人でよかった」と歓迎してくれたが、啓子は終始つっけんどんだった。妊娠していなければ、結婚に反対されたと思う。
美央は優斗より五つ年上。高校卒業と同時に上京し、居酒屋のアルバイトで自活しながら服飾専門学校に通ってパタンナーになった。田舎のヤンキーそのものだった中学時代を除けば、胸を張って語れる過去だ。とはいえ、啓子が「有名大卒の自慢の息子には釣り合わない」と考えるのも、分からないではなかった。
だから、努力しようと思ったのだ。温かい家庭を作って、義実家と良好な関係を築けば、啓子も分かってくれる。そう信じて頑張ってきた。真鈴が生まれてから、啓子の態度が軟化したこともあり、そこそこうまくやれてきたと思う。でも、もう結構。「いい嫁キャンペーン」は本日をもって終了だ。
美央の怒りが相当なものだと分かったのだろう。啓子は青ざめた様子で、そそくさと帰り支度を始めた。
見送るつもりはなかった。ソファで真鈴をあやしていると、ドアが閉まる音が聞こえた。その瞬間、復職という文字が頭に浮かんだ。怒りがすっと冷めていく。
義実家の力を借りずに、スムーズに復職できるかどうか……。キャンペーンは終了するとしても、義実家との関係をキャンセルするわけにはいかないのだ。
とりあえず、しばらく時間を置こう。啓子が謝罪をしてくれれば、それが無理ならせめて反省してくれれば、今回のことは水に流してもいい。