顔を上げると、丸山が固唾を呑むようにめぐみを見ていた。いつものように、うん、うんとうなずいてはくれなかった。さすがに話が重すぎただろうか。それとも、信じられないのか。自分自身、こんなひどいことが自分の人生に起きるなんて、思ってもみなかった。でも、起きるのだ。

「そういうわけで、放っておけなくて。相沢さんの説得をお願いできませんか?」

 丸山は困惑するように身体をゆすった。カップの底に残っていた冷めたコーヒーを大切そうに飲むと、咳ばらいをする。

「やはりちょっと違うのではないかと。相沢さんが僕の患者で、話を聞いてるうちにサプリやプロテインの話が出たとしたら、分かる範囲でアドバイスをします。でも、僕はその人とまったく接点がないわけですよ。いきなり押しかけて、『止めたほうがいいですよ』と言うのは……。そこまでいくと、お節介を通り越して、変な人です。僕だったら、警戒してしまうなあ」

 それはそうかもしれない。でも、諦めたくなかった。

「ここで一歩間違えれば、相沢さんのこの先の人生は、大きく変わります。大地くんの健康も心配です」

 丸山は困ったように眉を寄せ、天井を仰いだ。ため息をつくと、首を横に振る。

「なんとかしたいと思う気持ちは分かりますが、水島さんも、その女性とほとんど接点がないんですよね。連絡先すら分からないのでは?」

 それはなんとかなる。さっき、カブスという少年野球チームについて調べてみたのだ。世話役一覧表の三年生の欄に、高橋・三好とあった。

「ホームページにチームのメールアドレスが載っていました。私から、そのアドレスに連絡して、三年生の世話役さんにつないでくれ、と頼んでみます」

 連絡さえつけば、あの二人はきっと協力してくれる。そんな雰囲気の人たちだった。

 カフェ・カミナーレの店主だと名乗り、店での会話が耳に入ったと正直に言うつもりだ。そのうえで、「相沢さんに医師を紹介したい」と伝える。素直に応じてくれないかもしれないので、偶然を装うつもりだった。

「チームが練習している間、保護者の人たちはグラウンドの外で見学していますよね」

 そこにめぐみと丸山が通りがかるのだ。まず、高橋と三好とめぐみが、客とカフェの店主として挨拶を交わす。そしてめぐみが連れの丸山を「散歩中に偶然会ったかかりつけ医の先生」と紹介する。高橋たちに「お医者さんがせっかくいるから」と、相沢に声をかけてもらう。皆で丸山を囲んで雑談のように話せば、相沢もそこまで警戒しないのではないか。

 丸山は目を丸くした。

「ずいぶん細かいところまで設定を考えましたね」

「それはそうです。真剣ですから」

「すみません、茶化すつもりではなくて……」

 丸山は申し訳なさそうに首をすくめると、椅子の背もたれに身体をあずけて考え始めた。

 どれだけ時間が経っただろう。丸山は何度もため息をついた後、言った。

「正直言って、うまくいくとは思えませんが、そこまでおっしゃるなら……」

 めぐみは思わず身体を前に乗り出した。

「いいんですか?」

「患者さんの話をじっくり聞いて、何に困っているのか、どうしたいのかを理解して、医師としてできることを精一杯するのが、僕の診療スタイルです。深い考えがあってというより、いつの間にかそうなっていました。上司や雇い主には、時間がかかりすぎる、無駄だ、それは医者の仕事じゃないと言われますが、自分でもどうにもならなくて」

 丸山は唇を噛んでうつむいたが、すぐに顔を上げた。

「さっき聞かせてもらったたいへんつらい経験は、水島さんが今日のお昼にパニックを起こした引き金かもしれませんね」

 めぐみもそう思う。丸山は静かに続けた。

「水島さんは僕の担当患者です。水島さんは困っています。そして、僕に医者としてできることがあると言っている。なのに、何もする気はありません、と言うのも違うような気がしてきたんです。なので、やるだけやってみようかな、と」

「ありがとうございます」

「あ、いや、はっきり言って、自信はないんです。ただ、思うところはあります」

 相手の話を聞いているうちに、解決の糸口が見えてくることがある。話している本人が、何が問題なのか、気づくこともある。

「ぐるぐると頭の中で回っているものが、ふとした拍子で、整理されるのかもしれません。相沢さんもそうなってくれるといいんですが。僕、本人がハッとするその瞬間を見るのが好きなんですよね。だから、上司にキーキー言われても、自分のスタイルを変えられないのかなあ」

 丸山は他人事のように言ったが、めぐみの胸中は複雑だった。無理筋の頼みごとをしておきながら申し訳ないが、店のスタッフに丸山のような考えの人がいたら、ストレスで胃が痛くなりそうだ。

 そのとき、厨房のほうから、大きな音がした。そういえば蒼空がいたのだった。話は聞こえていただろうか。だとしても、聞いていないふりをしてくれるだろうと思いながら、めぐみは丸山に改めてお礼を言った。

 

 

 高橋と三好は、めぐみが想像していた通りの人たちだった。渡りに船とばかりに話に乗ってくれた。めぐみが作ったシナリオをもとに三人で入念な打ち合わせをして、本番に挑んだ。

 作戦決行の当日、めぐみは丸山と店の前で待ち合わせをして、カブスの練習が行われているグラウンドへ向かった。

 今日も暑くなりそうだ。午前中でまだ日差しがさほど強くないのが救いだった。

 歩きながら、丸山はボールを投げるように腕を振った。

「野球、わりと好きなんです」

「やるんですか?」

「とんでもない。見るだけです。妻がブルーソックスのファンなので」

 多摩地区に本拠地球場がある弱小球団だ。

「妻は、息子がもう少し大きくなったら、どこかのチームに入れたいそうです。今日はカブスの雰囲気をよく見てこいって言われました。息子は僕に似て運動音痴だから、止めといたほうがいいと思うんだけどなあ」

 そんな話をしながら歩いていると、いつの間にかグラウンドの近くまで来ていた。交差点で、女性の二人連れが手を振っている。いよいよ作戦開始である。

 高橋と三好の案内で、練習を見学している相沢のところに連れて行ってもらった。

 高橋が丸山を相沢に紹介し、「子どもの栄養について詳しいんだって。みんなでいろいろ聞いてみようよ」と誘った。相沢は気のない様子だったが、断るまでもないと思ったのだろう。丸山を囲む話に加わった。

 丸山は、高橋と三好の質問に答える形で、「サプリの過剰摂取は肝臓によくない」、「身体づくりには栄養バランスが大切だ」といった話をした。

 相沢は終始むっとした表情だった。自分から口を開くこともなかった。丸山は、やや焦っているようだった。「相手の話を聞く」という自分のスタイルに持ち込めないのだから当然だ。

 ところが、丸山が「整体で背が伸びるのは、姿勢が改善するからだ」と言ったとき、相沢の顔色が変わった。怒り出すのかと思ったら、「実はそんな気がしていた」と言い出したのだった。

 まさに、丸山が言っていた「その瞬間」である。相沢はおずおずと切り出した。

「あと、ちょっと気になっているんです。サプリやプロテインの摂りすぎでかえって食が細くなることってありますか?」

 丸山が、うん、うんとうなずいた。

 めぐみは、丸山に心の中でエールを送った。あと一歩だ。

 高橋や三好と目配せを送り合ったときだ。「ありがとうございました」という子どもたちの大きな声が聞こえてきた。練習が終わったのだ。丸山を囲む保護者たちの輪が崩れた。

 大地が、相沢のもとにやってきた。前に見たときよりさらに色が黒くなっているようだ。

 大地は相沢が差し出したタオルと水筒を受け取ると、汗を拭きながら言った。

「お母さん、練習の後に飲むやつ」

 迷うそぶりを見せる相沢に向かって、大地は言った。

「早くして。プロテインは練習直後に飲まないと意味がないんだよ」

「大地、あのね……」

 相沢が切り出すと、大地の目が尖った。

「さっさと出してよ。身体を大きくしないと、リトルでレギュラーにはなれないんだから。身体が小さいと不利なの。僕が小さいのはお母さんのせいでしょ」

 その場の空気が凍りついた。めぐみの胸の古傷がうずき始める。

 夫ばかりでなく、息子からそんなふうに言われるなんて……。大人と違って明確な悪意があるわけではないだろう。でも、想像するだけで、辛すぎる。

 近くにいた高橋が「あっちに行ってて」と息子をそばから追いやった。どうするのだろうと思っていたら、高橋は大地に声をかけた。

「大地くんは才能があるから、小さくたって、リトルでレギュラーを取れるよ」

 大地は子どもとは思えないような冷ややかな目で高橋を見た。

「そんなわけないでしょ。お母さん、プロテイン」

 母親に向かって手のひらを突き出す。

 相沢は悲しそうに目を伏せると、持っていたトートバッグから、錠剤タイプのプロテインを取り出した。大地は、素早くそれを飲み込むと、水筒を持ったまま、他の子どもたちのほうへ走って行った。

 灼熱の太陽の下で、大人五人がそろってうなだれた。普段は口数が多い高橋と三好も、黙りこくっている。

 何を考えてか、丸山がスマホをいじりはじめた。このまま解散するのがいいのだろうか。迷っていると、丸山が相沢に声をかけた。

「ちょっといいですか?」

 今、さっきの話の続きをしたら、逆効果ではないだろうか。やきもきしていると、丸山は意外なことを言い出した。

「大地くん、プロ野球に興味がありますか?」

 相沢は戸惑うように首を傾げたが、在京球団の名を上げ、そのチームのファンだと言った。

「だとすると、ブルーソックスの試合は見ていないはずだな。リーグが違うから」

 丸山はスマホの画面を相沢に見せた。

「来週の日曜、うちの家族と一緒に球場に行きませんか? 三塁側の安い席ならまだぜんぜんとれます」

 困惑する相沢に丸山は重ねて言った。

「大地くんに、僕の推しをぜひ見てほしい。一軍に上がったばかりであまり知られてないけど、ちょっとびっくりしますよ」

 相沢の隣で三好が顔を輝かせた。

「それってもしかして……」

 丸山が笑顔になった。

「ご存じですか? 小さな巨人」

「あの選手、いいですよね。大地くんに見てもらいたいかも。相沢さん、行こうよ。私もうちの子を連れてくから。高橋さんもどう?」

 高橋は丸山と三好の意図が読めないようだったが、何か考えがあるのは分かったのだろう。

「行く! 相沢さんも行こうよ。大地くんをはぶくのはかわいそうだよ」

 相沢は、困ったようにうなずいた。

 

 翌週の日曜の夜、めぐみは自宅のリビングでテレビをつけた。幸運なことに、地上波でブルーソックスの試合の中継をやっていたのだ。

 めぐみが野球の試合を見るのは、オリンピックの決勝戦以来である。今日の試合に出ている選手も誰一人知らなかったが、小さな巨人がどの選手かは、すぐに分かった。身長百六十四センチの遊撃手だ。

 ブルーソックスの先発投手は、身長百九十センチを超える本格派左腕だった。一塁手は同じぐらい上背があり、横幅も相当な外国人。内野で二番目に小柄な二塁手ですら、百八十センチ近くある。

 ピンチでマウンドに野手が集まると、小さな巨人は大人の中に交ざっている小学生のようだった。顔もどことなくあどけない。弱小チームとはいえ、スタメンで出ているからには、それなりに実力があるのだろうが、とてもそうは見えなかった。しかし、彼はなるほど巨人だった。

 五回表、ブルーソックスはワンアウト一塁で相手の主砲を打席に迎えた。初球、打者は三遊間にゴロ性の鋭い打球を放った。やられたと思った次の瞬間、めぐみは目を疑った。小さな巨人が、抜けつつある打球を斜め後ろから飛びついて止めたのだ。横ならともかく、後ろからである。普通に考えて、あり得ない。

 それだけでも驚きなのに、素早く立ち上がった彼は、身体をくるっと回転させて二塁に送球した。身体に強靱な軸が入っているのか、信じられないぐらいの空間把握能力である。

 ダブルプレーが完成した瞬間、割れんばかりの歓声が起きた。

 それで我に返った。いつの間にか、めぐみは立ち上がっていた。

 それにしても、なんという幸運だ。大地の観戦日にこのプレーが出るとは。

 そう思っていたのだが、七回と八回にも小さな巨人は、果敢で華麗なファインプレーで球場を沸かせた。彼にとっては、当たり前のプレーなのだ。

 画面の中で躍動する小柄な身体を見ながら、めぐみは思いを馳せた。

 相沢母子は、あの歓声の中にいるはずだ。大地は、何を思っているだろう。

 

 

 相沢親子が帰った後、丸山は晴れ晴れとした笑みを浮かべた。二人が来店する前の憂鬱な表情は、すっかり消え去っている。

「いやあ、よかった。サプリもプロテインも最小限にしていると聞けて安心しました。あの日、大地くんが、小さな巨人に自分を重ね合わせて胸を熱くしてるのは分かりました。でも、その後どうなったか分からなくて」

 それはめぐみも同じだった。高橋と三好はあれ以来、時々カフェに来てくれる。彼女たちによると、大地はあの後すぐにリトルリーグのチームに移籍した。彼女らの子どもと大地は、通っている小学校が違うので、その後どうしているかは、分からないそうだ。連絡も取れないという。リトルに転向する直前、相沢がカブスのチームメイトの保護者にお金を借りていることが監督や他の保護者に広く知られてしまった。相沢はそれを恥じているようで、借金をすべて返し終わった今、連絡しても梨のつぶてだという。

 いろいろあったのだろう。でも、今の相沢が幸せそうで本当によかった。自分が救われたような思いがする。高橋と三好にも伝えてあげよう。

 そしてしみじみ思った。丸山と始めたお医者くんカフェをなんとか軌道に乗せたい。

 お医者くんカフェを始めたのは今年の春、めぐみが通っていたクリニックを丸山が退職したのがきっかけだ。丸山は、雇用主が求める「効率のいい診療」がいつまで経ってもできず、雇用を打ち切られたのだ。

 丸山が辞めたと聞いたとき、残念でたまらなかったけど、どこか納得する気持ちもあった。

 それでも、丸山が間違っているとは思えなかった。自分にとっては、間違いなくいい医師である。

 丸山は退職後、しばらくしてからふらりとカフェに現れた。担当を続けられなくて申し訳ないと頭を下げる彼に、めぐみは言った。

 ――時間に余裕があれば、時々カフェのカウンターに立ってみませんか。

 気軽に医療や健康にまつわる相談ができる場を作りたかった。丸山を相手に、患者に思う存分しゃべってもらうのだ。そういう場があれば、救われる人がきっといる。高橋や三好だって、迷わず相沢を連れて来ただろう。

 ――お小遣いぐらいの謝礼しか出せなくて申し訳ありませんが、興味があればお願いします。

 その日、丸山は曖昧に笑って即答は避けたが、一週間後、スーツを着こんで現れると、カフェで雇ってほしいと頭を下げた。

 青天のへきれきだった。そこまでするつもりはなかったし、医師並みの給料などとても出せない。断ったら、丸山は生計は別の方法で立てると言った。

 午前中や夜間などに、レントゲン写真やCTの画像を読み取って診断をくだす読影のアルバイトをする。カフェでの仕事は、他のカフェスタッフと同じ給金で構わないという。丸山自身も、思うところがあったようだ。

 二人で膝を突き合わせて相談して、とりあえず今の形でお医者くんカフェをスタートした。

 これからどうなるか分からない。はなはだ不安でもある。でも、この年にしてようやく自分の足で歩き始めたという手ごたえを感じている。

 カミナーレ。店の名前にふさわしい仕事をしたいと思いながら、ドリップの練習を再び始めた丸山のぎこちない手元を見た。

 

(第13回につづく)