泌尿器科クリニックで受けた検査、そしてゴマ塩あごひげによる「一分間診療」により、自分の頻尿が心因性であり、ストレスや不安が原因かもしれないのは理解したが、「気のせいみたいなもの」とか「我慢する訓練をするように」と言われても、納得できなかった。尿意は、はっきりある。気のせいではない。我慢したら漏れそうになるからトイレに行くのだ。なのに、我慢しろと言われても困る。
ストレスや不安が強いようなら心療内科を受診したらどうかとも言われた、それは変だと思った。ストレスや不安は感じている。でもそれは頻尿の原因ではなく結果だ。薬を出してほしいと頼んだが、「心因性だからねえ」と断られた。
だったら、どうすればいいのか聞きたかったが、ゴマ塩あごひげは、祥子の目を見ようともせずに、野良犬でも追い払うように、ドアのほうを手で指したのだった。思い出すだけでも、腹が立つ。
ガラス張りの店内を覗いてみたところ、ふっくらとした体形の男性がカウンターの中にいた。髪を全体的に短く刈り込み、黒っぽいカフェエプロンをつけている。ほぼ直立不動の姿勢で、カウンターの一番奥に座っている初老の女性の話に耳を傾けている。
店には四人掛けのテーブルも二卓あるが、いずれも空席だ。いつもの女性バリスタも見当たらなかった。
自分に注がれている視線を感じたのだろうか。お医者くんが突然首を回して祥子を見た。弓形の太い眉を上げたかと思うと、しゃっちょこばった様子で会釈を送ってくる。
無視するのも申し訳ない気がした。会釈を返して立ち去ろうとしたところ、お医者くんが笑顔になった。はねるような足取りで、カウンターの中から店の外に出てくる。
年は四十前後といったところだろうか。身体ばかりか、頭の形も顔のパーツも丸っこい人だった。開けたドアを身体で押さえながら言う。
「寄っていきませんか? 今、患者さん、じゃなくてお客さんは一人だけなので」
興味はあるけど、今日は無理だ。祥子は膨らんだレジ袋を少し持ち上げて見せた。
「鶏肉を買ったので」
断ったつもりだったのに、お医者くんは、「さあ、どうぞ」と言ってドアを大きく開けた。
「鶏肉は足が早いから心配ですよね。すぐに冷蔵庫にスペースを作ります」
よく分からない人だ。でも、一つだけ確信できた。この人は、あのゴマ塩あごひげのように、患者をぞんざいに扱ったりしない。
祥子が渡した鶏肉のパックを受け取ると、お医者くんは、カウンターの奥にある厨房へと引っ込んだ。
祥子は先客の女性と席を一つ置いて座った。戻ってきたお医者くんは、お冷の入ったグラスを祥子の前に置いた。
「注文の前に」と言って、エプロンのポケットから、「医師資格証」と書かれたクレカ大のカードを取り出し、見せてくれた。
名前は丸山賢太。昭和六十二年生まれだから、祥子より六歳年上の三十八歳だ。
どこかの医療機関に勤めているのだろうか。
「丸山先生は……」
尋ねようとしたら、丸山に遮られた。
「丸くんと呼んでください。カフェなので」
微妙だなと思いながら、丸山が出してくれた手書きのメニューを見た。ソフトドリンク、紅茶とコーヒー。食事は出していないようだ。
「コーヒーをお願いします。えーと、豆ですけど……」
この店は、三種類の豆を置いている。祥子は、フルーティーなものが好みだった。
丸山は申し訳なさそうに頭を下げた。
「コーヒーはまだ練習中なんです」
それならしかたない。アップルジュースを注文した。丸山は冷蔵庫から、紙パックに入ったジュースを取り出すと、不器用な手つきでグラスに注いだ。ストローを添えて、祥子の目の前に置く。
待っていたかのように、先客が口を開いた。
「丸くん、続けてもいい?」
「あ、はい。ケイコさん、お待たせしました」
近くで見ると、彼女が着ている服は、アジアか中南米の民族衣装のようだった。髪はマッシュルームカットのグレイヘアだ。ちょっと癖のある人なのかもしれない。よく通る声で彼女は言った。
「そんなわけで、嫁にガツンと言ってやってほしいのよ。手作りおにぎりを食べたぐらいで、病気になんかなるものですか」
丸山は、腕を組んでうん、うんとうなずいた。
ケイコは、子どもに与える食事を巡ってお嫁さんと対立しているようだ。どこの家庭でも似たようなトラブルがあるんだなと思いながら、ジュースを飲んだ。
丸山は、時折り相槌を打ちながら、ケイコの話を聞いていた。医療相談というよりは、嫁に対する愚痴っぽい。
ケイコの話が一段落したところで、丸山は言った。
「分かりました。お嫁さんと話してみましょう」
「助かるわ。ところで個別相談っていくら? 他のお客さんの前で嫁を非科学的だと糾弾するのはかわいそうでしょ。他の人の目がないところで、三人で話したいの」
「それが……。一時間一万円なんです」
丸山が遠慮がちな口調で言う。ケイコがムスッとした表情になる。
「高いわねえ」
丸山は、「やっぱりそうですよねえ」と言いながら、後頭部をバリバリと指で掻いた。困ったときの癖なのかもしれないが、飲食店スタッフとしてそれはナシだろう。次の瞬間、丸山が軽く飛び上がった。
「ああ、すみません、すみません」
流し台へ向かい、石鹸を泡立て始めた。手を洗いながら丸山はケイコに声をかけた。
「料金については、僕も疑問だったんです。店長のめぐみさんと相談してみます」
「いつもコーヒーを淹れてる女の人?」
「はい。水島めぐみさん。お店のオーナーです。明日以降、連絡します。メモ用紙、そこにあるのでよかったら携帯の番号を」
「あらそう。よろしくね」
ケイコはそう言うと、身体を回して祥子を見た。
「待たせてごめんなさいね。ええっと、なんて呼んだらいいかしら」
ケイコも一緒に聞くつもりのようだ、勘弁してほしいと思ったが、考えてみればここはカフェのカウンターである。
お医者くんカフェの仕組みがだんだん飲み込めてきた。他人に聞かれてもいい話や健康や病気にまつわる雑談は、カフェ料金の範囲内。それ以上の突っ込んだ話がしたければ、個別相談として一時間一万円を払うのだ。どうしようかと迷っていると、丸山が助け船を出してくれた。
「気になる症状があるんですよね。それはあなた自身の問題ですか? それとも、家族やお知り合い?」
この状況で嘘をついても、丸分かりだ。ケイコは同性だし、まあいいか。
「自分です。半年ほど前からトイレが近くて困ってて」
丸山が口を開く前にケイコが身体を乗り出した。
「私もなのよ。夜に何度も起きちゃうの」
丸山はケイコを手で制した。
「ケイコさんのターンは終了。今はこの人のターンです」
祥子に向き直ると言った。
「症状を教えてください。その前に、ニックネームでもいいので……」
祥子、と答え、症状を説明した。
自分の場合、夜は特に問題ない。トイレに簡単に行けない状況、あるいはそういう状況になりそうなときに、行きたくなる。ただ、実際に間に合わなかったことはない。ドラッグストアで頻尿に効きそうな市販薬や漢方薬をいくつか購入して服用してみたが、症状は改善されなかった。
「医療機関は受診しましたか?」
「先月、泌尿器科のクリニックに行きました。尿や血液の検査や、超音波エコーをやってもらいましたが、悪いところは見つかりませんでした。心因性、端的に言うと、気のせいだそうです」
丸山は、うん、うんと二度うなずいた。
「よかったです」
祥子は、顔がこわばるのが分かった。なにがよかったというのだ。
祥子の表情に気づいたのだろう。丸山は慌てたように頭を下げた。
「すみません。でも、症状が改善しないのに、自己判断で市販薬を飲み続けずに、医療機関を受診したのは正解だと思います。あと、腎臓や膀胱に問題はなかったわけですよね。もっと深刻な疾患、例えばがんとかじゃなかったのはよかった。そう言いたかったんです」
ゴマ塩あごひげの話を聞いたときには、まったくそんなふうには思わなかった。でも、言われてみれば確かにそうだ。去年の秋にあった高校の同窓会で、吹奏楽部で一つ上の代の先輩が、乳がんで闘病中だと聞いた。三十代でもがんは決して他人事ではない。
丸山は続けた。
「頻尿には、婦人科系の病気が関わっていることもあるようです」
「そっちも大丈夫です」
三十歳の誕生日に、両親が人間ドックの受診券をプレゼントしてくれた。受けに行ったところ、子宮筋腫がみつかった。良性だし小さいので手術は不要と言われたが、半年に一度、婦人科で経過観察をしている。去年の暮れ、その婦人科で、頻尿の原因になりそうな疾患はないことを確認した。
「そうなると、その先生がおっしゃったように心因性でしょうね」
それは分かっている。知りたいのはその先、つまり対処法だ。
丸山がとつぜん手をポンと鳴らした。
「ああ、そうか」
期待しながらその先を待っていると、丸山は突然話題を変えた。
「僕の奥さん、プロレスファンなんです」
ケイコも首を傾げている。丸山は、嬉しそうに話を続けた。
「付き合い始めたころ、僕、言っちゃったんですよね。プロレスは筋書きがあるからフェイクだろうって。そうしたら、痛みはリアルだって怒られました。それと似ているなと思って」
「えっ?」
「祥子さんの尿意はリアルなわけですよね。気のせいなんかじゃない」
論点がズレている。でも、尿意がリアルというのは、まったくその通りである。
「ええ。なのに、気にするなとか、我慢する訓練をするようにとか言われても、どうすればいいやら」
「訓練について、具体的な指示はありましたか?」
「いえ。質問したかったけど、さっさと出ていけと言わんばかりの態度なんです。一時間も待たされたのに」
ケイコが身を乗り出した。
「分かるわー。ろくにこっちの顔も見ないで、はい、次の人ってかんじでしょ」
「そうなんです」
苦手なタイプだと思っていたケイコにシンパシーを感じた。同時にゴマ塩あごひげに対する怒りが蘇ってくる。
丸山は困ったように目を瞬いた。
「そこまで困った先生は、最近少ないと思うんですが。時間に追われているという事情もあるんだろうなあ。とにかく災難でしたね」
ケイコが鼻を鳴らした。
「同業者だからってかばう必要なくない?」
憤慨するのを「まあ、まあ」といなし、丸山は続けた。
「とにかく災難でした。それはそうと、その先生がおっしゃっていた訓練ですが」
いわゆる「膀胱トレーニング」だろうと丸山は言った。初めて聞く言葉だった。丸山は説明を始めた。
頻尿にはいくつか原因がある。主な原因の一つが過活動膀胱だ。患者数は国内で一千万人以上と言われる。その名の通り、膀胱が過剰に活動する病気だという。尿が溜まっていなくても、膀胱が勝手に収縮するのだそうだ。
「急に強烈な尿意を感じるそうです。トイレに間に合わない場合もあります」
膀胱トレーニングは、この病気の治療に有効とされる。心因性の頻尿にも効果があると言われている。
「尿意を感じても、少し我慢してからトイレに行くようにするんです。最初は五分ぐらい。だんだん我慢する時間を延ばしていきます。すると、膀胱に溜められる尿の量が増えて、頻尿が改善する人もいるそうですよ。お金もかからないし、無理のない範囲で試してみたらどうですか」
「そうですね。やってみます」
ゴマ塩あごひげが、今みたいに説明してくれたら、素直に取り組めていたかもしれない。
「薬はないんでしょうか」
「うーん、そうですね。ズバリ心因性頻尿に聞く薬、というものはないようです。ただ、さっき言った過活動膀胱の薬を心因性頻尿の患者さんにも処方することはあるようです。膀胱を緩めて、尿意を抑えます」
なんだ、薬はあるじゃないか。
「それで治るんですか? だったら、なんでこの前の先生は処方してくれなかったんでしょう。ひょっとして……」
はっきり口にするのは、はばかられるが、いわゆるヤブ医者に当たってしまったのではないか。
丸山は祥子が飲み込んだ言葉を汲み取ったようだ。丸い頬を引き締めた。
「その先生が間違っている、と言いたいわけではありません。その先生は、薬を使うより、膀胱トレーニングをしたり、気にしないように、つまり、意識をそらして尿意を抑えるようにしたりすれば、祥子さんの症状はよくなっていくのでは、と考えたんだと思います。しばらくそれで様子を見て、よくならないようであれば、薬という選択も出てくるかもしれませんね」
なるほど、そういうことか。そして少し驚いた。ゴマ塩あごひげと丸山が言っていることは、実質的にほぼ同じである。違いは、邪険に扱われたか否か。その一点だ。話をしっかり聞いてくれ、丁寧に説明し、疑問に答えてもらえると、納得感がぜんぜん違う。
丸山は続けた。
「ストレスや不安が強いようなら、心療内科の受診を考えてみてもいいかもしれませんね」
ゴマ塩あごひげもそう言っていた。
「不安を和らげる薬を使うことで、頻尿が改善する場合もあるようです」
「心療内科はなんとなくハードルが高くて……。薬はなんだか怖いし。そもそも、ストレスや不安は頻尿の原因ではなくて結果だと思うんです。卵が先か、鶏が先か、という問題かもしれませんが」
うんと丸山はうなずいた。
「でも、ストレス解消のために、何かやったほうがいいとは思ったんです。それで今日はフィットネスジムを見学してきました。運動は苦手だし、嫌いなんですけど、そうも言ってられないので」
丸山は笑顔になった。
「大正解だと思います。素晴らしい」
ギョッとした。そして丸山の表情をうかがった。
大人が大人を手放しで褒めるなんて、何か裏があるのではないか。しかし、丸山の表情には邪気がなかった。そういう人なのだ。
そうか。ジムは、大正解なのか。
「ジムでは、ヨガのクラスとかもあるんじゃないですか?」
「そうみたいですね」
骨盤の底を支える「骨盤底筋」を鍛える目的のヨガが最近流行しているのだと丸山は言った。
「頻尿の改善に効果があると言われています。祥子さんが通える時間帯にクラスが開催されていたら、ぜひ行ってみてください。そんなかんじで、しばらくやってみましょうか」
「はい」
やるべきことがクリアになった。それだけで前向きな気持ちになれる。
ケイコが尋ねた。
「ねえ、丸くん。ジムって、そんなにいいの?」
「ジムというより、運動をする気になったのが、素晴らしいです。そもそも現代人はたいてい運動不足です。僕だって体形を見てもらえば分かると思いますが、まったく運動が足りてません。たまの休みに子どもと公園で遊ぶぐらいでは、食べた分のカロリーを消費できないんだろうなあ。かといって、好きなものを食べるのを我慢するのもつらいし」
「それは駄目よ。ストレスになって、かえって身体に悪いから」
「いやまあ、でも、適正体重をオーバーしている人間が、なんでも好き放題に食べるわけには……」
「まあねえ」
二人のやり取りを聞きながら、自分のターンは終わったのだなと思った。
明日、早速ジムに申し込みに行こう。トレーニングウエアとシューズも買わなければ。
半分以上残っていたアップルジュースを一気に飲み干すと、祥子は丸山に会計を頼んだ。