第五章
3
瀧川はIFAUCの職員と共にオフィスを見て回り、午後三時に自宅マンションへ戻った。
オフィス内はごくごく一般的なものだった。
実務を行なうスペースの他に、面談室や応接室があるだけ。上手に仕切られたワンフロアのすべてを職員は案内してくれた。
時折、作業中のパソコンの画面を覗いてみたが、そこにも特に怪しいものは映っていなかった。
詳細がわからないので拙速な判断はできないが、裏で行なわれている国際養子縁組の実務を管理している場所は別にあるような印象を持った。
いずれにせよ、この機会を端緒に深く潜るしかない。
玄関に入って鍵を閉めた。リビングにはソファーとテーブルがある。瀧川はバッグを脇に置いて、ノートパソコンを取って座った。
背もたれにゆったりと背を預け、脚を組んで、太腿に載せたノートパソコンを開き、起動する。
さっそく、公安部の専用サーバーにアクセスする。そして、今回の事案に関してのIDとパスワードを入力する。
エンターキーを叩くと、今回の事案に特化したサイトが表示された。
いくつかのフォルダーに新着情報アリとのサインが出ていた。一つずつ、クリックしていく。
白瀬と藪野は、葛西にあるビルにいるようだ。二人別々に入っていったが、そこにはミライニ関係の会社が入っているという報告がされていた。
なぜ、二人が同じビルに入っていったのかはまだわかっていない。公安の職員が今も監視しているという。
健太郎の様子も届いていた。白瀬が仕込んだ中継機はしっかりと機能しているようだった。
映像を再生してみた。
薄暗く何もない地下空間に十数名の子供たちが閉じ込められている。布団はなく人数分の寝袋が置かれている。
健太郎たち年長の子供は、まだ幼い小学生、あるいは幼稚園児と思われる子供たちと遊んであげて、不安を払拭させている。
自分たちも不安で仕方ないだろうに、笑顔を絶やさず、小さい子供たちの面倒を見ている彼らには、本当に頭が下がる。
食事の時間になると、パンや果物、飲み物などが投下された。健太郎は腰を迫り出し、バックルに仕込んだカメラで食料が落ちてくるシーンを撮影していた。
場所は健太郎が脱出し、また戻ったあたりだ。つまり、物置小屋の窓から投下されているという証拠。何者かが毎日、時間になると小屋へ入り、食料を与えているということになる。
公安部員からの報告では、食料投下時間に出入りしているのは、主に宮代大幸と確認できている。他、大幸に近い二名の男女が出入りしているそうで、現在、その人物の特定を急いでいる。
夜の映像がある。みんな、静かに眠っている中、健太郎が囁いている。
『今日の晩御飯には睡眠薬が仕込まれていたようです。誰かが連れ出されるか、誰かがここに入れられるのだと思います』
健太郎の声も重い。睡眠薬で眠い中、必死に意識を保って報告してくれているようだ。
その後、健太郎はバックルを唯一のドア口に向け、寝てしまった。
しばらくすると、ドアが開いた。黒いスーツ姿の男が寝袋を肩に抱えて入ってきた。重そうだ。
男は子供たちが寝ていることを確認して、空いたスペースに寝袋を置いた。
健太郎の隣だ。当たらないよう、少し離して袋を置くと、顔の部分のチャックを開けた。人の顔がかすかに映るが、よくわからない。
男は運び入れた誰かをそのまま置いてドアを出て、鍵をかけた。
健太郎は寝返りを打つふりをし、バックルをチャックの開いた部分に向けた。薄暗い中で、画像が揺れる。
袋から長い髪が出ている。胸元のふくらみも映る。女の子のようだ。
そして、バックルのカメラが女の子の顔を捉えた。
「えっ?」
瀧川の口から思わず声が漏れた。身を乗り出し、少し巻き戻して、顔を捉えたところで一時停止をかける。
「これは……」
モニターを凝視する。
間違いない。
すぐにスマートフォンを取った。
「すみません、瀧川です」
連絡を入れたのは日埜原だった。
「先ほど帰宅して、報告書の添付動画を見たんですが、運び込まれた女の子に心当たりがあります。はい……わかりました、お待ちしています」
通話を切る。
再び、モニターに目を向ける。
見れば見るほど、間違いない。
映っている女の子は、瀧川が補導したことのある星名しのぶだった。
4
ブラインドカーテンの隙間から覗く外景は、陽が落ちてとっぷりと暮れていた。
もう何時間経っているだろうか。ビル五階の会議室のような場所に閉じ込められた者たちは、いまだ解放されていなかった。
ナルミはしつこく、何度も何度も一人一人に尋問をした。
老若男女問わず、無傷の者はただの一人もいない。
藪野ももちろん、無傷ではなかった。顔は腫れ上がり、口の奥は切れ、咳き込むたびに血がフロアに四散した。
暴行に耐え切れず、気を失った者もいる。そのたびにナルミは水を浴びせて意識を取り戻させ、再び暴行を加える。
あまりの執拗な暴行に耐えかね、自分も潜入者だと自白する者もいた。
おそらく、彼らは潜入者でも公安部員でもない。
暴力による自白の強要は、時として、恐怖から逃れたいばかりの虚偽申告を引き出してしまう場合がある。
絶望的な空気が支配する中、嘘をついてでもこの地獄絵図から逃れたいと思う者たちが一人、また一人と出始めていた。
白瀬はステージの奥で壁を背に伸びていた。
顔かたちは見る影もない。明るい色の服はシャツもズボンもおびただしい血で、赤黒く染まっている。
両腕はだらりと垂れ、投げ出した両脚も動かない。うなだれたままピクリとも動かず、呼吸しているのかどうかもわからない。
藪野は怖くて縮こまっている演技を続けながら、どうするか考え続けていた。
ナルミはおそらく、全員を疑っているのだろう。白瀬以外の自白者が出たことで、全員に潜入者だと認めさせようとしているような気配も感じる。
白瀬の様子が気になる。おそらく、周りには公安部員も待機しているだろうから、なんとか脱出してSOSを出すのが最良の策なんだろう。
ナルミはミライニという会社名を出した。
ミライニの社長、宮代福士は、以前からこの事案に関して公安部がマークしていた本丸だ。
ナルミがミライニという会社名を口にしたことは、ここにいる全員が聞いている。暴行の事実も自分たちの肌で知っている。
ナルミを挙げ、そこからミライニへ踏み込むことは可能だ。が、おそらく、今騒動を起こせば、本丸は雲隠れするだろう。
宮代福士を逮捕したとしても、自分はあずかり知らぬことと通されてしまえば、逃げ切られてしまう。
どうする……。
決められずにいると、またナルミが藪野の前に来た。
藪野は身をすくめた。襟首をつかまれ、椅子の脚を蹴られて倒される。そこから、ナルミは右足を振りまくった。
藪野はフロアで丸まった。背中に顔に腕に蹴りが当たる。避けているとはいえ、何度も食らいすぎて、全身がじんじんと痺れていた。
「ミツオさん、そろそろ白状してくれませんか。自分はネズミだって」
「なんのことか……」
藪野が少しだけ顔を起こした。
と、顎の下からナルミの足の甲が飛んできた。不意で避けられない。
まずい。顎を引こうとしたが、間に合わない。
藪野の首が後ろに反り返り、顎が跳ね上がった。
脳みそが揺れた。一瞬だが、意識が途切れた。すぐに戻ってきた意識も揺らいでいる。
「俺が見たところでは、あんたが一番怪しいんだけどなあ。カネミンさんが愛好者を紹介してきたことなんてないんですよ。どんなに仲が良くてもね。あの人は自分の趣味と自分自身にしか興味のない人だから、わざわざ趣味の場を荒らされそうなリスクは冒さないはずなんですよ。それでもあんたを紹介してきた。もし、そういうことがあるとすれば、自己保身。あんたが暴力で脅したか、あるいは──」
ナルミは藪野を見下ろした。
「あんたがサツかだ」
藪野の顔を踏みつける。その圧力で側頭部を打ち、また意識がもうろうとする。
「あんた、サツだろ」
「ああ、ううう……」
違うと返事をしようとした言葉が呻きになっていた。口もうまく開けなくなっている。
ただ、ナルミが完全に自分を的にしているのは感じた。意識のあるうちに逃げなければと思う。
勝手に体が動きそうになる。顔をナルミの靴底に押し付け、足首を握って、一気に起き上がれば、ナルミはバランスを崩す。
その隙に立ち上がり、椅子を振り回して暴れれば、活路は開ける。
危機を感じれば感じるほど、生への執着が高まり、本能的に体が動こうとする。
ナルミはぐりぐりと藪野の頬を踏みつけた。奥歯がぎしぎしと音を立てた。砕けそうだ。
仕方ないか──。
動こうとした時だった。
「おまえら!」
怒鳴り声が聞こえた。
白瀬の声だった。
「遊んでていいのかよ?」
座ったまま声を張る。
ナルミは白瀬のほうを向いた。白瀬はゆっくりと顔を上げ、血まみれの口元に笑みをにじませた。
「おまえら、俺が何の仕込みもなく、ここへ来ていると思ってんのか?」
「なんだと?」
ナルミが気色ばむ。
「おい、ドアんとこで突っ立ってる木偶の坊。窓から外を見てみろ。ここをチラチラ見てる連中がそこかしこにいるだろうが」
白瀬が言う。
ナルミは顎を振った。黒スーツの男がうなずき、オフィスフロアに走る。
「てめえ、フカシ入れてんじゃねえぞ」
ナルミが眉を吊り上げる。
「フカシかどうか、もうすぐわかる。俺が出てこなかったら踏み込めと言ってある。そろそろ仲間が踏み込んでくる予定だ」
「仲間だと?」
ナルミが離れた。白瀬に近づいていく。
藪野は顔を起こして、瞬時に全体を見た。ドア付近にいる男が少ない。今しかない!
「わああああ!」
藪野はわざと大きな声を出して立ち上がり、ドア口へ走った。
いきなり向かってきた藪野に立っていた男が一瞬怯んだ。
「みんな、逃げろ!」
藪野は叫び、男に体当たりをした。不意打ちを食らった男が後方へよろめく。ドア口から人が消える。
他の参加者たちはここぞとばかりに立ち上がり、ドア口に殺到した。揉み合いながら、オフィスに出る。
藪野はオフィスの椅子を取った。そして、窓に駆け寄り、思いっきり振り回して投げた。
窓ガラスが割れた。粉々になったガラス片と椅子が左近通りに落ちていく。
外を見る。通行人が見上げていた。
「助けてくれーーー!」
そこら中に響くほど大きな声で叫んだ。
黒スーツの男が藪野の襟首を引っ張る。藪野は窓枠を握った。割れたガラスの先が手のひらに突き刺さる。
それでもかまわず、窓枠を強く握り、男の体ごと引き寄せた。窓から身を乗り出し、さらに叫ぶ。
「殺されるーーー!」
尋常でない叫び声を聞いて、通行人はさらに立ち止まり、上を向く。走っていた車も停まり、上を見上げる。
「てめえ、こら!」
黒スーツの男は藪野の首に腕を巻いた。が、すぐに通行人たちの視線に気づき、室内に隠れた。
他の参加者たちはエレベーターへ向かおうとしていた。しかし、黒スーツの男たちが追いかけてくる。
オフィス内を駆け回る。
藪野も男の手を振り払い、みんなと同じように玄関口へ走った。
と、黒スーツの一人がオフィスを横切り、ミーティングルームとは反対側の部屋へ走った。
気になるが、今は逃げる方が優先。とにかく、ここから出るしかない。
半分くらいの参加者が玄関に押し寄せ、そのまま通路に出ていた。エレベーターのボタンを押すが、なかなか上がってこない。
藪野は廊下に飛び出すと声を張った。
「非常口があるぞ!」
その声を聞いて、逃げ出した者たちが廊下の奥に走り出した。
藪野もそこへ向かう。エレベーターが到着し、扉が開いた。
非常階段を駆け下りるほうが早い。またすぐ外につながると、より逃げられる確率は高くなる。
藪野がエレベーター前から離れようとした。ふと背後を見る。
黒スーツの男たちが出てきた。その手に握られているものを見て、藪野は目を見開いた。
銃だ!
とっさにエレベーターに飛び込む。すぐに銃声が轟いた。単発の音もあれば、小銃のような連射音も響く。
悲鳴が聞こえる。
「くそったれが!」
藪野はエレベーターのドアを急いで閉じ、一階のボタンを押した。
ドアの左側に立って、身を細くする。エレベーターは下へ降りていく。そして、一階に到着した。
チンと音が鳴り、ドアが開く。すぐさま、銃声が響いた。奥の壁で火花が飛び散り、弾丸がめり込む。
硝煙が煙り、漂う。
何者かがそろそろと中を覗いた。
藪野はその襟首をつかんで引いた。つんのめった男を振り回し、引き寄せると同時に右腕を握って頭突きを入れる。
男の顎が跳ね上がった。手元を見る。銃を握っている。藪野は銃をもぎ取り、男の体を押し出した。
再び、銃声が轟いた。男の体に銃弾が食い込む。男は悲鳴とともに舞い、壁にぶつかった。血の筋を壁になすりつけ、ずるずると崩れ落ちる。
藪野は左手で銃を握り、ドアの先に突き出して乱射した。複数の悲鳴が上がった。
そのまま飛び出す。人影を見つけ、発砲する。敵が次々と倒れる。
玄関ドアの前に男が立っている。藪野に銃を向けている。藪野は銃口を向け、引き金を引いた。
が、スライドが上がっていた。弾切れだ。
まずい!
藪野は一瞬、固まった。
やられる! と思った瞬間、銃声が轟いた。
ドアの前の男の頭部が弾けた。血肉が花火のようにパッと飛び散った。男はゆっくりと前のめりに倒れ、廊下に沈んだ。
その先にスーツを着た男がいた。
「公安の者です」
男が言う。その後ろから、スーツの男たちが次々と駆け込んできて、まだ息のある敵を制圧していく。
藪野は息をついた。膝が崩れそうになり、両手を太腿に置く。
「遅えよ、おまえら……」
男が駆け寄ってきて、藪野を支えようとする。その手をやんわりと払う。
「俺はいい。上で白瀬がやられている。他の参加者にも銃が向けられた。制圧しろ」
「わかりました」
男は首肯し、すぐに指示を出した。
部員が動くのを見て、藪野は壁に寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。
(つづく)