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瀧川は病院を訪れた。
林田佐夜子は警察病院の個室に収容されていた。ドアの前には公安部員が一人座っていて、面会謝絶の札がかかっている。
しかし、瀧川は特別に面会を許された。鹿倉からの指示があったからだ。
自分だけが会えるという事実に作為的なものを感じるが、今はともかく、林田佐夜子の話を聞きたかった。
中へ入る。佐夜子はベッドに寝かされていた。
首には痛々しく包帯が巻かれていた。骨皮のような腕にはいくつもの点滴の針が刺されている。
日埜原の話では、佐夜子は傷の治療剤と栄養剤、レグテクトという飲酒欲求を軽減させる薬を投与されていると聞いている。
カーテンの隙間から差す光が、佐夜子の青白い骸骨のような顔を照らしていた。
瀧川はベッドの脇にパイプ椅子を持ってきて座った。
その物音で佐夜子が目を開いた。瀧川を認めた途端、険しい眼差しを向ける。
「無事でよかったです」
瀧川は笑顔を向けた。
「指は動かせますか?」
訊ねる。
佐夜子はそっぽを向いた。
瀧川は食事用のベッドテーブルを引き寄せ、カバンからタブレットを取り出して掛布団の上に置き、テーブルに立てかけた。
「メモ帳におっしゃりたいことを書き込んでください。入力してくれたら、音声で読み上げてくれるように設定しているので、話ができます」
言うが、佐夜子は瀧川の方を見もしなかった。
瀧川はかまわず、話しかけた。
「お母さんが病院へ運ばれた後、少し家を調べさせてもらいました。健太郎君はよく勉強していたんですね。勉強の方法も素晴らしい。本当に賢い息子さんだったんですね」
穏やかに話すが、佐夜子は反応するそぶりを見せなかった。
「調べていたところ、健太郎君が学校で使っていたタブレットを発見しまして」
そう言うと、佐夜子の肩が少し揺れた。
「そこにIDとパスワードのメモ書きがあったので入力してみたら、お母さん名義の口座に五百万ドルもの大金が振り込まれていました」
佐夜子の身が強ばったのが見て取れた。
「ところが、私たちが調べ始めた途端、残高が0になったんです」
言うと、佐夜子が瀧川の方を見た。
驚きとも失望ともつかない顔つきだった。
「現在、それを調べているところなんですが、お母さんに伺いたいことが何点かあります。IFAUCとはなんですか?」
ストレートに訊いてみた。
佐夜子の頬が引きつる。そしてまた、顔を背けた。
「IFAUCという団体を調べてみますと、国際的な養子縁組を紹介、斡旋する団体だと判明しました。お母さん、その団体の職員と会われたことはありますか?」
訊くが、佐夜子は答えない。
かまわず、問いを続ける。
「IFAUCに金銭のことと健太郎君のことを問い合わせてみました。しかし、どちらも知らないという返答でした」
そう言うと、今度は驚きをあらわにして、瀧川の方を向いた。体を起こそうとして、たまらず顔をしかめる。
「寝ていなければダメです」
両肩をそっと押して寝かせ、点滴の針が外れていないかを確認する。うなずいて、佐夜子を見つめた。
「お母さん、健太郎君を養子に出すという話でも受けたんですか?」
訊くと、佐夜子の黒目が揺れた。
そういう話があったようだ。
「いつ、誰がその話を持ってきたんですか?」
少し強い口調で訊ねる。
佐夜子は目線を逸らした。
「お母さん。私も、正式にIFAUCを通じて養子として出したなら、ここまで訊いたりはしません。一応、IFAUCについて調べてみましたが、きちんとした団体のようです。多くの子供たちが、そこを通じて幸せを手にしている。ただし、養子縁組が成立したことにたいして報酬を出すというようなことはしていません。もしそれをやっていれば、養子縁組ではなく、人身売買です」
強烈なワードに、佐夜子は狼狽する様を見せた。
「もし、IFAUCを騙った人身売買組織に健太郎君が連れて行かれたとすれば、どうなるかわかりません。一刻も早く、健太郎君を救い出さなければ」
畳みかける。
佐夜子がタブレットに手を伸ばした。細い指でタッチパネルを操作する。
なかなか思うように入力できないようだが、瀧川はじっと待った。
佐夜子がエンターキーをタップした。音声が流れる。
「警察官から紹介されました」
「警察官? 誰です?」
瀧川が訊く。佐夜子は入力した。
「わかりません」
そう答えて、さらに打ち込んだ。長文を打ち込んでいる。瀧川はタブレットの画面を見ながら、打ち終わるのを待つ。
「少年課の刑事だという人が来て、健太郎が万引きを働いたと言っていました。このままでは、健太郎の将来が潰れてしまう。それを解決する方法があると」
音声が流れた。
「その解決方法が養子縁組というわけですか?」
佐夜子はうなずいて、タブレットに入力を続けた。
「児童相談所の職員という人を紹介されました。その人から、アイエフオークという国際養子縁組団体があるので、そこに預けてみたらと提案されました。健太郎はサッカーがうまいので、欧州の人の養子となれば、世界で活躍する場にも恵まれるかもしれない。息子さんに大きなチャンスを与えてあげたらいかがですかと」
佐夜子は時折肩で息を継ぎながらも、指を止めなかった。
「健太郎君はそのことを知っていたのですか?」
瀧川が訊く。
「私は話していません。正直、迷っていました。すると、職員の人から連絡があって、こちらで健太郎に事情を話したところ、健太郎は話を受けて、養子に行くと言ったんだそうです。健太郎にとって、私との暮らしはつらいものだったでしょうから、少しでもいい暮らしがしたいと思ったのかもしれません」
佐夜子は懸命にタブレットを叩き、事情や胸の内を吐露していた。
「養子縁組が決まれば、あなたの治療費やあなたが生活を立て直す資金もこちらで用意しますと。心身を立て直して、いずれまた息子さんと一緒に暮らしたらどうですかと。私は納得するしかありませんでした。けど」
佐夜子は嗚咽を漏らした。涙を流している。
「私がしっかりしていれば。私が。私が。私が。私が」
佐夜子の嗚咽がひどくなり、咳き込んだ。
「落ち着いて! わかりました!」
瀧川はすぐにナースコールを押した。
佐夜子はあーあーと声を絞り出そうとしていた。包帯が血で滲む。
看護師が駆け込んできた。佐夜子の様子を見て、すぐに医師へ連絡を入れる。
佐夜子は瀧川の腕をつかんだ。そして、瀧川を見つめた。
「あーのこーをーたーすーけーて。あーのーこーをー」
故障寸前のスピーカーからあふれる雑音のようだったが、瀧川はその願いを受け止めた。
両手で右手を握り、強く首を縦に振る。
「お母さん。健太郎君は決して、あなたを見捨てたわけではありません。本棚に使っていたカラーボックスの教科書の後ろには、アルコール依存症の本がたくさんありました。健太郎君は、お母さんを助けたかったんです。そのために一所懸命勉強をして、自分にできることを精いっぱいがんばっていた。本当に素晴らしい息子さんだ」
瀧川の言葉に、佐夜子の涙が止まらなくなる。
「あーのこーをー、あーのーこーをー」
声を絞り出すほどに包帯が赤くなり、佐夜子の顔から血の気が失せていく。
「あのこを──」
瀧川の腕を握っていた手から力が抜けた。瀧川の腕にずしりと重みがかかる。
「お母さん! 林田さん!」
瀧川は大声で呼びかけた。
医師が駆け込んできた。看護師が脇に立ち、点滴の様子を見る。医師は包帯を取って、傷口のガーゼを開けてみた。
「いかん、傷が開いて出血している。すぐに緊急オペの用意を!」
病室内があわただしくなってきた。
「あんた、何をしたんだ!」
医師が怒鳴る。瀧川は答えなかった。
他の看護師も入ってきて、佐夜子をストレッチャーに乗せた。処置をしながら、急いで病室を出ていく。
瀧川は運び出されていく佐夜子の無事を祈りながら見送り、ベッドに残されたタブレットを取って、病院を後にした。
(つづく)