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第四章

 

 

 

 瀧川が目を覚ました。畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。

「やっと、気がついたか」

 声のした方を見た。藪野がいた。

「ここは?」

「教官たちの仮眠室だ。もっといいところかと思ったが、現場とたいして変わらねえな」

 藪野が笑う。

「しかし、あんなショートアッパー一発で伸びちまうなんて、少し気が抜けすぎちゃいねえか?」

「あんな不意打ちのパンチは避けられませんよ」

「俺はおまえの肘打ちをかわしたがな」

 藪野は瀧川の頭をぺちっと叩いた。

「起きたぞ。入ってこい」

 藪野がドアの外に声をかけた。瀧川がドアの方を見る。

 白瀬に続いて、健太郎が入ってきた。健太郎は瀧川を見て、頭を下げた。白瀬が健太郎の肩を抱き、瀧川が寝ている一段高くなっている畳間の脇まで連れてきた。

「健太郎君が話をしたいんだと」

「それはいいですが。白瀬さん、キノコの里は大丈夫なんですか?」

 瀧川は上体を起こした。

「君が寝ている間に部長が部員を手配した。大きな動きがあれば、すぐ突入する」

 白瀬は微笑んだ。

 藪野が立ち上がり、畳を降りた。健太郎の肩を叩く。

「まだ、戻るまでには時間がある。ゆっくり話すといい」

 そう言い、白瀬と共に部屋を出た。

 健太郎は靴を脱いで、畳に上がった。瀧川の左脇に正座をする。

 しばし、うつむいて押し黙っていた。瀧川は健太郎が話しだすのを待った。

 健太郎はちらりと瀧川を見て、口を開いた。

「あの……。母を病院へ連れて行ってくれたそうで、ありがとうございました」

 太腿に両手を置いて、頭を下げる。

「お母さん、無事でよかった。早く帰ってあげなさい」

 瀧川が優しく言う。

 健太郎は拳を握った。

「いえ、僕は戻ります」

「健太郎君。今ならまだ間に合う。部長たちの言うことはもっともらしく聞こえるが、大人の論理だ。君が従う必要はない。君たちは被害者なんだ」

「連れ去られた子供たちはどうなるんですか?」

「それはまた、僕たちが考えることだ。君が心配する必要はない。必ず、助ける」

 瀧川が笑みを見せる。

「それでも、僕は……」

「なぜ、そこまで体を張ろうとするんだ? 君が残された他の子たちを思う気持ちはわかる。しかし、それだけではないだろう?」

 瀧川はじっと健太郎を見つめた。

「何か、他に言われたことがあるんじゃないか?」

 訊かれると、健太郎は顔を伏せた。太腿に置いた拳を固く握ったり緩めたりする。

「……母の治療費を出してくれると」

 健太郎が小声で言った。

「やはりか……」

 瀧川は大きくため息をついた。

 公安部が飴と鞭を使うことはよく知っている。だが、未成年にまで、その手を使って嵌め込むとは、許しがたい。

「母の入院費、治療費、僕の学費を出してくれると」

「甘い条件を提示して協力させる。それが公安部のやり方だ。君が以後、利用されるとは思わないが、その代償は大きい。時に、自分だけでなく、自分に関係するすべての人を巻き込むこともある。踏み込まないなら、その方がいい世界だ」

 瀧川は静かだが強い口調で話した。

 健太郎は拳を固く握りしめ、震えた。

「それでも僕は、戻ります」

「なぜだ? 罪悪感なら感じる必要はない。君も被害者だ。正義感で間違えるな。危険を承知で踏み込むことだけが正義を通す方法ではない。周りを巻き込まないことも君の正義だ。もっと、様々なことを考えて──」

「僕は自分の手で人生を変えたい」

 健太郎が顔を上げた。

「有村さんのお父さんなら、僕が学校でどう見られているか知っていると思いますけど」

「うん、聞いている。頭がよくて、サッカーもうまくて、とても人気のある男の子だと言っていたよ」

「本当にそうだと思いますか? うちの現実を見て」

「そうじゃないのか? 僕の印象では、その上、思いやりもあって、勇気もある。素晴らしい少年だと感じているが」

「それは本当の僕じゃありません。僕は僕の理想を演じているだけです」

 健太郎は瀧川を睨んだ。

「母が体を壊してしまって働けなくなったのは僕のせいです。片親として、精いっぱいがんばってくれていたことには今も感謝していますが、正直、毎日毎日お酒を飲んで壊れていく母を見ているのはつらかった。何度も聖稜もサッカーもやめてアルバイトすることを考えていましたけど、母はそれだけはやめてくれと言いました。僕が聖稜でサッカーをしていることだけが誇りだからと。お金もないはずなのに、遠征のたびに費用をどこからか絞り出してくれて。でも、母が壊れるほどに僕への期待が大きくなっていくのは、本当にきつかった。だから、今回、誘拐されて家から離れられて、ホッとした自分もいるんです」

 健太郎は時折自身の言葉に苦しそうな表情を見せながらも、思いを口にした。

「ひどいでしょ。でも、どこかで母から解放されたかった。今の自分が置かれた状況から脱したかった。今回、僕はそのチャンスだと思っているんです。母が健康になってくれれば、働けなくても、いつ倒れるかもしれないという不安を抱きながら学校に行くこともない。何より、家が僕の居場所になるんです」

 健太郎は拳を固く握って震えた。

 瀧川は声をかけようとした。が、林田家の状況を目の当たりにした自分には、健太郎の思いを非難することも否定することもできない。

 むしろ、そこまで思い詰めていながら、道を踏み外すことなく、周りの誰もが認める男子像を貫いてきた健太郎は立派だとしか言えない。

「有村さんのお父さん。僕が僕の手で人生を変えてはいけないんですか?」

「そんなことはない。だが、他にも方法が……」

「僕がどこかのユースチームに入って、トップチームに上がるまでがんばれというんですか? 何か、プログラムでも開発して、起業しろとでもいうんですか? いずれにしても、あと四年も五年もかかる。中学を卒業してすぐ働けというんですか? 中卒で就ける仕事では、生活費を稼ぐのが精いっぱいで、母に専門治療を受けさせることなんてできない。そうできるまで、がんばれというんですか? あと何年がんばったら、救われるんですか、僕は!」

 健太郎が声を張った。下瞼は涙で膨れている。感情的な顔は初めて見た。

 考えてみれば、まだ遙香と同い年の子供だ。大人びているとはいえ、未成熟な心身が抱えるには重すぎる問題でもある。

 しかしそれでも、自分の力でこの苦境から脱しようとする健太郎を制する言葉を、瀧川は持ち合わせていなかった。

「……わかった。君が協力することを認めよう」

 瀧川は言った。

「ありがとうございます!」

 健太郎は背筋を伸ばし、頭を下げた。グッと押し付けられた太腿の上の拳に、健太郎の覚悟が見て取れる。

「ただし、危険を感じたら迷わずSOSを出すこと。躊躇すれば、君だけでなく、君の仲間も我々も死ぬかもしれない。判断は一瞬。生きることだけ考えること」

「はい」

 健太郎は強く首肯して、生唾を飲んだ。緊張が伝わってくる。

 瀧川は表情を和らげた。

「君は演じているだけと言ったが、学校で遙香たちが感じている君、僕が君に感じた正義感や思いやり、そのすべては君が自分の中に持っているものだ。偽物じゃない。そこは絶対否定するな。母親や境遇に対する気持ちも本物だ。それも否定することはない。全部ひっくるめて、林田健太郎という一人の人間を構成するものだからな。受け入れるだけでいい」

 そう言い、健太郎の二の腕を軽く叩く。

 健太郎は再度強くうなずいた。

「それと、任務中、何かあった時でも決して僕のことを有村とは呼ぶな。うちの者に危険が及ぶ。たとえ殺されそうになっても決して口を割るな。それだけは頼むぞ」

「わかりました」

「公安部が全力でサポートする。さっさと終わらせよう」

 瀧川は右手を出した。健太郎も右手を出す。

 二人は互いを正視し、固く握手をした。

 ドアが開いた。藪野と白瀬が入ってくる。

「健太郎君、そろそろ戻らないと」

 白瀬が声をかけた。

「はい」

 健太郎は瀧川を見てうなずき、立ち上がった。畳を降り、白瀬の下に駆け寄る。

「心配しないで。何があっても僕が守るから」

 白瀬は瀧川を見て右手を上げ、健太郎を連れて部屋を出た。

 藪野は二人を見送り、畳の縁に腰かけた。

「どうだった?」

「どうもこうも……。最後は認めるしかありませんでした」

 瀧川は苦笑した。

「あのガキ、気合が入ってただろ。俺もガキには酷な任務だとは思ったが、ありゃあ、素直に助けてくれって顔じゃなかったからな。俺らの手元に置いといたほうが安全だ」

「そうですね。しかし……なぜ、境遇が違うだけで、苦しまなければならない子供たちがいるんでしょうね」

「つまらねえ感傷は捨てろ。普通に生きてるヤツが刺されることもありゃあ、肥溜めのような環境で育っても幸せな最期を迎えるヤツもいる。どうなるかなんてのは、誰にもわからねえ。俺らにできることは、今目の前で悪さをしてるクソどもを潰すことだけだ」

「……ですね」

「どうすんだ、おまえ。抜けるのか?」

 藪野が訊く。

「いや、さっさと片づけます」

 瀧川は膝にかかっていた布団をまくり、脇に放った。

 

 

(つづく)