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 翌日の午前十時ごろ、瀧川は浅丘真優から連絡をもらい、IFAUC日本支部の事務所を訪れた。

 受付で岸井と告げると、すぐ中に通され、応接ブースまで案内された。

 ブースに入り、座って待っていると、まもなく真優が姿を見せた。

 タブレットを手に持って、にこりと微笑み会釈する。

「ご足労いただき、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ、早々にご連絡いただき恐縮です」

 瀧川は立ち上がって、一礼した。

「どうぞ」

 真優が促す。

 瀧川はもう一度軽く頭を下げて、座った。真優が対面に腰を下ろし、タブレットをテーブルに置いた。

「さっそくなんですが、岸井さんの採用が決定しました」

「本当ですか! ありがとうございます!」

 瀧川は太腿に両手を置いて、深々と礼をする。

「経歴は申し分ありませんし、志にも感銘いたしました」

 真優が笑みを向ける。

「ただ、募集していた職種とは少し違うものになってしまうのですが」

 真優が言う。

 募集要綱に記されていた仕事は、事務作業の補助だった。

 経理部に潜り込めれば、IFAUCの金の流れを追えるからだ。補助員でも、データにアクセスできる機会はある。

「どういう仕事でしょうか?」

「各部署の責任者を集めて検討したのですが、岸井さんの経歴を見るに、ただの事務補助としておいでいただくのはもったいないのではないかという話になりまして。岸井さん、子供たちの相談員になっていただけませんか?」

「相談員ですか」

「はい。養子縁組を決めたものの、やはり不安に思う子供たちは多いものです。その子供たちに寄り添っていただきたい。また、受け入れる側のご家庭にも少なからず不安はあるものです。受け入れ先の親御さんたちの悩みも聞いていただけると助かります」

「私は心理学を専門に勉強したこともありませんし、その系統の資格も持っていませんが、それでも大丈夫なのですか?」

「資格を持っていても、実地で生かした経験がなければ、それはただの紙切れに過ぎません。岸井さんには、資格に勝る経験があります。どちらを取るかと言われれば、私どもは経験値を重視します」

「それはありがたい」

「うちに来ていただけますか?」

「もちろんです。よろしくお願いします」

 瀧川は頭を下げた。

 予定とは違う部署だが、働いていればいずれ経理にアクセスできる機会を得るだろう。今は潜り込むことが大事だ。

「では、こちらに署名していただけますか」

 タブレットに契約書を表示し、タッチペンを瀧川に手渡す。

 瀧川は名前を間違えないよう、慎重に署名した。

 その後、給与やボーナス、休暇などの説明を受け、一通りの手続きは終わった。

「今日は他の者にオフィス内を案内させます。さっそくなんですが、明日から出所していただけますか?」

「承知しました」

「岸井さん、今後とも末永くよろしくお願いします」

 真優が右手を伸ばす。

「こちらこそ」

 瀧川は握手を返した。

 

 

 

 白瀬は翌日も素知らぬ顔で、有野としてキノコの里に登園していた。

 子供たちと遊び、散歩して、昼食を食べさせ、年少の子供を寝かしつける。午前八時前に園に来てから働きづめで、ひと息つけたのは午後一時前だった。

 白瀬は自分で作った弁当を出し、食べていた。

 職員は空いた時間を見て、交代で食事を摂っている。寝ていても、子供たちから目を離すわけにはいかないからだ。

「お疲れ様です」

 早坂秋乃が職員室に入ってきた。肩を落として、疲れ切った様子だった。

「お疲れさんです。戻らなきゃですね」

 白瀬は食べかけの弁当箱の蓋を閉じようとした。

「あ、大丈夫ですよ。今は園長先生が見てくれていますから」

 秋乃は腰を下ろして、大きく息をついた。気だるそうにバッグを持ち上げ、弁当箱を取り出す。

 蓋を開けるのもしんどそうだった。

「早坂先生、大丈夫ですか?」

 白瀬は思わず声をかけた。

「ええ、なんとか」

 秋乃は力なく微笑むと、弁当の蓋を開け、箸を取った。焼いたウインナーをひとかじりする。

「有野先生、そのお弁当、ご自分で作ってらっしゃるんですか?」

 秋乃が白瀬の弁当を覗く。

「作ってくれる人はいませんもので。玉子焼きとウインナーとおにぎりばかりですけど」

 白瀬が苦笑する。

「早坂先生のお弁当はきれいですね。彩も豊かで、栄養バランスも取れてそうで」

「きれいかどうかは別にして、私、高校の時に食物科にいたので、つい栄養バランスを気にしてしまうんです。ほんと、ゆっくり食べてる暇もないから、おにぎり二つくらいでいいんですけどね」

「いやいや、少量でも栄養のバランスが取れている方がいいですよ。僕はクソ体力があるんで、雑な弁当で済んでいますけど、長い目で見ると、いずれ体にきますもんね。時間のある時に、PFCバランスの整え方を教えてもらおうかな」

「もしよかったら、私がお弁当を作ってきましょうか?」

 秋乃が言う。

「いえ、それは早坂先生のご負担になるので申し訳ない」

 白瀬が返した。

 秋乃とはペアを組んで仕事をすることが多いせいか、このところ、距離が近くなっていた。

 学童クラブという場所で出会うのはほとんどが子供とお母さん。たまに若い男が来ても、それも誰かのお父さんだったりする。

 遊びにでも行ければ、そこで出会いもあるのだろうが、週末はクタクタで、とてもじゃないが出かける気にはならない。

 加えて、突発的なトラブルが起これば、休日も関係なく登園しなければならなくなることもある。

 必然、男女が出会う場は職場に限られることになる。

 秋乃がほんのりと自分に好意を寄せていることは、白瀬も感じていた。

 悪い気はしない。が、今、キノコの里にいる白瀬は〝有野〟であって、仕事が片づけば二度と秋乃の前に現われない人物だ。

 潜入捜査では時に色恋も利用する。しかし、それは限られた場面においてだ。

 不用意に恋愛感情を利用しようとすれば、こじれた時に潜入自体が失敗に終わるということにもなりかねない。

 下準備のない色事にはなびかない。これもまた、作業班員の鉄則である。

 しかし、秋乃は押してきた。

「一人分も二人分も作る手間は一緒ですから、有野先生のご迷惑でなければ」

「迷惑なんてことはありませんよ! むしろ、うれしいくらいです」

 白瀬が顔を上げ、まじまじと秋乃を見つめる。秋乃の頬が少し染まる。

 こりゃ、まいったな……。

 内心思いつつ、立ち回りを考える。突発的な色事は困るが、好意を無下にすると、それはそれでトラブルの素となる。

「では、明日試しに、作ってきましょうか?」

 秋乃が言った。

「わかりました。お願いしま──」

 とりあえず、気持ちを受け取ろうとした時、園長の宮代大幸が職員室に入ってきた。

「有野先生、ちょっといいですか?」

 ドア口で白瀬を呼ぶ。

 白瀬は食べかけの弁当の蓋を閉じ、小走りで大幸の下に駆け寄った。

「なんでしょう?」

「明日なんですが、ちょっと葛西の園で人が足りなくなりまして。急で申し訳ないんですが、明日はそちらの応援に行ってくれませんか?」

 大幸が言う。

「ええ、かまいませんが」

「助かります。では、先方に連絡しておきます。場所はあとで教えますので」

 大幸は笑顔で言い、足早に園長室へ駆け込んだ。

 ドアが閉まる。

「早坂先生、すみません。明日、他の園にヘルプで──」

「聞こえてました。お弁当の件は、またにしましょう」

 秋乃は笑みを返すが、下がった肩に落胆がありありと滲んでいた。

「ほんと、すみません」

 白瀬は詫びながらも、面倒を一時的に回避でき、ホッと胸を撫で下ろした。

 

 

「うん、わかった──」

 Z氏は短く返事をして、通話を切った。テーブルにスマホを置く。

「どうなりました?」

 ドア近くのデスクにいた若い女が訊いた。

「明日、すべての人物を一堂に集められそうだ」

「ネズミはいますかね?」

 窓際のデスクでノートパソコンを開いている若い男が言う。

「いなければいないで、北島の報告を待ってオークションの再開をすればいいだけの話。だが、おそらく、ネズミはいる」

「社長、お得意の勘ですか?」

 女がにやりとした。

「勘が鋭いというのも疲れる話だが、そのおかげで、ここまで組織を大きくすることができた。気になることは潰しておく。それが組織を守り、拡大し、強固にする術だ。二人とも、覚えておくといい」

 Z氏の語りに、男女は同時に首肯した。

「クリーン部隊の手配を」

「何人くらいですか?」

 女が訊く。

「十人もいれば事足りるだろう。代わりに銃器を装備させておけ」

「了解」

 女は返事をすると、パソコンのキーボードを叩き始めた。

「キノコの里の地下の件は確認したか?」

 Z氏は男を見た。

「はい、オレが実際に見てきました。林田健太郎がいなくなったという話でしたが、地下室にいました。おそらく、窓から覗いた時の死角にいて見えなくなっていたのでしょう。あそこは地下階段からしか出られませんから」

「それならいいが……。やはり、監視カメラを付けないとダメだな」

 Z氏は腕組みをした。

「しかし、オレらがどれだけ訴えても、大幸さんは聞き入れてくれません。ひたすら、商品には興味がないと言い張って、自分の〝趣味〟に使ってしまってますから」

「しょうがないな……。わかった、明日の確認が終わったら、私から直接話しておこう」

「お願いします」

 男が頭を下げる。

「おまえは集合場所の下準備をしておいてくれ」

「わかりました」

 男は立ち上がってジャケットを手に取り、部屋から出ていった。

 Z氏は天井を見上げて一つ大きく息を吐き、目を閉じた。

 

 

(つづく)