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白瀬は都下にある学童クラブにいた。エプロンを付けて、子供たちと楽しそうに遊んでいる。
「有野先生、さようなら!」
女の子が元気に声をかける。
「おう! 気をつけてな!」
そう声をかけ、迎えに来た保護者に頭を軽く下げる。
女の子を見送って本を片付けていると、男の子が飛びついてきた。
「有野! 遊ぼうぜ!」
「こら、有野先生でしょ!」
同じ職場で働く女性が男の子を怒る。しかし、男の子は意に介せず、ベロを出して逃げた。
「こらあ!」
女性は少し追いかけて、すぐに戻ってきた。
「すみません、有野先生。ミチル君はいい子なんですけど」
「気にしていませんよ、早坂先生。子供はあのくらい元気な方がいい」
白瀬は笑って見せた。
早坂秋乃は、この学童クラブで働く学童指導員だった。
学童指導員は先生と呼ばれているが特別な資格を必要とするものではなく、子供たちが遊んだり勉強したりしている空間を楽しく過ごせるようにサポートする役割を担う。
学童クラブは、正式には〈放課後児童クラブ〉という名称で、市町村が運営主体となり、地域の身近な施設で共働きなどで放課後や休み中に親が家に不在の小学生を預かり、場を提供して健全な育成を図る施設だった。
学童指導員は、都道府県の研修を受けて修了証を交付された放課後児童支援員の補助を行なう。
また、市町村が主体となる公立の学童クラブ以外に民間の施設もある。通所資格は公立と同じだが、延長保育やクラブ内での学習プログラムなどがあり、公立と違って自由度が高い。
白瀬が潜入しているのは〈キノコの里〉という民間の小規模学童クラブで、古い一軒家を改築した施設だった。
外観は中古戸建てそのものだが、一階は柱だけを残したワンフロアのフローリングでリフォームされ、駆け回る子供たちの居場所となっている。二階には仮眠室と調理室、広い職員室、シャワールームまで完備され、小さな学校のようだった。
多くの学童クラブが老朽化して修繕もままならない中、キノコの里のようにしっかりとリフォームをして子供を迎え入れているところはめずらしい。
このキノコの里は、二年前、運営母体が替わった。〈ミライニ〉という会社が、前運営会社から引き継いだ。
ミライニは全国の小中学校や学習塾に、AIを利用した学習システムを提供している新興企業だ。
個々のレベルに合わせて出題し、解答をAIが判断してアドバイスをする。
AIはまだ時折、的外れな返答をすることもあるが、導入事例が多くなるほどにその精度は上がってきていて、様々な企業や投資家たちの注目を集めている。
ミライニが学童クラブの運営にも乗り出してきた背景には、データの収集を急いでいるという点が挙げられる。
AIを使った学習システムを提供する新興企業は多いが、そのほとんどは成績向上に特化したものばかりだ。
当然、学童クラブに通うような子や学校の中でも落ちこぼれた子には焦点を当てていない。
ミライニは、難関校合格を目指す子供たちだけでなく、学びについていけない子供たちの基礎学力の底上げも視野に入れている。
基礎学力が劣る子は、残念ながら、親の収入が低く問題のある家庭に育った子供である割合が高い。
学童クラブには、そうした子供たちもやってくる。
ミライニの目標は、環境に恵まれない子供たちの基礎学力を上げ、将来、進路の幅広い選択ができるようにすることだった。
ミライニの創設者、宮代福士も家庭環境に恵まれない子供だったが、勉強し、奨学金を得て難関大学へ通い、海外留学も経験して、理工系の博士号を取った苦労人だ。
彼は三十代にして、自分のような境遇に置かれた子供たちにチャンスを与えたいと、勤めていた外資系企業を辞め、私費を投じて起業した。
その理念には賛同者も多く、一流企業や大学、政治家、投資家などからも資金援助を受けていた。
と、ここまでは宮代福士、またミライニに問題はないように見える。いや、むしろ素晴らしい活動にしか映らない。
だが、一方で、ミライニには黒い噂もあった。
ミライニが小中学校に食い込んで、児童ポルノを作成しているのではないかという噂だ。
きっかけは、ミライニのAI学習システムを利用していた女子中学生が部屋で着替えをしている動画がインターネットに流出したことだった。
拡散された動画の画角から、盗撮に利用されたのは自室に置いていたパソコンのカメラだということが判明した。
だが、被害に遭った女子中学生の着替え動画の中に、その女子中学生がパソコンを起動していない時間帯のものもあったことから、何かが仕込まれているのではという話が広がった。
そして、、あるIT技術者が検証したところ、ミライニのシステムプログラムの中に、パソコンをシャットダウンした後もカメラ機能だけを起動させ続け、録画をするプログラムがあったとの結果を流布した。
当然、ミライニは反論した。自社だけでなく、大手IT企業にプログラムの検証を依頼した。
意図しないバグがある可能性は否定できなかったからだ。
しかし、半年にわたる検証の結果、ミライニのシステムにそうしたプログラムが仕込まれているという結論には至らなかった。
ミライニは検証結果の詳細をホームページで公表し、各SNSでもその事実を流して、事態の鎮静化を図った。
噂を流したIT技術者も訴えた。
だが、裁判が始まろうとしていた矢先、そのIT技術者はすべてのSNSアカウントを削除し、行方をくらませた。
IT技術者が消えたことで、再びあらぬ憶測を呼んだが、最終的にはそのIT技術者がフェイクニュースを流したのだということで終結した。
この騒動だけならば、白瀬がミライニの運営する学童クラブに潜入する必要はなかった。
白瀬は、初めは行方不明になったIT技術者を捜していた。
山咲保という四十代の男だ。企業から依頼されたシステムのプログラムの一部を制作したり、デバッグを引き受けたりするフリーのプログラマーだった。
その傍ら、山咲には児童ポルノの制作と販売の疑いがもたれていた。
ある児童ポルノ販売サイトが摘発された際、その顧客名簿に山咲の名があった。
警視庁の担当部署が山咲不在の中、家宅捜査に踏み切り押収したパソコンやハードディスクには大量の児童ポルノ画像と動画が保存されていた。
その中には購入したもの以外、なんらかの方法で撮影したと思われる画像や動画も多数発見された。
そしてその一部が海外のサーバーを通じて販売され、その代金の一部が様々な口座を経て、山咲の口座に入金されていることがわかった。
さらに動画の中に、公安部が追っている人身売買されたと思われる少年の姿が見つかった。
少年は裸にされ、大勢の大人の男たちに囲まれて、口にするのもはばかられる行為を強要されていた。
その少年が通っていたのが、キノコの里だった。
少年に直接関係していたのは山咲だろうと思われたが、トラブルを起こしたミライニの運営する学童クラブに通っていた少年のあらぬ動画を持っていたという点が偶然だとは考えにくかった。
そこまでの調査結果を鹿倉に報告すると、鹿倉はすぐ白瀬にキノコの里への潜入を命じた。
キノコの里を潜入先に選んだ理由は二点ある。
一つは動画の少年が通っていたという点だ。少年がどういう環境下にいたのかを確かめる意味がある。
もう一つは、キノコの里の園長が、宮代福士の実兄であるという点だった。
キノコの里の園長、宮代大幸は福士の七つ上、四十五歳の独身男性だった。ぽちゃっとして色白で眼鏡をかけていて、憎めない風体の中年男性だ。笑顔も柔らかく、そのふんわりとした雰囲気からか、子供たちだけでなく、保護者からも人気があった。
ただ、この大幸には、表沙汰になっていない過去がある。
十年前、立川市郊外の公園で女児に声をかけ、連れ去ろうとしたとの容疑で検挙されていた。
大幸は、迷子になっていた女児を助けただけだと主張していたが、他にも何件かの声かけ事案を起こしていたことから、その場で逮捕された。
ただ、実際に連れ去った事実はなく、わいせつ行為をしていたという明確な証拠も得られなかったので、嫌疑不十分でいずれも不起訴になっていた。
ミライニと深い関係性があり、行方不明の山咲とも接点があるかもしれない宮代大幸に接近するため、白瀬はキノコの里に潜った。
「有野先生、お疲れ様です」
大幸が大きな腹を揺らして、秋乃と話している白瀬の下に近づいてきた。
白瀬は、ここでは“有野広道”と名乗り、指導員を装っていた。
「先生が来られて、十日になりますね。いかがですか?」
大幸が訊く。
「いや、本当にいいクラブですね。子供たちは元気だし、本や学習機材、遊具もよく揃っていますし、延長保育の先生の人数も多いですし。いろんな学童クラブで働かせてもらいましたが、こんなに環境のいいところは初めてです」
白瀬は笑顔で答えた。
「そう言っていただけるとありがたいです。僕や弟が育った時代には、放課後に居場所がないことも多かったですからね。二人でいつも家の中にいましたが、まだ兄弟がいただけマシでした。一人っ子が親のいない家に独りで待っていることを考えると、胸が締め付けられる思いがします。この子たちには、そうした思いをさせずに、友達と共にのびのびと楽しく過ごして、自分の未来を切り開いてもらいたい」
大幸は子供たちを眺め、目を細めた。
「けど、元気がありすぎて、疲れてはいませんか?」
大幸が白瀬を見やる。
「私も体力はあるほうですから、大丈夫です」
「そうですか。でも、疲れたなと感じたら、すぐにおっしゃってくださいね。シフトを調整して、休めるようにしますから。子供たちが安心して元気に過ごすには、サポートする僕たちが元気でいなければなりません。疲労が溜まると、どうしても人に優しくできなくなりますからね」
話していると、年少の子供たちが大幸に群がってきた。
大幸の風体がぬいぐるみみたいなせいか、子供たちが次から次と大幸の腹に抱きついてくる。
「こらこら、倒れちゃうぞ!」
大幸はふらふらしながら、子供たちにフロアの中央へ連れて行かれた。
秋乃と白瀬は笑って、その様子を見つめた。
「ほんと、ここはいい職場ですね」
白瀬が言う。
「ええ。私もいろんなところを回りましたけど、こんなに良くしてくれるところは初めてです。先生の人数は多いし、お給料もいいし。園長先生はあんなふうで、本当に子どもが大好きな方だし」
秋乃は大幸を見つめた。
「他のところはどうでした?」
白瀬が訊いた。
「これまでは、先生が少ないところが多かったです。延長保育になると、十人くらいを一人で見なければいけないところもあって」
「それはひどいですね」
「仕方ないんですけどね。そのわりにお給料は正直、ね」
秋乃がちらりと白瀬を見上げる。
「そうですね」
白瀬は知ったふうに返した。
「何より、園長先生が温厚なのが一番ですよね。前の前にいたところは、園長先生がひどい人で、子供たちがちょっと大声を出すと怒鳴り散らしていましたから、子供たちだけでなく先生方も萎縮してしまって、まるで刑務所みたいにいつもビクビクして静かでした。刑務所はよく知らないんですけど」
そう言って、苦笑する。
子供たちは遠慮を知らない。感情の赴くままに動き回り、大声を出して駆け回る。時にケンカを始めたり、友達と悪さを始めたりもする。
指導員たちは、その一つ一つに向き合い、事を収めなければならない。
十分な人手があれば、それも子供だからと笑って流せるが、一人で十数名を見なければならないとなると余裕はなくなり、怒鳴ってでもおとなしくさせようとしてしまう。
それがどんなに子供好きな人でも。
白瀬は、有野として働き始めてわずか十日だが、正直なところ、すでに疲れ切っていて、家に戻ると食事もままならないまま寝てしまうこともしばしばだった。
長い年月、毎日のように子供の面倒を見ている指導員の働きには正直頭が下がる。
「こういう学童が一カ所でも多くなって、長く続いてほしいですね」
秋乃は子供たちに囲まれる大幸を見ながら言った。
「ほんと、私もそう思います」
白瀬は大幸に目を向け、自分たちの調査が空振りに終わることを、ほんの少し願った。
(つづく)