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 ひと眠りした瀧川はショルダーバッグにファイルを詰め、出かける用意をして階下に降りた。

 小郷泰江が戻ってきていた。夕方からの開店準備を忙しなく進めている。

「おや、出かけるのかい?」

 泰江が笑顔を向けた。

「ちょっと本庁から呼び出しがありまして。綾子と遙香が帰ってきたら、今日は遅くなりそうだと伝えておいてください」

「わかった。いってらっしゃい!」

 泰江はテーブルを拭きながら、大きな声で言った。

 笑顔を向けて、店を出る。ドアを閉めた途端、瀧川の顔から笑みが消えた。

 駅へ向かって歩いていると、不意に声をかけられた。

「どうしたの、怖い顔をして」

 女性の声に振り返る。

 妻の有村綾子だった。

「おー、何してるんだ?」

 瀧川はとっさに笑顔を作ったが、ぎこちなく引きつる。

「配達の帰り。馴染みのおばあちゃんが、手芸の本を毎月購入してるから」

「わざわざ、届けるのか?」

「うん。地域のお年寄りを見守る活動の一環でもあるの。街の書店はいろいろとやらないと生き残れないからね」

 綾子が小さく微笑む。

「それより、達也君はどこに行くの? 今日は夜勤明けの非番でしょう?」

「ああ、ちょっと本庁から呼び出しがかかってね。行ってくる」

「そう。帰ってこないってことはないよね?」

 綾子はじっと瀧川を見つめる。

 何かを見透かしたようなその視線に戸惑うが、瀧川は笑顔を崩さなかった。

「ちょっとした事務処理の話だよ。遅くなるけど、帰るよ」

 瀧川が返す。

 綾子はそれでもじっと見ていたが、ふっと視線を逸らして微笑んだ。

「じゃあ、ごはんはいらないのかな?」

「適当に食べて帰るよ」

「わかった。気をつけてね」

 綾子は言い、勤めているりゆう盛堂せいどう書店に戻っていった。

 瀧川は綾子を見送りながら、大きく息を吐いた。体の緊張が緩む。

 素直に話せばいいのだが、公安関係の話となると、どうしても言い出せない。守秘義務もあるし、危険を伴う任務も多いので仕方ないが……。

 三鷹駅からJR総武線に乗って市ケ谷まで出て、そこで東京メトロ有楽町線に乗り換え、桜田門へ向かう。

 いつもは少年課の有村として向かうので穏やかな顔つきだったが、今日は本庁へ近づくほどに神経が尖ってきていた。

 桜田門駅を降り、4番出口の階段を上がると、すぐに警視庁本庁舎の前に出る。

 中へ入っていくと、受付前で少年課の同僚の男性刑事と出くわした。

「あれ、有村さん。今日は非番じゃないんですか?」

 とっさに声をかけられ、ふっと意識を“有村”に切り替え、笑顔を浮かべた。

「ちょっと用事を思い出して」

 言い訳を考えていると、受付の奥から声をかけられた。

「あー、有村君。申し訳ないね」

 にこやかな笑顔を浮かべて近づいてきたのは、日埜ひのはらだった。

 一瞬、瀧川の目が鋭くなったものの、すぐに笑顔を作った。

「いやいや、ちょっと確認してもらいたい書類があったんで、来てもらったんだよ。すまないね」

「いえ」

 瀧川は笑顔のまま答えた。

「名前が変わると、いろいろとややこしいことがあるんだよ」

 瀧川は小声で同僚刑事に言う。

「大変ですね」

 同僚刑事も笑った。

「これから夜回りか?」

「はい。行ってきます」

 同僚刑事は会釈をして本庁舎から出ていった。

「じゃあ、よろしく」

 日埜原が通路を歩きだす。

 瀧川は受付の女性警察官に会釈をして、日埜原の後に続いた。

 人の目がなくなると、また瀧川の顔から笑顔が消える。

 日埜原が肩越しに瀧川を一瞥した。

「そんな怖い顔をするな」

 日埜原は微笑んで、そのまま通路をまっすぐ進んだ。

 突き当たりの会議室に入る。瀧川も入った。殺風景な部屋に長テーブルとパイプ椅子だけがある。

「ちょっと待っていてくれ」

 日埜原は瀧川がパイプ椅子に腰かけるのを確認し、部屋を出た。

 日埜原みつるは、総務部刑事総務課の課長代理を務めている。普段は可もなく不可もないどこにでもいる中年警察官を気取っているが、一方で、公安部長鹿くら みのるの下で秘密裏に動く公安部の幹部という顔も持っている。

 瀧川はバッグをテーブルの上に置き、一人で待っていた。

 ドアが開く。日埜原と共に鹿倉が入ってきた。

「すまんな、瀧川」

 鹿倉は旧姓を口にした。ゆっくりと歩いてきて、瀧川の対面に腰を下ろす。その後ろに日埜原が立った。

 瀧川はバッグを開けた。中から、送られてきたファイルを出し、テーブルに叩きつけた。

 室内に大きな音が響く。しかし、鹿倉も日埜原も眉一つ動かさない。

「どういうことですか。旧性で、しかも自宅にこんなものを送り付けてくるなんて」

 鹿倉を睨む。

「中は見たか?」

「見ましたが」

「林田健太郎という少年のリストがあっただろう。その子は、君の娘が通っている学校の同級生ではないか?」

 鹿倉が言う。

 瀧川の目つきがさらに険しくなった。

「君なら何か知っているのではないかと思い、確認してもらいたくてね」

 鹿倉はすらすらと話した。

 鹿倉が言うように、林田健太郎について確認してもらいたいというのは、一つの目的ではあろう。

 しかし、送りつけてきたのにはもう一つの目的がある。

 瀧川のプライベートはすべて把握しているという、やんわりとした脅しだ。

 瀧川は、遙香が私立せいりょう中学校に合格したことは同僚にも話していなかった。もちろん、公安部にも伝えていない。

 だが、公安部はその事実を把握し、さらに遙香の周辺の事情まで調べ上げているようだった。

 つまり、瀧川を動かしたい時は、いつどこからでも仕掛けられるということだ。

 あまりのやり口に、怒りが込み上げてくる。今すぐにでも鹿倉を殴ってしまいそうだ。

「健太郎君については、何も知りません」

「そうか」

 鹿倉が返す。と、日埜原が後ろから言った。

「人身売買の疑いがあってね」

 唐突な発言に、瀧川は思わず、日埜原に顔を向けた。

「人身売買?」

 思わず訊き返し、しまったと顔をしかめた。

 やられた……。

 鹿倉たちが、瀧川に行方不明者の捜索をさせようとしていることは予測していた。遙香の同級生のリストを入れていれば、必ず、瀧川が興味を示すと踏んでいたのだろう。

 瀧川としても、遙香の同級生の名前があれば、放っておくことはできない。また、ぶしつけに旧姓で自宅へ捜査資料を送ってくる暴挙にも一言言わなければ気が済まなかった。

 瀧川が鹿倉に会いに来ることは想定していたのだろう。瀧川自身も会うまでのことはシミュレーションしていた。

 話を聞き、文句の一つも言って、帰るつもりだった。

 しかし、鹿倉ではなく、日埜原の口から聞き捨てならない言葉が出てきた。

 これも作戦だろうが、あまりにショッキングな言葉を不意に向けられると、それに囚われてしまうのが心理というものだ。

 事実、瀧川の中から怒りは飛び、人身売買の実態に気持ちが向いていた。

 だが、瀧川はそれ以上聞き返さなかった。せめてもの抵抗だ。ここで話が終われば、まだ公安部の捜査に引き込まれないで済むかもしれない。

 そう願っていたが、鹿倉は瀧川の心を見透かしたように話を受けた。

「君に送ったミッシングリストに載っている名前は、人身売買の犠牲になったと思われる人々だ」

 最も聞きたくない事実を投げかけてきた。

 こうなると、もはや詳細を聞かないことにはこの場を離れられない。

「諸外国ほどではないが、日本でも人身売買の被害に遭っている者は多い。あからさまに衆目の面前で誘拐をするようなことはないから、日本ではそのような事例がないと思い込んでいる者も多いがな」

「今、しらやぶが組織について調べている」

 日埜原が被せる。

 瀧川の胸が疼いた。何度も死地をともに乗り越えた二人の名を耳にすると、どうしても気になってしまう。

 瀧川が黙っていると、鹿倉が続けた。

「まだ組織の全容はつかめていないが、国際的な組織であれば、すぐにでも解明して対処しなければならない。日本の人身取引、いわゆるトラフィッキング対策に対しての欧米諸国の風当たりは強いのでね。野放しにすれば、国際問題にもなりかねない事案だ」

 鹿倉が大枠を語る。しかし、瀧川に国家の都合は響かない。

 だが、鹿倉たちはそれも見越していた。

 日埜原が鹿倉に続けて話す。

「国際的な事案となれば、日本の青少年たちにも危険が及ぶことになる。現に、君の娘さんの友人も、その危険に晒されているだろう? このまま事態を放置すれば、いずれ君の娘さんにも被害が及びかねない」

 身近な話に落とし込んできた。

 本当にずるい手口だ。が、鹿倉たちの言うことが事実なら、瀧川としても放っておくわけにはいかない。

 瀧川はうつむいて、大きなため息をついた。

 やおら、顔を起こす。

「健太郎君のことは、娘から聞きました」

「そうか」

 鹿倉は言った。黙っていたことを責めない。むしろ、最初からわかっていたというふうな落ち着き具合だった。

「娘も気にしているので、健太郎君については調べてみようと思っていたところです」

「では、藪野たちと合流して──」

 日埜原が言いかけたところ、瀧川は顔を向け、言葉を挟んだ。

「俺は林田健太郎君に関する調査をするだけです。それ以外は引き受けません」

「瀧川君。健太郎君の調査をするということは、藪野たちが調べている組織の調査もするということと同じ意味──」

 日埜原が詰めようとすると、鹿倉が右手を小さく上げた。

「それでいい。私たちに合流しろとは言っていないのでね」

 鹿倉が言う。

「部長、それでは──」

 日埜原が言いかけると、鹿倉は持ち上げた右手を小さく横に振った。

「瀧川は今、少年課に所属している。少年課の刑事として健太郎君のことを調べるのは当然だ。それでいいだろう」

 そう言い、瀧川に顔を向ける。

「ただし、健太郎君に関しては、先ほど話したように国際的人身売買組織が関わっている可能性がある。君には瀧川として動いてもらいたい」

「それは、公安部員として動けということですか?」

「万が一の場合を考えて、少年課とは切り離して動いたほうがいい。君は、我々がどんな現場で働いているか、知っているだろう? 一般の警察官をその現場に踏み入れさせたいか?」

 鹿倉が問う。

 その問いが胸の奥に突き刺さる。返答できず、うつむいた。

「瀧川として動けないのであれば、この事案は我々の方で引き取る。一切、関わるな。健太郎君の安否確認も禁ずる」

 鹿倉が語気を鋭く言い放った。

 瀧川はテーブルの下で拳を握りしめた。

 まんまと鹿倉たちの策に嵌った。とはいえ、断ってテーブルを叩いて出ていくこともできない。

 瀧川は憤りに肩を震わせたが、その震えがぴたっと止まった。顔を上げる。

「わかりました。その条件で」

 瀧川が言う。

 鹿倉がうなずいた。日埜原はスーツの内ポケットから身分証を取り出した。鹿倉に渡す。鹿倉がその身分証を瀧川の前に差し出した。

 瀧川はバッグから有村姓の身分証を出した。公安の仕事を請ける時は、少年課の身分証を戻すことになっている。

 瀧川は有村の身分証と新たな身分証を取り換えた。

 鹿倉が有村の身分証を受け取り、日埜原に渡す。

「少年課には、総務部付の研修で君を派遣したと伝えておく。捜査中はこちらで用意したアパートで過ごしてもらいたい。場所はスマホに送っておく」

 日埜原が言った。

 瀧川は身分証とファイルをカバンに押し込み、二人に挨拶をすることもなく、部屋を出た。

 

 

(つづく)