2
午後八時を回った頃、白瀬は健太郎を連れて、キノコの里に戻った。
健太郎は逃げてきたままの格好、白瀬は釣りの際に着用するようなベストを身に着けていた。
二人は、白瀬が健太郎を捕まえた駐車場に面する金網から敷地内へ入った。目の前の建物が健太郎の脱出した掘っ立て小屋だ。
ドアは庭に面していて、建物の方から見える。
壁に身を寄せ、建物の方を見やる。二階の明かりが点いている。
「こないだも二階に明かりが点いてましたけど、誰かいるんですか?」
白瀬の後ろで屈んでいる健太郎が小声で訊いた。
「二階は職員室なんだが、施設長の住まいもある。施設長は常駐しているんだ」
白瀬は周囲を見回した。
「食事は何時ごろ運んできていたか、覚えているか?」
「たぶん、午後七時ごろだと思うんですけど」
「時計はなかったのか?」
「はい。けど、僕はサッカーをずっとやっていて、体感でなんとなく時間を数えてはいたので」
「その感覚は磨いておけ」
白瀬は腕時計に目を落とした。
「今の時刻は二十時二十分。ここからカウントを始めろ」
「わかりました」
健太郎は頭の中でキックオフのホイッスルを鳴らした。
「ベルトの操作は覚えているな?」
「はい」
健太郎はうなずいた。
健太郎のベルトのバックルに、小型のカメラを仕込んでいた。音声も拾える。ベルト本体の表面は透明の太陽電池で装飾されていて、蛍光灯の明かりでも発電できるようにしている。
健太郎のバックルからの送信は自動。白瀬が小屋の中に高出力の送受信機を仕込み、そこから外へ送信する。その電波を近隣で待機している公安部員が受信し、本部へ送るようにしていた。
緊急時は、バックルを三回叩けば、SOS信号が飛ぶようにセットしていた。
通信が途切れた場合も踏み込むことにしている。
その際は、藪野、瀧川も同時に動き、その時点で判明している関係者、もしくは関係者と疑われる者を拘束することになっていた。
「ここで待ってろ。おそらく鍵がかかっているだろうから、開けてくる」
白瀬は言い、壁の陰から出て、ドアに走った。ドアの前でしゃがみ、ノブを回してみる。やはり鍵がかかっている。
白瀬はポケットからピッキングツールを取り出した。爪のついた金具を二本出し、鍵穴に入れて、カリカリとピンを弾く。
ピンを押し上げたまま金具を回すと、カチッとロックの外れる音がした。
そろそろとノブを回し、ドアを少しだけ開ける。中を覗き、耳をそばだてる。人の気配はない。
白瀬は健太郎を手招いた。健太郎は背を低くしたまま壁伝いに走った。
白瀬がドアを開く。健太郎はスッと中へ入った。白瀬も中へ入り、ノブのボタンを押して鍵をかけた。
急いで、奥へ走る。健太郎が脱出してきた高さ三〇センチほどのアクセント窓のところまで来て、しゃがんだ。
「頼んだぞ」
白瀬が言うと、健太郎は緊張した面持ちで首肯した。
白瀬はベストのポケットから細いワイヤーを出した。健太郎のズボンのベルト通しに先端を通して輪にし、キーフックをワイヤーにかけ、引っ張る。ベルト通しにワイヤーが巻き付いた。
白瀬はポケットから残りのワイヤーを出し、革手袋をして、ワイヤーを自分の腰に回して握った。左手にはワイヤーの端を三重に巻き付け握る。右手はずらせるように巻かずに握った。
地面に座り、窓枠の端に両足を当て、膝を伸ばしてセットする。
白瀬がうなずいた。健太郎はうなずき返し、窓の向こうに頭を入れた。
健太郎の体が窓の先に消える。途端、右手、腰、左手に重みがかかった。白瀬は両膝を突っ張り、持っていかれそうな体を支えた。
革手袋は十分な厚みがあり、ワイヤーを当てている腰回りにもプロテクターを入れているが、それでも細いワイヤーが手や腰に食い込み、ちぎれそうだ。
白瀬は少しずつ、右手のワイヤーをずらしていった。健太郎が下がっているのは、ワイヤーの長さでわかる。
下へ行くほどに手や腰に負荷がかかり、上体が持っていかれそうだ。白瀬は背を反って、歯を食いしばった。
残り一メートルほどのところまで来た時、ドアの方で音がした。ノブをガチャガチャと回している。
白瀬はドアの方を気にしながら、少し下ろすペースを速めた。
鍵穴に鍵を差し込む音がした。
まずい──。
白瀬は一気にワイヤーを下げた。ドスッと小さな音がした。背を反っていた白瀬が仰向けに倒れる。埃が舞う。
白瀬は左手にワイヤーを握ったまま、右側の棚の陰に転がった。
健太郎が下に着いたらすぐ、キーフックを外すことになっている。しかし、手間取っているのか、まだ外した様子がない。
窓の向こうに延びたワイヤーを棚の陰になる場所までしならせて移す。
鍵が開いた。ドアがゆっくりと開き、外の明かりがうっすらと差し込んだ。懐中電灯の明かりが左右に揺れる。
早くしろ!
心の中で叫ぶと、突っ張っていたワイヤーがふっと緩んだ。
白瀬は音を立てないように、しかし素早くワイヤーを左手に巻き取っていく。もうすぐ回収できると思った時、キーフックが窓枠で跳ね、少し音を立てた。
白瀬は回収し、床に寝ころんで息を潜めた。
入ってきた何者かは足を止めた。奥を照らす。棚下に射した明かりが白瀬の顔を掠める。
棚の下はそこそこの高さがある。白瀬は体をゆっくり伸ばしてうつぶせになり、何者かの足音に合わせて、自分は音を立てないよう、少しずつ棚の下に体を隠していく。
何者かが棚のすぐ近くに迫ってきた。白瀬は足元を見つめながら、体をずらした。
何者かは突然動いた。白瀬はサッと棚の下に体を入れた。白瀬がいた場所を懐中電灯の明かりが走った。
何者かは窓の近くに立ち、左右に懐中電灯の明かりを振った。
窓枠も見ているようだ。ワイヤーの擦れた跡がある。
細いワイヤーを使ったのは、擦れた跡を最小にするためだ。ロープを使えばもっと楽に健太郎を下ろすこともできたが、大荷物になり、回収も大変で、痕跡も大きく残る。
何者かは窓周りや窓枠を入念に見ていたが、痕跡は見つけられず、ドアの方へ明かりを向けた。
身を切った甲斐があった。白瀬は胸の内で安堵の息を漏らした。
しかしまだ、何者かが出て行ったわけではない。白瀬は左手のワイヤーの塊を握っていた。
いざとなれば、何者かを殴り倒して、計画の中止を要請しなければならない。
白瀬はゆっくりと呼吸をした。自分の気配は消しつつ、全神経を何者かの気配に集中する。
何者かはドアの前でもう一度全体を照らし、ドアを開けた。足元を見る。何者かは外に出てドアを閉め、鍵をかけた。
白瀬は棚の下に潜ったまま、大きく息をついた。
まだ、健太郎のバックルからの電波を送受信する機器の取り付け作業が残っている。
白瀬はそのまましばらく、棚の下に身を隠した。
3
北島は非番の夜、自家用車で都下の山中に赴いた。
指定されたのは、かつては切り出した材木を保管する場所として使われていた敷地だ。今は使っていた林業者は廃業し、ただの空き地となっている。
周りに家もない。空き地の端には、昔、事務所として使われていたプレハブ小屋がぽつんとある。外壁も支柱も錆び、出入口のサッシは外れて傾き、ガラスは割れ、もはや小屋の体をなしていない。
周囲を警戒しながら敷地に入ると、黒塗りのSUVが奥に停まっていた。
北島はSUVの五十メートルほど手前で停まり、パッシングをした。SUVからもパッシングが返ってきた。
北島はエンジンを切って車を降り、SUVに近づいていく。
反対から黒いスーツを着た大柄の男が近づいてきた。
北島は立ち止まった。両手を上げる。大柄の男は北島の体を服の上から触り、武器や盗聴器を持っていないか確かめた。
「Z氏がお待ちです」
男がSUVに案内する。助手席のドアを開けた。
北島は助手席に乗り込んだ。二列目の席にはやはり大柄で黒スーツの男が二人座っていた。三列目のシートに細身の男が座っている。
二列目と三列目の間にはスモークを張ったアクリル板が立てられていて、Z氏の顔は見えない。
北島を連れてきた男は助手席のドアを閉め、そのままドア横に立った。
「ブツは回収したか?」
ルームミラーを見ながら、声をかけた。
「ええ。なかなかの上物でした」
Z氏は二列目シートの背を爪先で軽く蹴った。
二列目左に座っていた男が上着のポケットから茶封筒を出した。厚みがある。それを北島の肩越しに差し出す。
北島は受け取ると、すぐさま中を確認した。帯封でまとめられた使用済み一万円札の塊が二つ入っていた。二百万円ある。
北島はにやりとして、封筒を上着の内ポケットに入れた。
「また、頼むわ。じゃあな」
ドアを開けようとする。外に立っていた男が開きかけたドアを押して閉めた。
「おいおい、警察官を拉致するつもりか?」
ルームミラー越しにZ氏を睨む。
「いえ、まだお話があるもので」
「なんだ?」
仏頂面で座り直す。
「秋のオークションは中止することにしました。再開も未定なので、しばらく商品の仕入れは停止してください」
「どういうことだ?」
北島はセンターに体を出し、後ろを向いた。二列目の男たちが遮るように上体を寄せた。
北島は笑みを見せ、助手席に座り直した。
「ちょっと気になる動きがあるんです」
「どんな動きだ?」
「先日、陳を排除したので、林田健太郎の商品代として母親の佐夜子名義の口座に振り込んだ報酬を引き上げたんですが、すぐに銀行から確認の連絡が事務局にありました」
「そりゃあ、億を超える金を移動するんだ。確認はあるだろうよ。なんと答えた?」
「誤って振り込んだものを回収しましたと」
「億の金を誤ったねえ。そいつは疑われるだろう」
「そう思いましたが、仕方ありませんでした。急な話だったので」
「陳をバラしたのはまずかったな。もう少しスマートにやれねえのか」
「甘い顔を見せると、組織全体に示しがつきませんのでね」
淡々と答える。
北島は笑って見せたが、内心ひやひやしていた。
Z氏の正体はわからない。顔も見たことはない。金を受け取るときだけ、こうして会い、言葉をかわす程度だ。
ただ、毎回、同じトーンだ。どんなトラブルがあってもまったく動じた様子を見せない。
演じているのかもしれないが、ここまでポーカーフェイスを演じ通す者は、正直、恐ろしい。
そこそこ名のある悪党でも、トラブルが起これば動揺を見せる。
まったく動じない者はそれ以上の悪党か、根っからの非情な人間しかいない。
「まあしかし、そういうことなら仕方ねえな。また再開したら、小遣い稼ぎをさせてくれ」
北島は出ようとしたが、再度閉められた。
「おい、どういうつもりだ!」
低い声で怒鳴る。
「待ってください。まだ、話は終わっていないので」
「しばらく、オークションはしねえって話だろ? だったら、俺は用なしじゃねえか。心配するな。おまえら、特にZ、おまえの正体はさっぱりわからねえし、知る気もねえ。黙っといてやるから安心しろ」
「林田佐夜子がアパートから姿を消したんですよ」
Z氏が唐突に言った。
「金がなくなって、息子もいなくなったんで、酒を求めてどこかに消えちまったんだろ。ひでえアル中女だったからよ」
「男たちが来て、連れ去ったという話もあるんですよ」
「誰だ? 商売敵か?」
「警察じゃないかと、私は睨んでいるんですが」
Z氏が言う。
「組対が動いているという情報は聞こえて来ねえぞ」
「であれば、外事じゃないですかね」
Z氏の言葉に、北島の顔つきが険しくなった。
「国際養子縁組に関しては、全世界の警察が協力をして、組織の摘発に動いています。私たちだけでなく、あらゆる違法組織の摘発を。日本では外事が中心となって動いているのではないですか?」
「それはそうだが、外事といってもいろんな部署がある。どの部署が何をしているのかは、俺みたいな一介の刑事にはさっぱりわからない。外事は公安部に属するんだが、そもそも公安部の活動内容は、他部署の人間にはわからないんだ。特に潜入活動をする作業班はメンバーの人数も顔も名前もトップシークレットだ」
「ちょっと調べてみてくれませんか?」
Z氏がさらりと言った。
北島は後ろを向いて、センターから身を乗り出した。二列目の男の一人が、両手で北島の肩を押さえる。
「おい、聞いてたか? 公安部の活動は探れねえと言ってんだ。つまらない動きを見せりゃあ、こっちがたちまち丸裸にされる。そうなりゃ、おまえらにもあっという間にたどり着いちまうぞ。国家権力の中でも、特にヤバい連中だ。舐めるな」
北島は押さえていた男の手を振り払って、強引に助手席を出た。
目の前に外に立っていた男が立ちはだかる。
「どけ!」
北島はいきなり男の腹に拳を叩き込んだ。男は少し腰を屈めたが、その場に立ったままだった。
「どけや、こら!」
再び北島が拳を握った瞬間、目の前の男が北島の頭を両手で握った。間髪を容れず、頭突きを見舞う。
北島の鼻から血がしぶいた。
北島はよろけて、車に背を預けた。
「てめえら……いい度胸じゃねえか」
北島は男を睨んだ。が、少し震えていた。
場数は踏んでいる。まずい状況は本能的にわかる。
男を睨みつつ、目の端で周囲の状況を確かめながら、逃げる算段を高速で考える。
と、後部座席の窓が少しだけ開いた。
「北島さん。我々はあなたを殺す気はありません。危ないと感じたら、すぐに調査をやめてくれても結構です。ただ、まったく協力していただけずにこの場を去るというのなら、私としてはあなたを組織の危険分子と見なさざるを得ません。協力していただけませんか。我々の組織の命運がかかっているんです」
静かな口調ながら、そこには重苦しい殺気が滲んでいた。
北島の体に冷たいものが走った。
北島は手の甲で鼻から流れ出た血を拭い、身を起こした。
「わかったよ。調べるだけ調べてみる。だが、何かつかめりゃラッキーぐらいに思っといてくれ。本当にそれほど、公安部ってのは得体が知れない組織なんだ」
「わかりました。ご協力に感謝します。報告をお待ちしています」
窓がスッと上がる。
北島に頭突きを入れた男が助手席に乗り込み、シートベルトをかけた。SUVは静かに発進し、敷地から消えた。
「冗談じゃねえぞ、素人が──」
北島はテールランプを睨みつけ、どう逃げおおせようか、思案した。
(つづく)