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第三章

 

 

 

 瀧川は日埜原に呼ばれ、急遽、府中市にある警察大学校に来ていた。

 正門前まで行くと、日埜原が待っていた。

 日埜原は瀧川を見てうなずくと、背を向けて敷地へ入っていった。瀧川も続く。本校舎から外れ、裏手に回っていく。

 瀧川の顔が渋くなる。

 そこは公安部員を養成する施設がある場所だ。瀧川にとって、いい思い出のない場所でもある。

「なぜ、ここに?」

 瀧川は訊ねた。が、日埜原は答えず、校舎の中へ入っていった。

 靴を脱いでスリッパに履き替え、日埜原の後を追う。寮のある場所とは反対側の廊下を進む。教官室の前も通り過ぎ、その奥へと進んだ。

 教官室の奥には行ったことがない。通路を曲がったところからさらに廊下が延び、突き当たりまで左右に四つの部屋があった。

「ここは?」

 廊下と部屋を見回す。

「教官の仮眠室と教官専用の会議室だ」

 日埜原は答え、最奥左手の第二会議室の前で立ち止まった。

 ドアをノックし、中に声をかける。

「瀧川が到着しました」

 そう言い、ドアを開け、瀧川に入るよう促した。

 瀧川は訝りながら中を覗いた。

 長テーブルがロの字に並べられていて、正面奥に鹿倉の顔があった。右のテーブルには白瀬と藪野もいる。もう一人、ほっそりとした子供がいる。背を向けてドア側に座っている。男の子のようだ。

 白瀬や藪野に頭を下げ、長テーブル左側に回り込み、男の子の顔を見た。とたん、思わず声が漏れた。

「健太郎君か!」

 名前をこぼすと、健太郎は怪訝そうに瀧川を見つめた。

 鹿倉が口を開く。

「健太郎君。そいつは瀧川。我々と同じ、公安部員だよ」

 そう言うと、健太郎は頭を下げた。

「瀧川、そこに座ってくれ」

 瀧川が立っている左の席を目で指した。パイプ椅子を引いて、その場に座る。

 状況がわからず、他の者も見回す。白瀬は瀧川に笑みを送り、藪野は睨んだ。健太郎は両腿の上に手を置いて軽く拳を握り、うつむいている。

 日埜原はドアを閉め、ゆっくりと瀧川の後ろを歩き、鹿倉の隣に座った。

 鹿倉が一つ息をついて、切り出した。

「潜入中に集まってもらい、申し訳ない。状況が変わった。私の正面の彼は、ミッシングリストにあった林田健太郎君だ」

 鹿倉は正式に告げた。健太郎が全員をちらっと見て、頭を下げる。

「健太郎君は、白瀬が潜入しているキノコの里で発見された」

「僕が退勤しようとしていた時、庭で見つけてね。他の連中にバレないよう、ちょっと眠ってもらって連れてきた」

 白瀬が微笑んで、健太郎を見た。健太郎はちらっと白瀬を見て、すぐうつむいた。

「健太郎君の話によれば、キノコの里の地下に閉じ込められていたそうだ」

 鹿倉が言う。

「つまり、さらわれた子供たちは、その地下室にいるということですか?」

 瀧川は訊き、健太郎を見た。健太郎はうなずいた。

「では、さっそく子供たちの救出を──」

 瀧川は鹿倉を見て、腰を浮かせた。

「それなんだが、まだ、組織の全貌がつかめていない今の時点で、敵の本丸の一部に手を入れるのは望ましくない」

「何を言っているんですか!」

 瀧川はテーブルを叩いて、立ち上がった。健太郎がびくっとする。

「子供たちはまさに今、危機に直面しているんですよ! 健太郎君も危険を冒してまで、こうして逃げてきたんです! その覚悟に我々大人が応えないんですか! 人命が第一じゃないんですか!」

 たまらず、怒鳴り声になる。

「落ち着きなよ、瀧川君。健太郎君が怖がってる」

 白瀬が言った。

 見ると、健太郎は肩をすぼめ、机の下に潜り込まんかというほど背を丸めていた。

「あ、ごめん」

 瀧川は謝り、座り直した。大きく深呼吸をして、再び、鹿倉に向き直る。

「部長。やはり、ここは子供たちの救出を一番に考えるべきではないでしょうか」

 苛立ちを抑え、努めて落ち着いた口調で言った。

「そうしたいが、ここで敵を逃せば潜られる。そうなるとまたいずれ、同じような犠牲者が出ることになる。頭を潰さなければ、組織は死なない」

「そこでなんだが」

 日埜原が口を開いた。

「健太郎君を一度、元いた場所に戻して内偵を進め、全容を炙り出す」

 それを聞いて、瀧川は再び目を吊り上げた。日埜原を睨む。今にも怒鳴りだしそうだ。

 その前に藪野が開口した。

「俺もそれに賛成だ」

「藪野さん!」

 瀧川は対面の藪野を睨みつけた。藪野は睨み返した。

「俺が今、潜入しているところは、実にひどい状況だ。法律はどうなってる? 警察は何をしている? と、俺ですら思わされるほど、クソどもが好き勝手なことをしている。しかも、内偵を察知すれば、連中は散らばって身を隠す。そうなると、捜せなくなる」

「だったら、今わかっている連中を拘束すればいいでしょう。そして、兼光のように吐かせればいい」

「兼光は連中の間でも有名な存在で、交友関係も多かったから、有益な情報を引き出せた。だが、そういうヤツばかりじゃない。横のつながりはあるようでない。あっても、ハンドルネームだけの付き合いで顔も名前もわからないというヤツらもいる。今はつぼみクラブにそういう連中が集まっているから一網打尽にできるが、逃げられれば、連中は雲隠れして、単独で好き勝手なことを始めてしまう。せめて、つぼみクラブのオフ会に出てくる連中だけでも確保しねえと、厄介な連中を野に放つことになるぞ」

「僕も部長の意見には賛成なんだ」

「白瀬さんまで」

 瀧川は非難の目を向けた。

「健太郎君は勇気ある行動をした。健太郎君を助けた地下室にいる子供たちもね。だけど、健太郎君がいなくなったことを知れば、ヤツらは子供たちの監禁場所を変えるだろう。そうすれば、健太郎君は助かるが、他の子たちは助からない可能性が高い」

「だから、今すぐ救出を──」

「地下室から連れ出された子供たちもいるんだ」

 白瀬が静かに言い、健太郎を見やった。

 健太郎はうつむいたまま、太腿の上の拳を固く握った。

「時々、健太郎君たちは深く眠りに落ちることがある。おそらく、与えられている食料、飲料のいずれかに睡眠薬を仕込んでいるんだと思うが、目が覚めると必ず、さっきまでいた子供の何人かが消えていると言う。みんなが寝ている隙に連れ出されているんだな。その後の消息は誰も知らないそうだ」

「それなら、一刻を争う状況じゃないですか。早く助け出さないと」

「連れ出された子はどうする?」

 白瀬が瀧川にまっすぐな目を向けた。

「ヤツらが誰をどこへどう運んでいるのか、それをつかまなければ、今、地下にいる子供たちは助けられても、連れ出された子の消息を知る手掛かりはなくなる。それとも、今、判明している連中だけ捕まえるかい? 証拠もなく捕まえれば、みすみすヤツらを野放しにするだけだ。監禁して吐かせれば、僕ら自体が動けなくなる。その間に被害は広がるだろうね」

 穏やかな口調で語る。

 白瀬の言うことは間違っていない。藪野の言うことも。

 しかし、目の前に助けを求めている子供たちがいる。その子たちを危険な状態のまま放置しておくこともできない。

「それでも──」

 瀧川は食い下がろうとした。

 その時、鹿倉が声を被せた。

「もう一つ、問題がある」

 瀧川は鹿倉に顔を向けた。

「健太郎君の話では、この件に警察官が関わっている可能性がある」

 それを聞いて、瀧川は声を飲み込んだ。

「健太郎君は、警察官を名乗る者に催眠ガスらしきものを吸わされ、その後、おそらく眠剤入りのドリンクを飲まされて、眠ってしまった間に連れ去られた。身分証の形状や車内の様子を訊くと、偽警官とも言い切れない感じがある」

「健太郎君、本当なのか?」

 瀧川は健太郎に訊いた。

「本物かどうかはわからないんですが、警察官と名乗って、身分証を見せてくれたのは事実です。車の中も普通のものとは違っていて、無線機やタブレットがありました」

 健太郎はハッキリと答えた。

 タブレットはナビで使っている可能性もあるが、無線機が付いている乗用車はまれだ。健太郎も珍しいものを見たので、鮮明に覚えているのだろう。

「催眠ガスらしきものとは?」

「わかりません。ただ、前席と後ろの席の間はアクリル板で仕切られていました。不思議に思ったんで訊くと、犯人を護送する際、運転手に危害を加えられないためのものだと話していました。そうなのかなと思っていたら、ほんのり甘い香りが漂ってきました。タバコを吸うので芳香剤を入れていると話していて、それもそうかなと思っていたら、急にめまいがして……。ふらふらしていると、その人が窓を開けてくれて、少し気分がよくなったところでドリンクをもらったんですけど、それを飲んだら寝てしまって」

 健太郎は状況をしっかりと伝えてきた。

 笑気ガスか。瀧川は思う。

 笑気ガスは亜酸化窒素と医療用酸素を混合した気体で、主に歯科治療の際に使われる。

 低濃度の笑気ガスを吸入すると、体がぼんやりふわふわとして、リラックス感を得られる。ただ、人によっては効きすぎて、めまいや吐き気を催すことがある。

 その後にもらったドリンクに睡眠薬が仕込まれていたという推察にも、瀧川は同意だった。

 後席と前席の間にアクリル板を装着している覆面パトカーもある。しかし、状況から考えると、アクリル板はガスを後部シートにだけ流すために設置されたものとも考えられる。

 であれば、健太郎を連れ去るため、綿密な計画を立てていたと思われる。

「君と同じように、警察官に眠らされて連れて来られた子もいるのか?」

 瀧川が訊くと、健太郎はうなずいた。

「これが本物の警察官であろうと偽物であろうと、由々しき問題だ」

 鹿倉が言う。

 瀧川は鹿倉の方を向かず、健太郎に訊ねた。

「健太郎君、その警察官の顔は覚えているか?」

「いえ……。なんとなく記憶はあるんですけど、よくわからなくて……」

「よく思い出してみて」

 瀧川が詰め寄る。

「緊急事態を告げられて泡食ってる時に、ガスやら眠剤やら食らったんだ。記憶があいまいになるのは仕方ねえ」

 藪野は、前のめりになる瀧川を止めた。

「洗い出すべき事項がまだ山と残っている。理解してもらえたかな?」

 日埜原が瀧川を見た。話を続ける。

「健太郎君には我々が警視庁公安部の人間であること、今、人身売買事案の内偵に入っていることは話した。もちろん、口外無用でね。その上で協力を申し出ている」

「協力って……。健太郎君はまだ中学二年生ですよ!」

「それも承知の上だ。幸い、キノコの里には白瀬が食い込んでいる。健太郎君や他の子どもたちに不測の事態が起こった際は、すぐに踏み込む態勢も取る。連絡手段も確保する」

「無茶だ。僕らでもいつも命の危険に晒されるんですよ。ましてや、子供にその責を背負わせるのは無謀です」

「むろん、健太郎君が断われば、無理強いはしない」

 鹿倉が割って入った。ゆっくりと健太郎に顔を向ける。

「健太郎君、どうだ?」

「待ってください! 健太郎君に決めさせるのは──」

 瀧川が口を挟んだ。

「では、誰が決めるんだ?」

 鹿倉は瀧川を見据えた。

「これは、健太郎君自身の問題だ。本人が覚悟を持って同意しなければ、それこそ危険に晒すことになる。違うか?」

 鹿倉に言われ、返す言葉もなかった。

 瀧川は健太郎に顔を向けた。

「健太郎君。少しでも躊躇があるなら、断わってくれていい──」

「やります」

 健太郎は瀧川の言葉を遮り、顔を上げて鹿倉を正視した。

 

(つづく)