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 白瀬は葛西のキノコの里に来ていた。

 葛西の園は、葛西駅から南へ一・五キロほど歩いたところの江戸川区の総合レクリエーション公園に接した歩道沿いにあった。

 真新しい一軒家で、普段働いている園とは違い、とてもきれいだ。

 おそらく、新築したのだろう。一階の広間には柱がなく、外には小さいが子供たちが遊べる芝敷きの庭がある。もっと駆け回りたければ、レクリエーション公園に行けばいい。

 二階には寝室、食堂があり、子供用の図書室まである。職員室も広く、机やパソコンなどは新しかった。

 また、各所に監視カメラが設置されていて、職員室内にある管理室のモニターで一元管理できるようになっていた。

 職員の面子は元いた園とあまり変わらない。若い人もいれば、年配のベテラン指導員もいる。

 子供の数も差はないが、園内が広く、職員も多いので、元の園よりはゆったりとしていた。

 子供たちと遊びながら、カメラの位置を見て回った。見えるところにあるものはあまり問題がないように思える。

 しかし、やはりというか、トイレや簡易更衣室に怪しげなきらめきがあった。ピンホールカメラが仕掛けられている可能性がある。

 新築であれば、初めから設置しているのだろう。管理室のモニターには、トイレや簡易更衣室の映像は映っていない。

 端々に大幸の〝趣味〟が反映されているように感じる。

 トイレなどの監視映像の隠し場所を特定できれば、運営元であるミライニの盗撮疑惑を補強する材料をつかめる。

 職員室を総ざらいしたいところだが、今回はこちらで信頼を得て、時々ヘルプで来られるようになれば、チャンスはある。

「有野先生、ちょっとよろしいですか?」

 中年女性に声をかけられた。ささなおという女性だ。葛西の園の園長を務めている。

「なんでしょう?」

 子供と遊んでいた手を止め、直美の下へ小走りで寄った。

「すみません、これから学童指導員のセミナーがありまして出なければならないんですが、付き合ってもらえませんか?」

「私がですか?」

 白瀬は自分の胸を指でさした。

「ええ。セミナー後に先生方に渡す資料をもらう予定になっているんですが、私はこの通り……」

 直美は右手首から腕に巻いた包帯を見せる。子供たちと遊んでいて、筋を痛めたらしい。

「他の先生にお願いしようと思ったんですけど、有野先生はここをまだよく知らないので、お任せするのは負担をかけてしまうだろうと思いまして」

 直美が言う。

 園長のいない間は、内部を探るチャンスではある。が、焦って職員室内を回っていれば、他の職員に疑われかねない。

 ここは園長に恩を売る方が得策だ。

「わかりました。お手伝いします」

「悪いわね」

 直美は言うと、他の職員に声をかけた。

 白瀬はその間に職員室に戻り、財布とスマホを取ってきた。一階に戻ると、直美が玄関で待っていた。

「行きましょうか。では、お願いしますね」

 直美は近くの職員に声をかけ、白瀬を連れ立って歩きだした。

「どこなんですか?」

「歩いて十分ほどのところです」

 そう言い、公園から都道318号線の方へ歩いていく。

 葛西南高東の交差点で横断歩道を渡り、左近通りを西へ歩く。

「園長先生は、どのくらい学童指導員をされているんですか?」

「十五年くらいかしら。その前は幼稚園の先生をしていました」

「子供の扱いは手慣れたものですね」

 白瀬が言う。

「いえいえ、子供は一人一人違います。年代によっても傾向が違うので、慣れるということはありません」

 直美はふわりと笑った。

 小太りで背が低く、柔らかな笑みを絶やさない直美は、子供たちからも人気だった。職員へのあたりも柔らかいからか、園内の空気も穏やかだ。

 またベテランらしく、トラブルが起こってもすぐに対処し、解決する。

 職員からの信頼は厚かった。

「有野先生はなぜ学童指導員を?」

「僕も子供の頃、学童クラブでお世話になっていたんです。うちは親が共働きで、二人とも帰りが遅かったんで、最後の最後まで残っていて。先生たちの中には、迷惑だという顔をする人もいたり、きつく当たってきたりする人もいたんですが、とてもよく面倒を見てくれた先生もいました。僕がなんとか子供ながら気持ちを保って、曲がることなく社会人になれたのは、その先生のおかげです。大人になって、僕も恩師のように子供たちを支えられる人になれればと思いまして」

 白瀬が話す。

 有野を演じるにあたり、仕込んだ理由だったが、半分は本当のことだった。

 白瀬は父子家庭で育った。

 父は商社マンで年の半分以上、海外を飛び回っていて、ほとんど家にいなかった。

 母は父のいない家庭を守っていてくれたが、病に倒れ、そのまま白瀬を置いてこの世を去った。

 父は母が危篤という知らせを受けても戻ってこなかった。その後も仕事にのめり込み、白瀬の世話はホームヘルパーに任せきりだった。

 ヘルパーが来られない時、白瀬は学童クラブに預けられていた。

 親からの愛情を与えられない白瀬は、クラブで問題視されるほど荒れた。

 指導員たちは白瀬に手を焼き、敬遠した。

 そんな中、一人だけ、根気よく白瀬と向き合ってくれた指導員がいた。年輩の男性で、あまり子供たちと駆け回ったりすることはできなかったが、いつも教室から子供たちを見守ってくれるような先生だった。

 その先生は白瀬にいつも言っていた。

 人はいずれ、独りで自分の道を歩かなければならなくなる。今の境遇を嘆かず、その時のために学びなさい。

 小学校を卒業するまで、その先生は白瀬に寄り添い、くどいほどそう言い聞かせた。

 その言葉と先生の熱情は、思春期になってさらに荒れそうになる白瀬の心の暴走を抑えてくれた。

「いい先生に出会えましたね」

 直美が微笑む。

「本当にそう思います」

 白瀬は深くうなずいた。

「私も長年、子供たちを見ていて思います。子供たちがよい将来を築くには、いい大人に出会うこと。それが最も大事なことです。どういう形であれ、一時でも信頼できる大人がそばにいたという記憶があれば、その子はまっすぐ自分の足で歩けるようになりますからね」

 直美は少し遠い目をしながら話した。

 直美にも何か深い思いがあるように感じる。しかし、それ以上は踏み込まなかった。

 話しながら歩いていると、目的地に到着した。五階建てのビルだった。

 直美が中へ入っていく。白瀬も続いた。

 エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。

「ここは?」

「オフィスビルなんですが、レンタル会議室もあるんです。時々、職員会議の時なんかに利用させてもらってます」

 そう話し、五階のボタンを押した。

 静かに上がっていき、エレベーターが止まる。ドアが開くと、エントランスの奥にガラス扉の玄関があった。

 扉に社名は記されていない。が、直美は勝手知ったる様子で中へ入った。

 白瀬も続く。無人カウンターに受話器と内線番号表がある。

 直美は受話器を持ち上げ、第一事業部の内線番号を押した。

「──講習に参加するキノコの里の笹木です」

 そう告げ、受話器を置く。

 まもなく、スーツ姿の男が現われた。その顔を見た瞬間、白瀬の目が一瞬鋭くなった。

 ナルミじゃないか──。

 今回の案件に関わる人物のデータは、作業班員の間で共有している。目の前の男は、白瀬の記憶に刻み込んだ、つぼみクラブのナルミに間違いない。

 どういうことだ……?

 直美は応対している男がナルミと知って応対しているのか、それとも知らずにセミナーだと思って接しているだけか。

「そちらは?」

 ナルミが白瀬を見た。

「うちの園に来ていただいている有野先生です」

 直美が紹介する。白瀬は頭を下げた。

「ナルミと申します。どうぞ、こちらへ」

 ナルミは白瀬に笑みを見せ、カウンター裏から会議室に案内した。

 白瀬は歩きながら、様子を探った。オープンオフィスに従業員はいるものの、特に怪しい雰囲気はない。

 白瀬たちは向かって右奥へ歩いていく。その先にドアがある。

 反対側も見てみた。左手も壁で仕切られていて、ドアがあった。フロアは三つに仕切られているようだった。

「こちらでお待ちください。十分後くらいに始めますので」

 ナルミがドアを開く。

 直美が先に入っていく。白瀬も続く。入ってすぐ、中にいる人たちを一瞥する。

 その中に藪野がいるのを認めた。

 藪野もちらりと二人に目を向けた。白瀬と目が合ったが、すぐに伏せた。白瀬もそ知らぬふりをして、直美と右列の中ほどの席に座った。真後ろに藪野がいる。

「みなさん、指導員の方ですか?」

 白瀬は直美に訊いた。

「そうでしょうね」

 さらりと答える。

 そらとぼけているのか、本当に知らないのか、判断がつかない。

 と、スマホが鳴った。白瀬は自分のポケットからスマホを出した。自分のものではない。隣から聞こえる。

「園長先生、スマホが」

「あら」

 直美がバッグからスマホを取り出した。画面を見て、立ち上がる。部屋の端に行き、電話に出る。直美の話し声が響く。

「──あ、わかりました。すぐに戻ります」

 そう言って電話を切ると、直美が白瀬の下に駆け戻ってきた。

「有野先生、ごめんなさい。園から電話で、ちょっとトラブルが起こったみたいなの。すぐ対処して戻ってくるから、セミナー聞いといてくれる?」

「わかりました」

「よろしくね」

 直美は白瀬の肩をそっと握り、部屋を出た。

 白瀬はきょろきょろしながら、所在なげに座っていた。

 と、かすかにコンコンと何かを叩く音が聞こえてきた。後ろからだ。

 モールス信号だった。

《なぜ、おまえがここへ?》

 藪野からの通信だ。

 白瀬は腹の下で手を重ねた。そして、右の中指で自分の爪を叩いて音を出した。とても小さな音だが、部屋が静かなだけに藪野には伝わるはずだ。

《セミナーと言って連れて来られた。あなたは?》

 できるだけ短く言葉を伝える。音が返ってくる。

《運搬仕事の説明会》

 そう言う。

 昨晩、藪野から、ナルミと接触したのち、カスタムカーを運搬する仕事を勧められたという報告があった。

《おかしいな》

 送ると、すぐに音が返ってきた。

《用心。脱出》

 用心して、いざという時は脱出するぞ、という返信だ。

 白瀬は大きく息をつくふりをして、うなずいて見せた。

 何が始まるのかわからないまま座っていると、その後、新たに四人の男女が入ってきた。二人は単独で入ってきたが、若い女性と一緒に入ってきた中年男は、直美と同じように理由をつけて、部屋を出た。

 白瀬はまた、信号を送った。

《集められてるな》

 返音がある。

《気をつけろ》

 白瀬はその音にまたうなずいた。

 すると、ドアが大きく開いた。ナルミが入ってきた。藪野と白瀬の脇を通り、ステージに立って振り向いた。手にはワイヤレスマイクを持っている。

 ドアが閉まる。ガチャッと鍵をかけられた。白瀬の表情が一瞬硬くなった。

 ナルミはワイヤレスマイクのスイッチを入れて、指先でトントンと叩いた。ステージの上両端に設置されたスピーカーから音が鳴る。

 確認して、マイクを口元に近づけた。

「みなさん、お待たせして申し訳ありませんでした。私はミライニという会社で営業部門を統括しているなる栄一えいいちと申します」

 ナルミが自己紹介をすると、室内がざわついた。

「えー、みなさんの中には、私の名前が違うと思ってらっしゃる方もいると思います。私は系列会社で都度名前を変えています。不審に思われるかもしれませんが、たった今述べた名前が実名ですので、この機会に覚えておいてください」

 ナルミは言い、一つ咳払いをした。

 会場に集まっている者たちは静かになり、ナルミに顔を向けた。

「ここへ集まってくださったみなさんは、ここ半年の間に私たちの系列会社、または関係グループに入っていただいた方々です。二度と会わない方もいらっしゃるでしょうが、場合によっては共に仕事するようになる方もいると思いますので、のちほど自己紹介をしてもらいます」

 ナルミは話し、一同を見渡した。

「さて、その前に、大事なお話があります。私どもの会社は様々な事業を行なっています。学童クラブの運営、AIによる学習システムの開発や提供、メンテナンス、他にもインターネット内のコンテンツの制作や販売、趣味嗜好に合わせた各種イベントの運営、それに関わる運搬事業など。社会のあらゆるニーズに対応した企業です」

 自慢げに語る。

 白瀬はまっすぐナルミを見て、藪野はうつむいたまま話を聞いていた。

「その中でも特に力を入れている事業が、恵まれない子供たちの養子縁組事業です」

 ナルミの言葉に、また会場がざわついた。

 白瀬は腹の下に置いた両手を握りしめた。背後の藪野の気配が鋭くなったのを肌で感じる。

「子どもの未来を作るのは大人の役目です。そのため、学童クラブで面倒を見て、学習システムによって将来への土台を構築しています。しかし、それだけではどうしようもない環境要因があります。それは家庭です。子供たちが安心して暮らせる環境がなければ、どんなに土台をこしらえても、羽ばたくことはできません。私たちは、不幸な子供たちを無責任な親から引き離し、よりよい環境を提供することを目指しております。そのためには質のいい学童クラブのような施設が必要不可欠。ですが、良い施設を造るためには資金力がなければなりません。その資金を得るために様々な事業を展開しているのですが」

 ナルミはマイクを握りしめた。

「私たちの理念を理解せず、いたずらに事業を掻き回そうとしている輩が、この中にいます」

 語気を強め、一同を睥睨へいげいした。

 それまでの顔とはまるで違う、見る者を恫喝する目つきだった。

 白瀬はちらりと集められた者たちを見た。誰もが顔を引きつらせていた。

「その不逞な輩を見過ごすことはできません。心当たりのある方は今ここで、名乗り出ていただきたい」

 ナルミが太い声で迫る。

 誰もがうつむいた。白瀬もうつむく。しんとした室内は緊張感で張り詰めた。

 ナルミはしばらく黙っていた。

 こういう時、怒鳴り散らしたり、壁や床で大きな音を立てたりして脅すのは素人だ。

 脅迫も過ぎれば、自分は違うのに逃れたいがため自分だと自白してしまう者がいる。それでは意味がない。

 炙り出す時は、静かに。そして、じわじわと恐怖を相手の胸の内で大きくさせていく。

 こいつ、プロだな……。

 白瀬は危険を感じ、肌が痛くなった。

 どのくらいの時間黙っていたかわからない。おそらく二、三分くらいなものだろうが、不安な気持ちを抱いている時はそれが十分にも一時間にも感じられる。

「わかりました」

 突然、ナルミの声がマイクを通して響いた。誰もがびくっと体を震わせた。

「では、一人ずつ、尋問することにします。まず、あなた」

 ナルミは向かって右前列の端に座った中年男性を指さした。

「立って、こちらへ」

 呼びつける。作業着を着た細身の男は恐る恐る立ち上がり、ステージに上がった。

「あなたが私たちの事業を邪魔している人ですか?」

 睨みつけながら、マイクを通して訊ねる。

「いえ、私はそのようなことは……」

 うつむいたまま否定する。

 と、ナルミはいきなり、マイクで男の頭を殴りつけた。ゴンという音が反響してスピーカーに響く。

 部屋にいる者は驚いて身を竦めた。小さな悲鳴を上げた者もいる。

 殴られた男は頭を押さえてうずくまろうとした。ナルミは左手で男の襟首をつかんで立たせた。

「あなたですか?」

「いえ、私は……」

 否定すると、またマイクで殴った。額が割れ、血が流れる。

 男が膝を落としかけた。ナルミは男をつかんで立たせた。三度、訊ねる。男が否定すると、また殴りつける。

 同じことが何度も繰り返されるうちに、男は立てなくなった。顔は血だらけだ。ナルミが手を離すと、男はステージ上で両膝をついた。上体がフラッと傾き、ステージから転げ落ちる。

 みな、言葉を出せなくなっていた。

「彼は違うようですね。おい」

 マイクで呼びかける。ドアが開いた。大柄の男が入ってきて、ステージ脇に駆け寄る。無表情で傷ついた男を運び出していく。

 ドアが閉まり、再び鍵をかけられた。

「次はあなた」

 一列目真ん中にいた若い女性に声をかける。

 若い女性は怯えて、顔を横に振る。

「さあ、ステージに来てください」

「イヤです……」

 涙声が震えている。

「では、私から行きましょう」

 ナルミはステージを降りた。女性の前に立つ。

「私たちの邪魔をしているのは、あなたですか?」

 ナルミは問い、マイクを向けた。ヘッドは血で赤く染まっていた。

 女性は首を激しく横に振った。

「あなたですか?」

「違います!」

 女性が上擦った声で叫んだ。

 ナルミがマイクを持った右腕を振り上げた。女性は頭を抱え、首を竦めた。

 ナルミは容赦なくマイクを振り下ろそうとした。

 白瀬が立ち上がった。駆け寄って、女性とナルミの間に入り、右腕をつかむ。ナルミを睨みつけた。

「おまえが探してんのは、オレだよ」

「そうですか。あなたへの尋問はのちほどゆっくりと」

 ナルミは白瀬を見据え、にやりとした。

 

 

(つづく)