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第三章

 

 

 

 瀧川は東京都渋谷区笹塚に赴いた。

 駅を出て少し北へ進み、右折して甲州街道を東へ百メートルほど進んだところに、IFAUC日本支部がある。

 古い五階建ての五階、ワンフロアが事務所だった。

 シャツに地味めなジャケットを着た瀧川はショルダーバッグを肩に提げ、伊達メガネを押し上げて、一階通路奥に進んでエレベーターに乗り込む。

 年季の入ったエレベーターが軋みながら昇っていく。

 ドアが開く。目の前にガラス張りの観音開きの玄関があった。ガラスにはIFAUC日本支部という文字が記されていた。

 瀧川は一つ息をついて、玄関ドアを開けた。目の前に湾曲した壁を背にしたカウンターがある。若い女性がいた。

「こんにちは」

 笑顔を向けてくる。

 瀧川は歩み寄った。

「すみません。原口はらぐちさんの紹介で面接に来ましたきしと申します」

「少々お待ちください」

 女性はタブレットを指で操作した。

「岸井智彦ともひこさんですか?」

「はい」

「失礼ですが、身分を証明できるものはお持ちでしょうか」

「はい、ちょっと待ってください」

 瀧川はカバンの中から財布を出して、運転免許証を取り出した。

 提示する。免許証には岸井智彦という名前と瀧川の写真が記されていた。

「ありがとうございます」

 女性は確認し、免許証を瀧川に返した。

 席を立って、カウンターから出てくる。

「こちらへどうぞ」

 女性が促した。瀧川は女性の後について、右手に進んだ。

 通路はカウンターで仕切られていた。その奥にはフラットにデスクが並ぶ。左奥にはスチール棚があり、資料が詰まっている。

 ビルの外観から、もっと事務所内は雑然としているかと思っていたが、意外にさっぱりとした小ぎれいなオフィスだった。

 中で働いている人も、カジュアルなジャケットに身を包んだ男女ばかり。年齢層も若めだった。

 右奥に応接ブースが並んでいた。そのさらに奥には個室がいくつかあった。

 瀧川は通路側の応接ブースに通された。

「こちらでお待ちください」

 女性に言われ、半円形の壁に囲まれたブースに入る。

 ブース内には円形のテーブルがあり、洒落た丸椅子が三脚置かれていた。

 瀧川はショルダーバッグを足元に置いて、入り口側の椅子に腰を下ろした。

 林田佐夜子と面会した後、瀧川はIFAUCへの潜入を決めた。

 佐夜子の必死な訴えを無視できなかった。事情はあれど、子を思う親の気持ちに目をつむることはできない。

 鹿倉が瀧川だけを佐夜子に会わせたのは、この心境の変化を狙ったものだということはわかっていた。

 もちろん、嵌まらないように気を付けていた。

 しかし、佐夜子の生の声と気迫を浴びて、逃げられなくなった。

 綾子と遙香には、研修で二週間帰れないと伝えている。

 二人とも訝し気だったが、いつものように送り出してくれた。

 瀧川が引き受けるとみていたのだろう。返事をすると鹿倉はすぐ、新しい身分証を渡してきた。そして、潜入への足掛かりはすでに用意していた。

 潜入期間の仮住まいも変わった。瀧川として捜査していた時に使っていたアパートは引き払い、今は世田谷区桜上水のマンションの一室に居を移している。

 そのあたりの仕込みは徹底していた。

 迅速に事が運ぶのを目の当たりにし、瀧川は自身の甘さをまた思い知らされた。

 三分ほど待っていると、オフホワイトのスカートスーツを着た細身の女性が入ってきた。和風な顔立ちの美女だった。

 瀧川は立ち上がり、一礼した。

 女性はにっこりとして、瀧川の左斜め前に立った。

「はじめまして。私、IFAUC日本支部の事務局長を務めております、浅丘あさおかひろと申します」

 名刺を差し出す。瀧川は両手で受け取った。

「岸井と申します。本日はお時間をいただいてありがとうございます」

 もう一度、深く礼をする。

「どうぞ、お座りください」

 真優が言う。

 瀧川は座って、改めて名刺を見た。

「真優と書いて、まひろと読むんですか。めずらしいですね」

「意外とあるんですけど、ほとんどの人は“まゆ”か“まゆう”と間違えます。けど、いいこともあるんですよ。勧誘の電話や知らない人のメッセージで“まひろ”と読む人は皆無ですから、的確に安全確認ができるんです」

「なるほど。それは便利ですね」

 瀧川は笑って、すぐ笑みを引っ込めた。

「あ、失礼な話をしてしまって、すみません……」

「お気になさらず。みなさん、心の中ではそう感じているのかもしれませんけど、なかなか口にしてくれる方はいらっしゃらないので。うれしいですよ」

 真優が微笑む。

 四十前後だろうか。笑うと目尻に皺が寄る。しかし、その包み込むような微笑みは美顔と柔らかなトーンの声色が相まって、ちょっとした女神のようにも映る。

「さっそくですが、履歴書を見せていただけますか?」

 真優が言った。

 瀧川はバッグを持ち上げ、中からクリアファイルに挟んだ履歴書を取り出した。天地を返して、真優の前に差し出す。

 真優が手に取って、目を通し始めた。

 岸井智彦は都内の大学を卒業した後、仕事を転々とし、児童福祉施設に勤務。今回はそこの施設長の推薦で、IFAUCの面接を受けに来た、という設定になっていた。

「児童福祉施設では何をされていたんですか?」

「主に、子供たちの勉強を見ていました。教員免許は取っていませんが、大学時代、児童心理学を学ぶと同時に教職課程も取っていましたので」

「なぜ、教員免許を取らなかったんです?」

「学校の勉強は教えられるかもしれませんが、社会経験はごくごく普通のもの。そんな自分が子供たちに何を教えられるのだろうと思うと、自信がなくなってしまって……」

「それで、いろんな仕事を転々としたというわけですか?」

「はい。社会経験を積みたいと思いまして」

「経験を積んでみて、どうでしたか?」

 真優は淡々と質問をしてきた。

「わずかですが、働くこと、稼ぐこと、生きることの苦労を知りました。それと、どの職場でもそこで懸命に生きている人がいる。職業に貴賤なしという言葉の本当の意味を知った気がします」

「そうですか。では、なぜ、めぐまれない子供たちを支援する当団体に就職しようとお考えになったのですか?」

「児童福祉施設で働いたことがきっかけです。施設には境遇に恵まれない子供たちがたくさんいました。境遇は自分次第で変えられる。よく聞く言葉ですが、実際は、貧しいばかりに能力はあっても進学を断念したり、すぐ生活費を稼げる仕事につかざるを得ない子供たちもたくさんいます。施設でも就労斡旋や奨学金給付の支援をしていますが、子供たち全員に十分行き届いているわけではありません。そんな話を施設長の原口さんにしていたら、こちらのような養子縁組団体があると聞きまして。彼らが一人でも多く、家庭に恵まれれば、未来も作れるのではないのかと思いまして、そのお手伝いをさせていただければと」

 瀧川はすらすらと答えた。

 事前に用意していたわけではないが、岸井智彦という人物になりきると、自然と言葉が出てきた。

 真優が履歴書を置いた。

「わかりました。二、三日中に合否の連絡をさせていただきます」

 真優が立ち上がる。

 瀧川は立ち上がり、「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、事務所を後にした。

 

 

 藪野は今日もヨミと会っていた。ここ五日間で三度も共にいる。

 最初は薄気味悪くて腹立たしい男だったが、三度目ともなるとずいぶん慣れてきた。

 会うのはいつものカラオケボックス。ヨミはあまり人目のあるところで会いたがらない。

 それは彼の過去に起因するようだ。

 顔写真から、ヨミの本名と住所はつかんでいた。

 坂倉公さかくらきみ、三十五歳。家は、埼玉県わらび市にあり、今も実家で暮らしている。父は他界し、六十七歳の母親と二人暮らしだ。

 仕事はフリーのIT技術者で、自宅の自室で時々仕事を請け負い、プログラムを作っている。年収は三百万円前後と判明している。

 本人が話していたように、小中学校時代はいじめに遭い、不登校気味で、高校は通信制の学校を卒業している。

 近所の人とは挨拶を交わす程度で、あまり交流はないようだ。

 友達らしい友達の存在も確認されていない。

 本当に、今、外で会っているのは、藪野だけのようだった。

 一度目はつぼみクラブのオフ会、二度目は藪野の方から誘って会ったが、三度目の今日はヨミの方から連絡が来た。

 ヨミは相変わらず、くちゃくちゃと音を立ててナゲットやポテトを口に放り込み、コーラをごくごくと呷っている。

 もう少し、人の目を気にできないものかと思うが、それだけ藪野に心を許しているということでもあるのだろう。

 IT技術者なら、藪野が前回持参した写真が加工したものであることくらい、すぐにわかったのだろうが、それでも大仰に驚いて見せたのも、“ミツオ”に嫌われたくない一心だったのかもしれない。

 いちいち不器用な男なのだろうかとも感じる。

 一通り腹を満たすと、ヨミから切り出してきた。

「ミツオさん、メンバーに声をかけて、少し写真を分けてもらったんですけど、見てみますか?」

「本当ですか! それはありがたい」

 藪野が言うと、ヨミは頬を紅潮させて笑顔を見せた。

 バッグからタオルを出して顔の汗を拭い、ノートパソコンを出した。起動して、手際よく画像を表示する。

「ここから見てください。二十枚ほどですけど」

 そう言い、パソコンの画面を藪野に向ける。

「失礼します」

 藪野は画面に手を当て、スクロールした。

 女児の画像が出てきた。目つきが鋭くなりそうになった。

 学校帰りを狙ったものもあれば、ショッピングセンター、アスレチック施設、プールなど、様々な場所で盗撮されている。

 下半身や胸元のアップ画像もあれば、顔まで写っているものもある。レンズ越しにやりたい放題だ。

 問答無用に怒りが込み上げてくる。ヨミには慣れたといえど、どうしても少年少女を凌辱するこうした画像とそれを所持しているという事実には、激しい怒りを禁じえない。

 それでもぐっとこらえ、少し笑みまで浮かべて見せた。

「これはすごい。おいくらだったんです?」

「メンバーのみんながタダで譲ってくれました」

「タダで!」

「はい。ミツオさんが加工用画像を欲しがっているとメッセージを流したら、みんなが送ってくれました」

「みなさん、優しいんですね」

「同じ趣味を持つ同士ですからね。僕たちはなかなか理解されませんから」

 ヨミが言う。

 そりゃそうだろうと思いつつ、「そうですね」と話を合わせた。

 ずっと見ていくと、最後の五枚くらいは、他のものと違う感じがあった。

 どこかのスタジオのようだ。ライティングもしっかりしていて、ベッドやベンチなんかで女児がポーズを取っている。写真に写っているのは同じ女の子だった。

「これは?」

 藪野はモニターをヨミに向けた。

「ああ、それは僕が撮った写真です」

「これ、どこですか? どこかホテルかスタジオのように見えますけど」

「わかりました? スタジオです」

 ヨミがへらへらと笑う。

「スタジオ撮影なんてできるんですか!」

「ええ。撮影会があるんですよ。不定期ですけどね」

「そんな撮影会があるんですね。私は個人で細々とやってたんで、そういうのがあるとは知りませんでした」

「そうですか? Xなんかは見るでしょ? あそこに素人モデルがよく告知しているでしょう。ああいう人たちの撮影会と変わりませんよ」

 ヨミがさも当たり前のように話す。

「でも、女児の撮影会は難しいでしょ?」

 ムカムカしながらも、藪野は質問を続けた。

「そうでもないですよ。女児のモデルにDMを送ってみると、値段によっては管理者がOKを出してくれる時もありますから。ヌードは撮っていないので、普通の撮影会と変わりませんよ」

 ヨミがそう言って笑う。

 今すぐ叩きのめしたいが、ぐっと我慢した。ヨミの言う通り、女児の際どい撮影会を催す管理者がいることは藪野も知っている。

 その管理者のほとんどは、その子の親だ。自分の大事な子供を、金銭と引き換えに狼の群れに放り込んでいる。

 生活安全部が主にそうした撮影会を催す親を取り締まっているが、摘発してもすぐに、手を変え品を変え、湧いてくる。

 一度、我が子を食い物にする味を覚えると、やめられなくなるろくでなしの親もいた。

「撮影会なら、ミツオさんも出られるかもしれませんね」

 ヨミが言う。

「いや、私は難しいと思います。私が妙な動きを見せると、警察が動きますから。行きたいのはやまやまだけど、万が一があれば、みなさんに迷惑をかけてしまう」

「ミツオさんは本当に優しい方ですね」

「小心者なだけです」

「いえいえ。同士の心配をして、自分は我慢するというのは、僕らみたいな趣味を持つ者の鑑です。さすが、カネミンさんの紹介です」

 ヨミが言う。

「さすがとは?」

「カネミンさんも、何度か逮捕されたことがあるんですよ」

「えっ! それは知らなかった!」

 驚いて見せる。

「ミツオさんには言わなかったのかもしれませんね。驚かせないために」

「ああ、私もカネミンさんに逮捕されたことは話してませんから。ヨミさんだけです、逮捕のことを話したの」

 藪野が言うと、ヨミは真っ赤になって満面の笑みを浮かべた。破裂寸前の風船のようになっている。

「カネミンさんも、つぼみクラブの一部のメンバーにしか話していませんでした。僕は、ナルミさんから聞いたんですけどね」

 オフ会を主宰していた男だ。

「ナルミさんが言うには、カネミンさんは何度逮捕されても、クラブのことや他の仲間のことは決して明かさなかったそうなんです。愛がありますよね、愛が」

 ヨミは興奮気味に話し、鼻を鳴らした。

「ほんとですね。すごいや、カネミンさん」

 合わせながら、腹の中で笑った。

 カネミンこと兼光は、完全に警察の手に落ち、ぺらぺらとしゃべっている。脛に傷を持つ者の絆とはその程度のものだ。

「そんなミツオさんは信じられると思うので、もう一つ教えましょうか、ここだけの話で」

「なんですか?」

「本当にここだけの話ですよ」

 ヨミが上体を倒した。藪野はヨミに顔を近づけた。

「つぼみクラブ主催の撮影会があるんですよ。そこでは際どい衣装やヌードも大丈夫なんです」

 それを聞いて、目を見開いてヨミの方を見る。ヨミはにやりとした。

「やっぱり、SNSでモデルを見つけるんですか?」

「それはわかりません。けど、たぶんSNSじゃないと思います。画像検索をかけても出てこない子がほとんどなんで」

「つまり、本当の素人の子ということですか?」

「おそらく」

 ヨミが今日一番の薄気味悪い笑顔を見せた。欲望が毛穴から噴き出しているようだ。

 耐えがたい。しかし、重要な情報だ。

「私も参加できるんですかね?」

 藪野もヨミと同じような欲望に満ちた脂っぽい笑みを滲ませた。

「ナルミさんに認めてもらわないと無理ですから、今すぐはないでしょうけど。僕がそれとなく推薦しておきます。いつとは約束できませんけど、気長に待っていてください」

「ほんと、ヨミさんには良くしてもらってばかりです。ありがとうございます」

 ナゲットとポテトの油でべとべとの手を両手で包む。

 ヨミはびくっとして手を引っ込めかけたが、握手とわかると、心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべた。これもまた、ヨミの素直な感情が表出した顔なのだろう。

 その素直な感情は……利用させてもらう。

「ヨミさんがいてくれて本当に良かった。頼りにしてますね」

 藪野は満面の笑みでヨミの手を力強く握った。

 

(つづく)