第二章
6
瀧川は、公安部が用意したアパートに戻っていた。
午後六時を回った頃、日埜原が一人でアパートへやってきた。
瀧川は日埜原を部屋に上げた。
日埜原は、折り畳みのテーブルしかない殺風景な六畳一間の畳に正座をした。
「どうだ、この部屋は?」
「懐かしいですね。父が死んだ後、こういうアパートで暮らしていましたから」
瀧川は煤けた壁や天井を見ながら、テーブルを挟んで日埜原の対面に座り、あぐらをかいた。
「お茶、飲みますか? パックのしかないですけど」
「いや、いい」
日埜原は言い、足を崩した。
「健太郎君の母親だが、傷は浅く、命に別状はない」
「よかった……」
「しかし、今は話せない。詳しい話を聞けるようになるには、もう少し時間がかかりそうだ」
「そうですか。タブレットの解析は?」
「その件だが」
日埜原はスマートフォンを取り出した。
画面をタップし、捜査資料を提示する。本来、捜査資料を持ち出してはいけないが、公安部では秘密の会話をする際、必要な分を公安部のデータベースにアクセスして呼び出すことはできる。
もちろん、話が終わった後には、スマホからデータの痕跡を完全消去。操作履歴は、公安部のデータベースに逐一送信され、公安部内の事務方で管理される。
不審な操作が行なわれれば、ただちにシャットダウンされ、部員のスマホ自体が使えなくなるプログラムを仕込まれている。
その消去プログラムが入っていない端末では、データベースにアクセスできない。
「大金を振り込んだ相手はわかった。そっちでアクセスしろ」
日埜原は部屋の隅に置いたタブレットを目で指した。
瀧川は手を伸ばしてタブレットを取った。
このタブレットも公安部から支給されたもので、同じく、消去プログラムが仕込まれている。
公安部のデータベース専用のIPアドレスでアクセスし、個人に割り振られたパスワードでログインする。
日埜原は瀧川の手元を見ながら言った。
「ファイルナンバー564458だ」
瀧川は検索窓にナンバーを入れ、エンターキーをタップした。
PDFファイルが表示される。瀧川はさっそく目を通す。
「振込先のIFAUCという養子縁組斡旋団体だが、本部の登記はシンガポールにある」
「リホーミング、ですか」
瀧川は資料を見ながら、首を傾げる。初めて知る言葉だ。
「欧米諸国では養子縁組が盛んだが、必ずしもうまくいくとは限らない。お試し期間を設けて、いったん共に生活をし、合うかどうかを確認して正式に養子養父母となる。だが、お試し期間に養父母から合わないと判断されれば、その養子縁組は白紙に。正式に決まった養子縁組でも様々な事情でまた放り出される子供もいる。そうした子供たちに新しく養父母を紹介、斡旋することをリホーミングと呼んでいる。IFAUCの正式名称は、インターナショナル・ファミリー・オーセンティケーション・センター。日本では国際家族認証センターと呼ばれている」
「世界的な組織ですか?」
「全世界に支部がある。各国の問題を抱えた子供たちを裕福な人たちに紹介して、養子縁組を決めている。国連の組織ではないが、それなりの実績があり、国際的に認められている組織でもある」
「そんなところから、なぜ健太郎君の母親に五百万ドルも振り込まれているんですか?」
「それなんだが──」
日埜原が少し身を乗り出した。
「IFAUCに問い合わせたところ、林田佐夜子という女性に金を振り込んだ記録はないとの返答があった。こちらでも調べたが、確かに当団体からの入金は確認されなかった。さらにおかしなことに、調べを終えてすぐ、残高は0になっていた」
「どういうことですか?」
瀧川は首を傾げた。
「詳細はまだわからないが、一つだけヒントはあった。IFAUCの事務局からの情報だが、ここ数年、同じくIFAUCを名乗る団体が活動しているようで、何件か、金が振り込まれていないだとか、商品はどうなっているのかといった問い合わせが来ていたそうだ」
「詐欺ですか?」
「なんとも言えんが、林田母子の件は、同名の別団体が関係しているようだな」
日埜原は言い、さらに続けた。
「もう一つ、気になる点がある。正式なIFAUCの日本支部の代表は宮代福士という人物なんだが、この男、今、白瀬に潜入させている学童クラブを運営している会社の社長で、施設長の宮代大幸の弟だ」
「つながりがあるということですか?」
瀧川の目が鋭くなる。
「点ではな。しかし、それだけで宮代福士をターゲットにするわけにはいかない。そこでだ」
日埜原が背筋を伸ばした。
「瀧川君。IFAUC日本支部に潜入できんか?」
頼んできそうな気配はあった。瀧川も背筋を伸ばし、見返した。
「潜入はお断りします。そこから先は、他の部員にお願いします」
ハッキリと返す。
日埜原はふっと笑った。
「まあ、君ならそう言うと思ったよ。仕方ない。他に任せるとしよう」
日埜原が太腿をパンと叩いた。
「すみません」
「いやいや、君が公安部の捜査を引き受ける条件だったからね。君は条件を行使しただけ。気にすることはない」
ゆっくりと立ち上がる。
「引き継ぎ部員が見つかるまでは、健太郎君の捜索はしてもかまわない。データベースへのアクセス権もそのままにしておくから、自由に動いてくれ。また、連絡する」
日埜原は笑みを向けた。
瀧川が立ち上がろうとする。
「ここでいい」
日埜原が止めたが、瀧川は立ち上がった。
「日埜原さん、健太郎君の捜索を続けるとして、母親の佐夜子さんに面会することは可能ですか?」
訊くと、日埜原は立ち止まって振り向いた。
「君の捜査範疇だからね。かまわないよ。ただし、後任が決まるまでという条件付きだがね。それでは」
日埜原はそう言い、帰っていった。
瀧川は日埜原を見送った後、すぐに用意をしてアパートを出た。
7
林田健太郎は薄暗い部屋にいた。二十畳くらいの広い部屋に、健太郎のような子供たちが十数名押し込まれていた。
泣いている小さな女の子もいた。
健太郎は、その子の横に座り、肩を抱いて背中をさすり、何度も「大丈夫」と声をかけてあげていた。
健太郎自身も泣きたくなるほど怖い。
しかし、他に泣いている子が多いからか、健太郎は気丈に笑顔を見せ、他の子たちを励ましていた。
何が起こったのか、正直、健太郎にもわかっていない。
部活動の帰り、学校を出て少し歩いたところで妙な男に声をかけられた。警察の人だった。身分証も見せられて、母親が倒れたから来てほしいと言われた。
一瞬、訝ったものの、母親に何かあったと聞いてはじっとしていられず、車に乗った。
後部シートには健太郎一人。運転しているのは、迎えに来た私服の警察官で、車内には二人しかいない。いざとなったら逃げればいいと、甘く考えていた。
前部と後部のシートの間は、分厚いアクリル板の壁で仕切られていた。
警察車両に乗ったことなどない。訊いてみると、犯人から危害を加えられないようにするためだという。
理屈は通っているので、一応納得した。
車の中にほんのり甘い香りが漂っていた。それも訊いてみた。その警察官がタバコを吸うので、芳香剤を入れているという。
それもよくあることなので、腑に落ちた。
警戒しすぎかと思いつつ、シートに身を預けていると、走りだして十分ほど経った頃、体がふわりとした感覚に包まれ、めまいがしてきた。
その様子をバックミラーで確認した警察官は、後部シートの窓を開け、センターコンソール続きの小窓から冷たい水を差しだした。
健太郎は部活後ということもあってのどが渇いていたので、その水を半分ほど飲み干した。
ひと息ついた。風に当たっているからか、ふらつきは少し治まった。
その後、急に眠気が襲ってきた。
警察官は、疲れているんだろうと言った。寝てなさいとも加えた。
その声がぼやけて、すぐにまどろみに落ちた。
そして、気が付いた時には、この部屋にいた。
つまり、誘拐されたということだ、と理解していた。
部屋に閉じ込められた他の子たちも、同じような手で連れ去られたのかもしれない。
最初は、健太郎も他の子と同じように部屋の片隅で膝を抱え、沈んでいた。
しかし、泣いていてもどうにもならない。
食事は部屋の右隅の上部にある横長の小窓から、一日二回、飲み物とパンが放り込まれる。時間は決まっていない。放り込んでいる者の手も見えないので、男か女かもわからない。
ただ、窓の位置から考えると、自分たちが閉じ込められている部屋は地下にあるのではないかと、健太郎は感じていた。
食事が提供される小窓から外へ出られれば、あるいは助けを求めに行けるかもしれない。少なくとも、ここにいる子供たちを出してあげることはできる。
部屋の外がどうなっているか、どんな人間が何人くらいいるか、この建物がある場所はどこなのか。わからないことだらけだが、このままじっとしていても何も解決しない。
健太郎は女の子の頭を撫でて、立ち上がった。何人かに目配せをする。
年の近い子供が三人いた。健太郎を含めて四人。見た限りでは、自分たちが一番年長だった。
四人は部屋の隅に集まった。顔を寄せる。
「もう、ここへ連れてこられて十日は過ぎている。他の子で二週間以上、ここに閉じ込められている子もいるだろう」
「健ちゃん、時間がわかるの?」
ヒロという女の子が健太郎を見た。
「なんとなくだよ。僕はサッカーをやってたから、三十分ハーフの六十分というのが染みついてるんだ。その体感でだいたい時間がわかるから、数えてた」
「すげえな。オレはそんな特殊能力持ってねえ」
カズという小柄な男の子が言う。
「特殊能力じゃなくて、慣れみたいなものだよ」
健太郎は笑った。
「そんなの数えて、どうすんだよ。どうせ、ここから出られないのに」
ミチルがこぼす。色白で少しぽっちゃりとした男の子だ。
「それなんだけど、ここから抜け出さないか?」
健太郎が小声で言う。三人が驚いて、健太郎を見た。
「どうやって?」
カズが訊いた。
「あそこに窓があるだろう?」
健太郎は食べ物が投下される小窓を指した。
「あそこから出るんだ」
「あんな高いところ無理よ」
ヒロが顔を横に振る。
「そうだよ。ジャンプしたって届かない」
ミチルがため息をつく。
「もちろん、一人じゃ届かない。けど、僕たち三人が立って肩に乗っていけば、一人は届く」
「一人だけ逃げようっていうのか」
カズが睨んだ。
「一人だけ脱出させる。そして、その一人が助けを呼びに行く」
健太郎は三人を見回した。
「待って。どこにいるかも、誰がいるかもわからないんだよ。捕まったら、どうするの? 殺されちゃうよ」
ヒロが涙目になる。
「このままでいいの? これからどうなるのかわからないまま、ここで閉じ込められてていいのか? 何かしないと何も変わらない」
「あの窓、通れるのか?」
カズが訊く。
「頭が入れば、窓は通れるんだよ。あの窓、大きく開くみたいだから、いけると思う」
「鍵が閉まってたら?」
ミチルが訊いた。
「鍵は閉めてないよ。毎回、食事を落とす前や後にロックする音が聞こえないから。やってみようよ」
ミチルを強く見つめる。ミチルは目を伏せた。
「やってみようって」
カズとヒロを見るが、二人も顔をうつむけた。
「僕たちだけじゃない。あの子たちもどうなるかわからないんだよ」
健太郎は小さな子供たちに目を向けた。
怖くて泣いている子もいれば、何かわからず、無邪気に遊んでいる子もいる。ただ、誰もが不安なのは間違いなかった。
「けど、捕まったら……」
ミチルがぼそりと漏らす。
「僕が行くよ」
健太郎が言った。
三人は健太郎に顔を向けた。
「危ないって」
ヒロが泣き出しそうな顔で言った。
健太郎は笑顔を見せた。
「大丈夫。僕は足が速いし、ドリブルが得意だから、捕まりそうになってもジグザグに避けて逃げられる。必ず、助けを呼んで戻ってくるから」
力強く言う。
うつむいていたカズが顔を上げた。
「そうだな。何かしなきゃ、どうにもなんねえ。やってみようぜ」
カズは強い口調でミチルとヒロに声をかけた。
「けど、健ちゃんが逃げたのがわかったら、残った僕たちも危ないんじゃないかな」
ミチルが眉尻を下げる。
「オレが叩きのめしてやるよ。チビだけど、喧嘩は強えんだ」
カズは手のひらに拳を打った。パチンという音が室内に響く。
「私も……やってみる」
ヒロは小さな子供たちを見て、自分を納得させるように強くうなずいた。
ミチルはうつむいたままだったが、ぼそりと言った。
「僕もやるよ」
「ありがとう、みんな。じゃあ、計画を立てよう」
健太郎たちはその場に座り込み、脱出計画を話し始めた。
(つづく)