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第一章

 

 

 藪野まなぶはあるサークルのオフ会に出ていた。

 会場は新宿にあるカラオケボックスで、二十人が入れる大部屋に十数人の男が集まっている。

 ほとんどが中年男性だ。地味なネルシャツを着ていて顔を上げない男もいれば、ビシッとスリーピースで決めている男もいる。

 二十代くらいの若い男もいる。細身の猫背で、前髪が目に被っていて、顔がよく見えない。青白い顔をしているが、常に半笑いだ。

 誰もが何か歌うわけではなく、隣にいる者と時折ぼそぼそと話すだけ。なんとも暗い会合だった。

 ライダースジャケットを着たサングラスの男が藪野に近づいてきた。

「初めましてですね」

 笑顔を向け、隣に座る。

 藪野はずれた眼鏡を少し指先で押し上げ、首をひょこっと前に出し、礼をした。

「ナルミです」

 男が名乗る。

 もちろん、本名ではなく、ハンドルネームだ。ここでは誰も本名を名乗らない。

「ミツオです」

 藪野は偽名を小声で言った。

「ミツオさん、どなたの招待ですか?」

 笑顔を向ける。が、藪野の正体を探っているのは明らかだ。

「カネミンさんから誘われました」

「ああ、カネミンさんのご紹介ですか。それはそれは」

 ナルミが大きくうなずいて見せる。

 カネミンという人物は、一カ月前に児童ポルノ禁止法違反で公安部が拘束した兼光又彦かねみつまたひこという中年男性だった。

 秘密裏に逮捕した兼光に、公安部は協力を強制した。

 兼光は協力すれば執行猶予、拒否すれば余罪を含めて二十年以上の懲役という条件を突き付けられ、仕方なく応じた。

 兼光は複数の児童ポルノサイトを利用していた。行方不明の山咲保とも面識があり、この界隈では名の知れた人物だった。

 公安部は兼光に、山咲保が最も関わっていそうなサイトに公安部の人間を潜り込ませる手配をするよう要求した。

 兼光は公安部にこの〈つぼみクラブ〉を紹介した。

 もちろん、つぼみクラブのサイトは、紹介された者しかたどり着けず、偶然たどり着いたとしても中へ入ることはできない。

 つぼみクラブのウェブサイトのトップは、何もないブルーの画面だった。

 知らない者がたどり着いても、ただのブルースクリーンとしか思わないだろう。

 先へ進むには、そこからURLに直接アドレスを付けたし、ログイン画面を表示させ、さらに二重のパスワードを入力しなければならない。

 その付けたしアドレスもパスワードも二週間に一度変更され、時にはサーバーも変えられるので、追跡は厄介だった。

 今、カラオケボックスに集っている者たちは、そのハードルを越えてきた会員たちだった。

 会員同士はお互いの名前も年齢も住んでいるところも知らない。しかし、入会するには個人情報の提示を求められるので、運営側はどこの誰かは把握している。

 兼光も、ここの運営者の名前は知らず、会ったこともないという。

「今日、カネミンさんは?」

 ナルミが訊いた。

「あ、ええ。一緒に来る予定だったんですけど、なんか仕事が忙しいとかで」

「カネミンさんとはプライベートでも親しいんですか?」

 ナルミは笑顔で次々と質問を浴びせてくる。

「親しいというか……。時々、カネミンさんと飲みに行って、コレクションを見せてもらっていた程度ですけど」

 藪野は目を合わせず、ぼそぼそと話す。

「どんなコレクションですか?」

 ナルミが訊く。

「私はその……腰回りと鼠径部のフェチでして。ブルマとかパンツの画像を見せてもらってました」

 藪野は答えながら、吐き気がした。今すぐにでも帰りたかったが、潜り込むためには仕方がない。

「なるほど。カネミンさんはフェチ画像もたくさん持ってますもんね。裸とか、そのものに興味はないんですか?」

 ナルミが笑顔で訊く。

 ナルミとここに集まっている連中を殴りたい怒りを抑え、返答した。

「あまり直接的なものは興味がないんです。私はそのお……想像して楽しむタイプでして……」

 そう答えながら、口辺にうっすらと笑みを滲ませた。

 ナルミはその表情を見て、にやりとした。

「いや、素晴らしい。あなたもなかなかの本物ですね」

 ナルミが言う。

 この仕草は、兼光から聞いたことをそのまま実践しただけだ。

 愛好者たちは、自分が好きな映像や画像を見たり、そういう話をしたりすると、薄気味悪い笑みを浮かべるそうだ。逆に、自分に興味のない話や画像などには一切反応しない。

 確かに、藪野が会合に参加して周りを見ていると、そうした傾向が窺えた。

「今日は仲間と存分に交流してください」

 ナルミは言うと立ち上がって、また別の参加者に話しかけた。

 ほとんどの参加者は、うつむいて自分のスマホをいじっている者たちばかりだが、中には隣り合う者と話して、画像を見せあっている者もいる。

 藪野はスマホで画像を見るふりをしつつ、うつむいた。参加者の顔を撮りたいが、室内の状況を把握できていないので、リスクは避けた。

 どうしたものかと思案していると、またナルミが近づいてきた。

「ミツオさん、よろしいですか?」

 声をかけられ、顔を上げる。

 薄毛で小柄な中年男性がナルミの横に立っていた。

「ヨミさんです。ミツオさんと同じく、腰回りフェチの方なんで、話が合うかと思って。よろしければ」

 ナルミが言う。ヨミがぺこっと頭を下げる。藪野も会釈した。

 ヨミはナルミに促され、藪野の隣に座った。ナルミはそれを見て、藪野の前から離れた。

 ヨミは猫背で藪野の方を見ずに座っていたが、ぼそりと口を開いた。

「ミツオさんは、いくつぐらいの子が好きなんですか?」

 しゃがれた気持ち悪い声だ。

「私は……十二歳くらいです」

「そうですか。僕は五歳から六歳です。そのくらいの子のまったりとしたおなかのあたりがとてもかわいくて」

 ヨミはうつむいたままにやにやしていた。

 藪野はその場で殺してやりたいという怒りを呑み込んだ。

 

 

第二章

 

 

 

 瀧川はJR東中野駅を降りた。山手通りを横断し、東中野銀座通りを進む。

 林田健太郎の暮らしているアパートに向かっていた。

 健太郎の調査は公安部の瀧川として行なうが、家では通常の少年課業務だと話している。

 一応、今回は潜入はなく、ただ単に林田健太郎の調査を行なえばいいという予定となっている。なので、一通り、その日の調べを終えれば帰宅可能だった。

 とはいえ、公安部の仕事である以上、いつどのように状況や命令が変わるかはわからない。

 潜入を命じられた際は、健太郎の件を別の部員に引き継いで、少年課に戻るつもりだった。

 商店街を抜け、早稲田通りを渡ると、上高田一帯となる。このあたりは寺が多く、墓地もある。

 墓地の壁沿いを進むと、林田母子が暮らすアパートが見えてきた。

 建物に囲まれて少し薄暗い場所だ。アパートの壁には雨染みが這い、塗装もくすんでかびているように見える。窓枠も錆びていて、今にも朽ち果てそうだ。

 敷地に入り、壁際にある二階への階段を見上げる。遙香が言っていた通り、錆びついていて、崩れそうな階段だ。足をかける。ぎしっ……と軋み、階段が揺れた。

 壁に手をついて、そろそろと上がる。狭い廊下を奥へ進む。一番奥の部屋が林田健太郎の家だった。

 木目のシートを張ったドアをノックする。軽く叩くだけで、ドアが揺れる。

「林田さん、いらっしゃいますか?」

 声をかけるが、返事はない。

 もう一度ノックして呼びかけるが、やはり返事はなく、物音はしない。

 ドアノブに手をかけ、回してみる。ドアは開いていた。

「林田さーん」

 声をかけながら、ドアを開く。

 隙間からは強烈な臭いが漂ってきた。酒の臭いに混じって、ゴミの腐敗臭もする。

「入りますよ」

 瀧川は狭い玄関に入った。入ってすぐにキッチンがあったが、洗い場にはカップ麺や皿が積み上げられていて、コバエも飛んでいる。冷蔵庫前まではゴミだらけで、足の踏み場もない。

 キッチンの正面にガラスの引き戸があり、右側に扉が二つ並んでいる。

 瀧川は靴脱ぎ場を見た。健太郎のものと思われるスニーカーがある。色は多少くすんではいるが、きれいに洗われていた。端っこにはスパイク入れもあった。

 スニーカー横には、甲バンドがちぎれそうなボロボロのサンダルが無造作に置かれていた。

 靴を脱いで部屋に上がる。キッチンの床は重みで軋む。まずは右手前の扉を開けてみた。トイレだった。便器は茶色く汚れていて、ツンとしたアンモニアの臭いが鼻を突いた。

 続いて、右奥の扉を開けてみた。三畳ほどの和室だが、ここはきれいだった。小さなテーブルの横にカラーボックスがあり、教科書が並べられている。

 部屋の端にはきれいに折り畳まれた布団がある。もう一つのカラーボックスには畳んだ衣服が丁寧に詰められていて、窓枠には制服がかかっていた。

 健太郎の部屋なのだろう。清潔感があって頭もよく、スポーツもできるイケメンと遙香は言っていたが、その様が想像できる部屋だった。

 瀧川は部屋を出て、キッチン正面のガラス戸を開くと六畳ほどの洋間で、布団の上に人がいた。うつぶせになっている。

 布団の周りには空き瓶や空き缶が転がっていた。

「大丈夫ですか!」

 ゴミを足で払い、布団脇に駆け寄って屈んだ。

 顔には長い髪の毛がかぶさっている。キャミソールの肩紐は垂れ、上半身から半分ずり落ちている。スカート部分はめくれて下着があらわになっていた。

「林田さん!」

 大きい声で呼びかける。

 と、呻く声が聞こえた。

「よかった。大丈夫ですか!」

 背中に手を触れた。

「うるさいねえ!」

 女性は仰向けに転がり、乱暴に瀧川の手を振り払った。気だるそうに上体を起こす。顔に被った長い前髪を手で掻き上げ、後ろに流した。

「あんた、誰だい?」

 女性は充血した目で瀧川を睨んだ。

「警視庁少年課の瀧川と申します」

 身分証を示す。

 女性はさらに瀧川を睨みつけた。

「警察に用はないよ。帰りな!」

 手元にあった空き缶を投げつけた。

 瀧川はひょいっと避けた。空き缶が壁に当たり、ゴミの山に落ちる。

 瀧川は穏やかな表情を作り、優しく話しかけた。

「林田健太郎君のお母さんですね?」

 問いかけるが答えない。

「健太郎君の消息がわからなくなっていると、学校と児童相談所から連絡がありまして。健太郎君はどちらに?」

 瀧川は訊いた。

「知らないね」

「こちらにも帰っていないんですか?」

「知らないと言ってるだろ。そもそも誰だい、林田健太郎ってのは。そんな子供は知らないし、うちの子でもない。私に子供なんていないんだよ!」

 支離滅裂なことを口走る。

 しかし、先ほどまで瀧川を睨みつけていた女性は、健太郎の話になると顔を背け、瀧川を見ようともしなかった。

「和室に中学校の教科書や制服がありました。あれはどなたのですか?」

 瀧川は質問を続けた。

「知らないったら、知らないんだよ!」

 女性は空き瓶をつかんで、振り上げた。

 瀧川はその右腕をつかんだ。痩せこけて、骨と皮だけのような細い腕だった。とっさに皮膚を見る。自傷した時のためらい傷はなかった。

「これはさすがにいけません」

 女性の手から空き瓶を取り、脇に置いた。

「実は、私の友人の娘さんが聖稜中学の生徒さんでして」

 万が一のことも考え、遙香を“友人の娘”と称した。

「学校では、D組の林田健太郎君がいなくなったと大騒ぎになっているそうです」

 女性はそっぽを向いて黙っているが、瀧川は話を続けた。

「健太郎君は聡明でスポーツも万能で他校にファンクラブができるほどの人気者だったと聞いています。そんな学校のスーパースターが行方不明となれば、騒ぎはますます大きくなるでしょう。放っておけば、ネットであらぬ噂を流されるかもしれません。それは健太郎君の将来にとっても不都合ではないかと思うのですが」

 女性は口を開かない。

 さらに瀧川は続けた。

「それと、一つお伺いしたいことがありまして。林田健太郎君の家庭の状況を調べさせてもらいました。お母さん、林田佐夜子さよこさんは、スーパーの荷出しと清掃員を掛け持ちしていたそうですが、その後、体を壊して退職しています。しかし、生活保護を申請している形跡がありません。どのように家計を支えていたんでしょうか?」

 金の話を切り出すと、女性の方がびくっと揺れた。

「聖稜中学は私立で、学費も安くないですよね。特待生で入ったと聞いていますので、学費は免除になっているかもしれませんが、部活動の費用はかかるでしょう。ユニフォームやスパイクの代金、遠征費も必要です。結構な金額になると思いますが」

 話していると、女性は背を丸めて震えだした。呼吸も短く、荒い。

「大丈夫ですか?」

 瀧川が背中に手を当てようとした。

 女性はその手を弾いて、転がった酒瓶を取った。咥えて、瓶を傾ける。

 わずかに残っていた酒の滴を啜る。

 見ていられなかった。

「お母さん、病院へ行きましょう」

 瀧川は言った。

「ほっといてくれ」

 女性は声を絞り出した。

「このままじゃ、死んでしまいます。病院へ行って、ひとまず体調を整えましょう」

「死んだっていいんだよ!」

 女性は怒鳴った。感情の起伏が激しい。

「私なんて死んだほうがいいんだ。生きてる価値はないんだよ!」

 転がった酒瓶や空き缶を手あたり次第取り、口に当てて傾ける。

「放ってはおけません」

 瀧川は立ち上がって、キッチンに出た。

 スマホを出して、日埜原に連絡を入れる。

「瀧川です。女性一名、保護願います。はい、林田健太郎君の母親です」

 話していると、ガラスの砕ける音がした。

 振り返る。

 女性は空き瓶を叩き割っていた。尖端を首に突き立てる。

 瀧川は急いで戻り、女性に手を伸ばした。

 しかし、それより先に女性は自分の喉を突き刺した。

 片膝をついて、すぐに女性の手から瓶をもぎ取り、投げ捨てた。刺し傷から血があふれ出ている。

「女性が自殺を図りました! 救急車を!」

 瀧川は右手で女性の傷口を押さえ、電話に向けて声を張った。

 

 

(つづく)