最初から読む

 

第一章

 

 

 

 瀧川達たきがわたつはジーンズとラガーシャツを着て、ショルダーバッグを斜めがけにしてスニーカーというラフな格好で新宿を歩いていた。

 隣を歩いているスーツを着た男は北島きたじまという刑事だ。歳は瀧川より一つ上。警視庁生活安全部少年課の先輩にあたる。

 二人は飲み歩いている中年男性を気取りつつ、周りに目を配っていた。

「ほんと、ガキどもが多いなあ」

 北島は乱暴に吐き出した。

 季節は三月半ば。進路も決まって、新しい場所へ旅立つまでのわずかな休日を楽しんでいる若者たちが街にあふれ返っている。

 その中には、高校生や中学生と思われる少年少女もいた。

 東京都青少年の健全な育成に関する条例では、十八歳未満の青少年は午後十一時から翌午前四時までの外出や徘徊は制限されている。

 また、青少年をその時間帯に連れ出したり、カラオケボックスや漫画喫茶、ネットカフェなどに立ち寄らせたりした場合、三十万円以下の罰金に処せられる。

 という条例はあるものの、浮かれる若者にはそんなものは関係ない。

 大人を気取って、危険も顧みず、夜の街を闊歩している青少年をところどころで見かける。

 瀧川は腕時計を見た。

「そろそろ午後十一時ですね」

「だな。声をかけてやるか」

 北島は路肩のブロックに腰かけている男女三人組に近づいた。

「こんばんは」

 笑顔を向ける。しかし、北島はブルドッグのような顔つきで人相はあまりよくない。また、刑事部捜査一課上がりなので、目つきも鋭い。

 スウェットやジャージ姿の若者三人組は、あからさまに嫌悪感をあらわにして、北島を睨みつけた。

「君たち、いくつかな?」

 北島は笑顔を作った。しかし、目が笑っていなくて少々怖い。

「おっさん、女買いてえなら他に行けよ」

 金髪に緑メッシュを入れたショートカットのジャージの女の子が北島を睨んだ。

「怖いねえ、女を買うだなんて。そういうわけじゃないんだよ」

 北島は上着の内ポケットに手を入れた。身分証を取り出して、はらりと開く。

「警察な」

 にやりとする。

 三人の表情が強ばった。

 瀧川は少し後ろで、三人の様子を俯瞰していた。

 と、男の子が動いた。向かって右側に走り出す。瀧川は素早く動いた。男の子は十メートルほど走ったところで瀧川に腕をつかまれた。

「逃げるのはよくないなあ」

 瀧川は優しく言う。

 男の子は腕を振って振り払おうとする。瀧川はつかんだ右腕を持って男の子の背後に回り、腕をねじ上げ、スウェットの腰部分をつかんだ。

 男の子はもがくが、思うように動けない。

 北島を見た。

 北島はショートカットの女の子を捕らえていた。しかし、もう一人の女の子はその場からいなくなっていた。

 北島は女の子の左手首に手錠をかけた。もう一つの輪をガードレールの一番上にかける。

有村ありむら! こいつをよろしく!」

 結婚して変わったばかりの瀧川の苗字を呼ぶと、逃げた女の子を追った。

「逮捕はねえだろうが!」

 男の子が乱暴に怒鳴った。

「あれはやりすぎだけどな」

 瀧川は苦笑した。

「おまえらが逃げるから悪い」

 そう言い、ポケットからスマホを出した。所轄署に連絡を入れる。

「……もしもし、本庁少年課の有村です。少年少女二名を補導しましたので、応援よろしくお願いします」

 手短に言って、位置情報を送った。

 少年を少女の下に連れて行く。少女の横に座らせた。

「外せよ!」

 少女は瀧川を睨んで、手錠をガチャガチャと鳴らした。

「こらこら、あまり暴れるな。傷になるぞ」

 そう言って、少女の手首を見る。

 ふっと瀧川の顔が曇った。

 少女の手首から肘裏にかけて、無数の切り傷の痕がある。盛り上がった一筋の肉の上に、新たなかさぶたができているところもある。

 頻繁に自傷行為を行なっているのだろうと察する。

 深夜に徘徊している青少年の中には、自傷行為を繰り返す者も少なくない。

 少年課の警察官として深夜の補導に出ると、何人と言わず、こうした自傷の痕がある少年少女に出会う。

 自傷は、自分を傷つけることで、怒りや憤りといった精神的苦痛を和らげようとする行為だ。本当に死のうとは思っていないものの、エスカレートすると致命傷になって命を落とすこともある。

 また、統合失調症やうつ病など、精神疾患を抱えていることもあり、補導した後に病院や児童相談所につなぐこともある。

「君たち、いくつだ? 見たところ、十四、五といったところだが。中学生だろう?」

 瀧川が訊くが、二人ともそっぽを向いて答えない。

「君たちの心の中に何かあるから、こうして友達のいるところに夜な夜な出かけてきて、時を過ごしているんだろうと思うが、夜の街は危険なことも多い。深刻な事態になれば、取り返しがつかない。だから──」

「家に帰れってのか?」

 少女が瀧川を睨みつけた。

「てめえ、うちの親がどれほどクソか知らねえだろ。私にとっちゃ、ここより家の方が危ねえんだよ。家に帰れってのは、私にとっちゃ、死ねってのと同じことなんだよ!」

 そう吐き捨てる。

 少年が瀧川を睨んだ。

「サツは何もわかっちゃいねえ。オレたちがどんな地獄で生きてるかなんてな。てめえら、恵まれた人間だから」

 そう言い、足元に唾を吐いた。

「そうかもしれないな。今の君たちの気持ちは理解できないのかもしれない。時代も違うしな」

 瀧川は微笑んだ。

「ちなみにな。僕は中学生の時に父を亡くして、高校二年の時に母を亡くした。父親はサラ金で借金してしまっていてね。母と共に苦労したよ。連中の取り立てはそれこそ地獄だからさ。母親が死んだあとは、夜の街でバイトをしながら昼間の高校を卒業した。途中、ちょっとした暴力沙汰を起こしてしまったんだが、当時、よく目をかけてくれていた警察官が助けてくれてね。その時、警察官になれば、困った人たちを助けられるんじゃないかと感じて、採用試験を受けた」

 突然、自分の身上を語りだした瀧川に、二人はしらっとしていた。

 しかし、よそを向いて黙っているものの、話を聞いているのは瀧川にもわかった。

 瀧川は続けた。

「夜の街でバイトをしている時には、まあ、いろいろと誘いが来たよ。ヤクザから盃がどうだとか、サラ金の取り立てをしないかとか。クスリ売るの手伝わないかとも誘われたよ。まあ、連中は弱ったヤツを見ると、容赦なく手駒にしようとするからな」

 瀧川は当時を思い出すように遠くを見た。

「それでも、そうした誘いには一切乗らなかった。なぜかわかるか?」

 二人に目を向ける。二人は目を合わさない。

「道を閉ざすことになるからだ」

 言うと、二人は瀧川に顔を向けた。

「どんな絶望の淵にあっても、日の当たる場所に出られる道だけは閉ざしちゃいけない。一度闇に飲み込まれれば、そこから這い上がるのは至難の業だ。僕の場合もそうだったが、つらい境遇に置かれたのは自分のせいじゃない。親が商売に失敗し、サラ金で金を借りていたから、父親が死んだあと、苦労することになった。理不尽だが、そこは仕方がない。ただ、自分のことは自分でコントロールできる。闇に落ちなければ、必ず、浮上するチャンスはあると信じてきた。取り立てに誘ってきた先輩を殴った時には終わったと思ったけどな」

 そう言って笑う。

「ともかくだ。君たちが今、こうして夜な夜な徘徊しなきゃならない精神状況に追い込まれているのは、君たちのせいじゃない。だが、夜の街をうろついていて、闇に囚われるのは君たち自身の責任になる。二人とも──」

 瀧川は少年と少女の肩に手を置いた。

「自分の可能性を潰すな」

 グッと肩を握る。

 二人はじっとしていたが、警察官の姿を見ると、体を振って、手を振り払った。

 瀧川は男女二人の警察官に敬礼した。警察官が返す。

「その二人ですか?」

「はい。要保護お願いします」

 言うと、女性警察官が女の子を見て言った。

「しのぶちゃんじゃない。また、補導されたの?」

 少女の肩に手をかける。少女はその手を振り払った。

「触んじゃねえよ!」

 乱暴に怒鳴り、女性警察官を睨んだ。

 と、北島が息を切らせて戻ってきた。

「いやあ、逃げられた。もうちょっと俺も足腰鍛えなきゃならんな」

 立ち止まって両膝に手をつき、肩で息を継いだ。少年と少女に目を向ける。

「とりあえず、おまえらは確保な」

「外せよ、おっさん!」

 少女はガチャガチャと手錠を鳴らした。

「おー、すまんな」

 北島はポケットから手錠の鍵を取り出して、外した。

 少女は北島を睨みつけながら、手首を握って、回した。

「まあ、おまえら。本当に手錠をかけられるような真似はするんじゃねえぞ」

 北島が言う。

 二人は北島を思いっきり睨み、警察官に連れられて行った。

「ほんと、ガキどもは腹が立つな。いっぺん、ムショに放り込んでやろうか」

「それより、居場所を作ってあげる方が大事ですよ」

 瀧川がやんわりと諭す。

「そんな甘えたことのたまってるから、ガキどもがつけあがるんだ」

 北島は少年たちの背中を見据えた。

 瀧川は苦笑した。

 北島とは何度か夜回りをしたことがある。仕事に真摯で口は悪いが、青少年を的確に補導し、仕事はそつなくこなす。

 悪い人だとは思わないが、時々、少年少女に対して、本気とも冗談ともつかないきつい言葉を吐きかける。

 正直、つかめない人だった。

「さっさと回って、帰るぞ」

 息が整った北島は、繁華街に向けて歩きだした。

 瀧川は北島の背を見つめ、後に続いた。

 

 

 夜勤を終えて報告書を書き、午前九時過ぎに家に戻った。

 有村家は相変わらず、東京・三鷹の中華食堂〈ミスターちん〉の二階で暮らしている。

 はるが私立中学に入学し、大きくなるほどに何かと物が増える。瀧川はあやと遙香に、それとなく引っ越しを考えてみるよう伝えてみた。

 だが、二人の答えはノーだった。

 部屋の中は整理整頓すれば、なんとでもなる。それよりも、瀧川が夜勤や二十四時間勤務でいない時、ごう夫妻がいてくれると安心できる。

 特に、自分も働いている綾子は、遙香が安心して帰れる場所を望んでいた。

 答えはわかっていたが、二人の意見を聞いて改めて思う。

 小郷夫妻も含めて“家族”なんだと。

「ただいま」

 瀧川は店の引き戸を開けた。小郷やすの姿はなかった。買い物に行っているようだ。てつは厨房で黙々と仕込みをしていた。

「おかえり、お父さん!」

 店の奥から声をかけてきたのは、遙香だった。

「あれ? 今日は学校なんじゃ」

「行かなくてよくなったんだ」

 遙香が言う。

 二年生になった遙香はまだ春休みだが、今日は新入生歓迎会の準備で学校へ行かなければならないと、昨日は話していた。

「準備は間に合うのか?」

 話しながら、奥のテーブルに行き、対面に腰を下ろす。

「うん。今年の新三年生は優秀な人が多いから、任せておけばいいんだって。まあでも、それは建前で、本当のところは自分たちだけでやりたいって感じ。新三年生はなんか、押しの強い人ばっかだから」

 遙香が口をへの字に曲げ、首を傾ける。

 瀧川はその小生意気な表情を見て笑った。

 遙香は父親も知らない。綾子に連れられ、ひとり親ということもあって、いろいろと嫌な思いもしてきただろうに、のびのび素直に育っていることをうれしく思う。

 明け方まで、傷を抱えて闇に溺れそうになっている青少年を見ていただけに、遙香が眩しく映った。

「遊びに行かないのか?」

「午後から、友達と原宿に行く予定。それまでにちょっと勉強しとかないと。高校進学要件に英検三級取得とあるから、二年のうちに取っとこうと思ってさ」

「すごいな。僕は英語はさっぱりわからない」

 苦笑する。

 近頃は、私立公立にかかわらず、どの学校も英語の学習には力を入れている。

 国際的に活躍できる人材を育成するというビジョンを掲げている遙香の通う私立中学では、一部、英語のみでの授業もあるようだ。

 瀧川たちが学んでいた時の学校の様子とはまるで違うが、より実践的な学習をするというのはいいことだと思う。

 かたや、やはり、夜の街で出会う少年少女たちのことが、ふっと脳裏によぎる。

 彼らの中には、そうした教育についていけず、ドロップアウトした者も多い。

 昔もそういう若者はいたが、社会にそれなりの受け皿があった。手先の器用な者なら職人になったり、自分の得意分野に合わせた短大や専門学校に通い、その道一本で進んだりできた。今思い返してみると、社会に出てからの選択肢は現在よりも多種多様だった気がする。

 今は、できる者の選択肢は幅広く用意されているが、落ちこぼれた者への門戸は狭い。

 所在なげに街をふらふらしている青少年の思いはわからなくもない。

「学校はどうだ?」

「楽しいよ」

「なんか、友達と揉めていたり、クラスに問題があったりなんてことはないのか?」

「うちのクラスや友達は大丈夫。あ、でも、D組はちょっとした騒ぎになってる」

「何かあったのか?」

 瀧川が心配になって訊ねた。

「私たちには関係ないんだけど、サッカー部のけんろう君が突然いなくなったんだ」

「健太郎君?」

 思わず、訊き返す。

「うちの学校、学業推薦の他に運動系の指定クラブの特待生もいるんだよ。健太郎君は、サッカーの特待生で入学してきたんだけど、あまりいい噂は聞かなかったんだよね」

「乱暴者だったのか?」

「いやいや、健太郎君は問題ないの。背が高いし、頭もいいし、優しいし、サッカーはとびきりうまいし、他校にファンクラブまでできるくらいのスーパーイケメンだから。でも、家にはかなり問題があったみたい」

「どんな問題が?」

「聞いた話なんだけどね。健太郎君のお父さんは早くに亡くなったみたいで、お母さんと二人で暮らしていたそうなんだけど、そのお母さんがアル中なんだって」

 遙香から“アル中”という似つかわしくない言葉が飛び出して、ぎくっとする。

 もう十四歳。そういう言葉を知っていてもおかしくないんだが、娘の思わぬ成長を不意に知ると、どぎまぎした。

「お母さんに何かあったのかな」

「わからない。けど、十日前くらいから全然学校にも部活にも顔を出さなくなったみたいだし、部員の人が訪ねていっても、家からは誰も出てこなかったんだって」

「それは、心配だね。健太郎君、フルネームは?」

はやし健太郎」

「住所はわかる?」

「何、お父さん。調べるの?」

「仕事の合間に、ちょっと見てこようかなと思ってさ」

 瀧川が言うと、遙香はため息をついた。

「やめてよー。そりゃあ、健太郎君は心配だけどさ。お父さんがうろちょろすると、事件が起こってるみたいで嫌だ」

「見てくるだけだよ。余計なことを訊いたり、細かく調べたりしないから。遙香も気になるだろう?」

「それはねー」

 遙香はもう一度ため息をついて、ノートを一ページ破った。スマホを出して、何かを確認している。

「住所、登録してるのか?」

「ううん。けど、ファンの子から、プレゼント届けてほしいって言われて、住所を聞いたことがあるから行ったの」

 そう言い、目的のトーク画面を見つけ出して、さらさらと住所を書き込んだ。

 東京都中野区上高田と記されている。

「はい」

 メモを差し出す。

「どんなところだった?」

 瀧川はメモを受け取りながら訊いた。

「古いアパートの二階の奥。階段を上がるとギシギシ軋むようなところ。いつも清潔感たっぷりでキラキラしてる健太郎君からは想像できない家だったから、ちょっとびっくりした」

「そうか。まあ、迷惑にならないように見てくるよ」

 話していると、あくびが出た。

 遙香がくすっと笑う。

「お父さん、徹夜でしょ。もう寝たら?」

「そうだな。原宿、気を付けて行って来いよ」

「はーい」

 遙香が返事をする。

 瀧川は立ち上がった。

 と、引き戸が開いた。郵便配達員が顔を出した。

「すみません。速達なんですが、こちらに瀧川さんという方はいらっしゃいますか?」

「僕ですが」

「あれ、有村さんじゃ……」

「僕の旧姓なんですよ」

 苦笑して歩み寄る。

「ああ、そうですか。では」

 配達員は速達を渡して、戸を閉めた。

 角形二号の茶封筒だ。少し厚みがある。触った感じ、薄いファイルが入っているように感じる。

 瀧川は裏を返して、差出人を見た。数字のゼロが書かれていた。

 瀧川の目が一瞬、鋭くなる。

「お父さん、誰から?」

 遙香が訊いてきた。

 瀧川は笑顔を作り、振り返った。

「昔の友達からだ。名前が変わったことを知らせてなかったから、旧姓で来たみたいだな。じゃあ、寝るよ」

 笑顔で言い、二階へ上がる。途中、瀧川の顔から笑みが消えた。

 瀧川は自室に入って引き戸を閉めた。

 さっそく、封筒を開けてみる。中にはやはり、ファイルが入っていた。開いてみた。

 ミッシングリストというタイトルが記されている。

 めくってみる。

 行方不明者の顔と名前、特徴などが記された紙が収められている。

 最後の方をめくったとき、瀧川は思わず手を止めた。

 不明者とされていたのは、先ほど話していた林田健太郎だった。

 

 

(つづく)