第四章
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白瀬が健太郎をキノコの里の地下に送り届けた同時刻、藪野はヨミからの急な呼び出しを受け、指定された新宿歌舞伎町にあるカラオケボックスに赴いた。
場所は前回と同じところだったが、あまりに突然だったので多少警戒し、店へ入る前に少し周辺を歩いて気配を探った。
元々怪しげな人間の多い街だが、藪野に的を絞っている視線はない。
店内に入っても警戒は緩めなかった。オタクの設定なので、うつむいておどおどと歩いていても違和感はない。
階段を上がって、指定された三階の三〇五号室へ向かう。三階フロアでも気配を探るが、違和感はなかった。
三〇五号室のドアの前に立ち、ガラス窓から中を覗いてみる。
ヨミがノートパソコンを操作している姿が見えた。右奥はカラオケの機械が盾となり、死角ができているものの、特段、これまでとの違いは感じない。
藪野は深呼吸を一つして、ドアをノックした。ヨミが顔を上げた。ガラス越しに藪野を認め、笑みを見せる。
藪野も笑みを返し、ドアを開けた。
「ヨミさん、どうしたんですか、急に」
一歩踏み込んだ時、右側に気配を感じた。顔を向ける。
ライダースジャケットを着たサングラスの男がいる。
つぼみクラブの主催者、ナルミだった。
「あ、どうも……」
藪野はぼそりとつぶやいて頭を下げた。顔を伏せたまま、神経を尖らせる。
「すみません、ミツオさん。遅くに来ていただいて」
ナルミが言う。
「いえ、時間は大丈夫なんですけど……」
ちらりとヨミを見る。
「あ、ごめん……。その……」
ヨミは動揺したように落ち着きなく黒目を泳がせた。
「ミツオさん。あなたを呼んでもらいたいと言ったのは私なんですよ」
ナルミが言う。
「なぜ、ナルミさんが?」
「ミツオさんが精力的に活動していると聞きました。一度、じっくりお話ししたいと思いまして。しかし、私がいきなり呼び出しては、ミツオさんも訝って来てくれないかもしれない。なので、ミツオさんと唯一懇意にしているヨミさんに協力していただいたんです。なんだか騙し討ちのような形になったことは申し訳ない」
ナルミは両腿に手を置いて、頭を下げた。
「いえ、そんな……」
藪野はあたふたして見せた。
「戸惑わせてしまったのなら、またの機会にしますが」
ナルミが腰を浮かせようとした。
「いえ、ちょっと驚いただけで。大丈夫ですから」
藪野は言い、ヨミの右横に座った。ヨミはL字型ソファーの真ん中に動き、二人に挟まれる格好となった。
「飲み物は何がいいですか?」
ナルミが訊く。
「いえ、お気遣いなく……」
「カラオケボックスですから、何か頼まないと」
ナルミは立ち上がり、ドア横の内線電話の受話器を取った。
「じゃあ、コーラで」
「わかりました。ヨミさんもコーラですか?」
「はい」
小声でうなずく。
「じゃあ、ドリンクバーを頼んでおきましょう」
ナルミは言い、ドリンクバー三つ、生ビールを一つ、フライドポテトとチキンナゲット、ピザと乾き物を頼んで受話器を置いた。
「ヨミさん、すみません。ちょっと、ミツオさんと話したいんで、お二人のコーラとウーロン茶を一つ取ってきてもらえませんか?」
「あ、はい」
ヨミはノートパソコンを閉じ、立ち上がった。藪野は不安げな顔でヨミを見上げた。ヨミは藪野の視線を避け、足早に部屋から出ていった。
ナルミは座っていた場所に戻り、藪野を見つめてきた。藪野はうつむいて背を丸め、小さくなった。
「ミツオさん」
「はい」
少しびくっとし、小声で返事をする。顔は上げない。
「先日、うちのメンバーから集めた画像をヨミさんにもらったそうですね」
「すみません。ルール違反なら、すぐに返すか、消去するか……」
「いえいえ、その必要はありません。ヨミさんに見せてもらいましたが、実に素晴らしい加工をしてらっしゃる。好きという想いがあふれていますね」
ナルミが大仰に褒める。
藪野は照れたように指をいじり、もじもじとした様を見せた。
「ヨミさんから聞いてらっしゃるとは思いますが、当クラブでは撮影会をやってまして。よろしければ、ミツオさんも招待させていただこうかと」
それを聞き、藪野は顔を上げた。
「本当ですか!」
「ええ。ヨミさんの推薦もありますし、カネミンさんの紹介でもあります。信頼はおけると思っています。ただ、いくつか条件があるので、それに同意していただければという話になりますが」
「条件って、なんですか?」
藪野は前のめりになって、訊ねた。
「まず参加料ですが、シークレットな会で少々道を逸脱しますので、五十万円の参加料に加えて、二百万円の保証金をいただいています」
「二百五十万円ですか……」
藪野はうなだれた。
「保証金の二百万円は一カ月間、私どもで預からせていただき、何事もなければお返しします。さらに上のコースもあるんですが、たまごクラブに参加されている方には、あまり負担をかけたくないもので、最低ランクのコースを紹介させていただいています。最低ランクといっても、モデルも設備も確かですから、そのあたりはご安心ください」
「ナルミさんのことは信じていますが、やはり、二百五十万という金額は、僕には難しいかと……」
そう言い、さらにうなだれて見せる。
「ミツオさん、失礼ですが、今お仕事は何をされているんですか?」
いきなり、プライベートなことを訊いてきた。
藪野は少しナルミを睨んだ。たまごクラブには、一切プライベートに干渉しないという規約があるからだ。
「すみません。おっしゃりたくなければかまわないんです。ただ、参加料が工面できないのなら、こちらで仕事を紹介させていただくこともできますので、いかがかと」
「どんな仕事ですか?」
「ミツオさんは運転免許証はお持ちですか?」
「はい、一応……」
「いつ取ったものですか?」
「若い時だから……。もう三十年くらいにはなると思いますけど」
「それなら、大丈夫ですね」
ナルミは一人でうなずいた。顔を上げ、藪野を見やる。
「車を運んでもらいたいんです」
「車、ですか?」
藪野が首を傾げる。
「実は私、本業でカスタムカーを造っているんです。車体に絵を描く痛車を造ることもあれば、内装を高級ホテルのように設えた本格的なラグジュアリーカーを造ることもあります」
「それはすごい!」
「できあがった車は、多くはお客さん自身に店まで取りに来てもらうんですが、遠方の方や事情のある方には届けなければなりません。そこで車両運搬車を使うんですが、運転手が足りません。カスタムカーはデリケートな製品なので、外国人ドライバーには任せたくないですしね。運搬の手伝いをしてもらえませんか?」
ナルミが言った。
本当にナルミがガレージを営んでいるのかはわからない。ただ、本丸に食い込むチャンスではある。
「でも、トラックは運転したことありますけど、自動車を運んだことはありません。あれは大型免許がいるんじゃないんですか?」
藪野が訊いた。ミツオなら、緊張を伴う仕事は敬遠するだろう。演じているキャラクターに言葉を合わせる。
「大丈夫です。うちが使っているのはローダーです。二トントラックをベースにしたもので、荷台に車両を一台しか載せられないものですから、旧免許の準中型要件をクリアしていれば運転できます」
「そうですか。けど、車を運ぶというのは、やったことがないもので……」
ぐずぐずと渋ってみせる。ナルミは内心苛立っているだろうが、ミツオなら即決はしない。
「一回の運送で五十万から百万円を出しますよ」
ナルミはずばりと切り出した。
「そんなに!」
藪野が目を開く。
「ものによってですが、最低でも五回手伝ってもらえれば、撮影会の費用は出ますよ。そのまま続けたければ続けていただいてもいいですし、今の仕事を辞める必要もありません。隙間時間にアルバイトしてくれれば」
「うれしい申し出ですけど……。ちょっと条件良すぎませんか?」
藪野は上目遣いに睨めた。
「もちろん、他のドライバーにそこまでは出しません。当クラブで秘密を共有するミツオさんだからこそ、破格の給金でお誘いしているわけです。ちなみに、ヨミさんにも手伝ってもらっています」
「ヨミさんもやってるんですか!」
話していると、ヨミがドリンクを持って戻ってきた。
ドアが開き、一瞬会話が止まる。
ヨミはコーラの入ったコップを藪野と自分の前に置き、ウーロン茶をナルミの前に置いた。
タイミングよく、店員が頼んだものを持ってくる。テーブルに食べ物が並んだ。ナルミは生ビールのジョッキを持った。
「とりあえず、今日の会合に乾杯」
ナルミがジョッキを突き出す。藪野とヨミはコップを取って、合わせた。
三人が同じように一口飲み物を含んだ。
ナルミはヨミに顔を向けた。
「ヨミさん、今ミツオさんに、車両運搬の件を話していたところです」
「ああ、その話だったんですか」
ヨミが汗ばんだ顔をフェイスタオルで拭いながら笑みを覗かせた。
「ナルミさんから、あらかたの話は聞きましたけど。ヨミさんも車両運搬の手伝いをしているんですか?」
「ええ、時間が空いた時に」
「あの……給料は……」
藪野は恐る恐る訊いた。
ヨミはナルミを見た。
「おっしゃってくださってかまいませんよ」
ナルミが微笑む。
「僕は一回七十万円もらっています」
「七十万ですか!」
目を丸くする。
「ええ。趣味の活動資金と生活費は、ナルミさんのアルバイトで賄っています」
ヨミが話す。
なるほど、そういう余剰資金があったのか。藪野は胸の内でうなずいた。
ヨミこと坂倉公男の年収は三百万円前後。フリーの請負なので、三百万円に届かない時もある。その稼ぎで趣味活動をするのは難しいと思っていたが、隠れて高額アルバイトで稼いでいたというわけだ。
もちろん、ナルミのアルバイト分は申告していない。なのに、問題が表面化していないということは、ナルミから出ている資金もまた裏金ということだ。
完全に裏の仕事だな……。
ヨミがどこまで認知しているかわからないが、蟻の一穴になり得る情報だと確信した。
藪野がうつむいたまま黙っていると、ヨミがさらに畳みかけてきた。
「本当に車を指定場所に運ぶだけの簡単な仕事なんですよ。僕もそんなにもらって大丈夫なのかと思ったんですけど、趣味にはお金がかかりますしね、うん」
ヨミが言う。
藪野はヨミが多少、裏の仕事であると認識しているように感じた。
話の終わりに〝うん〟と自分の話を肯定するのは、自身を納得させたい時に無意識に出てしまう言葉だ。
自分の話、もしくは思いに自信が持てない時、人は自らの話を自身で肯定し、自分を納得させようとする。
ちょっと、つついてみるか──。
「ヨミさんが言うなら、大丈夫だと思うんですけど……。一度、ヨミさんに帯同させてくれませんか? どういう仕事か、見てみたいんですけど」
ちらりとナルミを見る。
「わかりました。ちょうど明日、お願いしたい仕事がありますので、ヨミさんといらしてください。ヨミさん、よろしいですね?」
「はい」
「ミツオさんも」
「わかりました」
「では、待ち合わせは二人で決めてください」
ナルミは言うと、ジョッキのビールを豪快に飲み干して、立ち上がった。
「もう行かれるんですか?」
藪野が見上げる。
「ちょっと行くところがあるんで。ここの代金はこれで」
ナルミはズボンのポケットからマネークリップでまとめた札束を出した。一万円札を五枚抜いて、テーブルに置く。
「いいんですか?」
ヨミがナルミを見た。
「先抜けするお詫びですよ。使ってください。ただし、明日の仕事に支障ない程度で切り上げてください。お願いしますよ」
ナルミは笑顔を見せ、部屋を出た。
二人きりになると、ヨミが頭を下げた。
「ミツオさん、すみません! ナルミさんにどうしてもミツオさんを呼んでほしいと頼まれたもので」
テーブルに頭が付くほど深く腰を折る。
「こちらこそ。ヨミさんのおかげで、シークレット撮影会に参加できそうです」
「本当ですか!」
「はい。ヨミさんが推薦してくれたおかげです。おまけに副業まで紹介していただけるとは。感謝しかありません」
藪野はヨミの右手を両手で強く包んだ。
ヨミが真っ赤になって、照れてうつむく。
藪野は固い握手をしつつ、どう潜り込んでいこうかと思案していた。
(つづく)