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終 章

 

 今年の桜は例年よりも咲き始めが遅かったが、それでも彼が大学の入学式を迎えるころには半分以上が散っていた。木は下のほうの枝から新芽を開かせ、葉の黄緑と、かろうじて残っている花びらの薄ピンクの入り交じった桜の木の下を、スーツを着た大勢の若者がやや緊張した面持ちでとおりすぎていく。彼ら彼女らを出迎えるのは大量のビラだ。新入生を部活やサークルに歓迎するためのチラシが、ほとんど紙吹雪のような勢いでばらまかれていた。

「テニスサークルです。よろしくお願いしまーす」

「ワンゲルでーす。新歓コンパだけの参加も大歓迎でーすっ」

「ジャグリングサークルです。見学だけでもどうですか?」

「サッカーサークルです。一緒に楽しくサッカーをしませんかー?」

 プラカードの陰からチラシがにゅっと出てきて、彼は思わずといった様子でそれを受け取った。サッカーボールのイラストに視線を落とす彼の後頭部は髪の一部が跳ねている。入学式に備えて鏡の前で一時間近く粘り、なんとかなだめたと思っていた寝癖が復活しつつあった。

「あ、もしかして、サッカーの経験者?」

 チラシを渡した在学生の目が光る。彼は慌てたように首を横に振った。

「いや、違います。大丈夫です、大丈夫です」

 なにが大丈夫なのか自分でもわからないまま首をすくめるように何度も会釈し、彼はそそくさとその場を離れた。彼は小学校一年生のときに少年サッカーを始め、中高時代にはサッカー部に入っていた。だが、高校二年生の夏に右膝の靱帯を損傷して以来、一度もボールを蹴っていない。練習に参加できない数ヶ月間は彼にとって、同輩に取り残され、後輩に追い抜かれる日々だった。その苦しみに耐えられず、怪我が治る前に退部を決めたのだった。

「お願いしまーす」

 サッカーサークルの気配が遠のき、もとの歩調に戻った彼の前に新たなチラシが現れた。差し出されるすべてのチラシに対応していては身がもたないことに気づいた彼が断ろうとしたとき、上空から一枚の花びらが降ってきた。縦長のハート型のような花びらはチラシの中央、若草色の袴を着た女性の写真の上に落ち、彼の視線も自然とそこでとまった。

「競技かるたサークルです。百人一首に興味はありませんか?」

 顔を上げると、ボブカットの女性と目が合った。彼の動きが一瞬とまり、それから口が薄く開く。ボブカットの女性は大きな目がやや吊り上がり、くっきりとしていて端整な顔立ちだった。睫毛も長く、下瞼に落ちた影のかすかな震えに、彼は時間の流れがゆっくりになるのを感じた。

「百人一首……」

 彼は心ここにあらずの口調で唱えた。

「そうです。競技かるたは小倉百人一首を使ったスポーツで……あっ、でも、百人一首を一首も覚えてなくても平気です。うちは初心者大大大歓迎ですから。競技かるたのルールを知らなくても問題ないです」

 彼女の表情には焦燥がにじんでいた。どうやら、百人一首や競技かるたに馴染みがないことを理由に新入生から断られ続けているようだ。彼はやっとの思いで睫毛の影から視線を逸らし、つい「競技かるたは知ってます」と応えた。彼女の顔がぱっと明るくなるところを見てみたくなったのだった。

「えっ、本当ですか?」

 彼の狙いどおり、彼女は電気が灯ったかのように顔を輝かせた。

「実は俺、幼稚園の年長から小一までかるたをやっていたので……。かじってたとも呼べない程度なんですけど」

 後半は早口で述べた。かるたを辞めたときの記憶は彼の中で苦いものとして残っていた。

「じゃあ、じゃあ、決まり字もわかりますか?」

「決まり字がなにかはわかります。実際の決まり字は……大半は忘れてるかも。あ、でも」

 彼は〈競技かるたサークル〉と前面に貼り出された長机に目を向けた。そこには取り札の一部が無造作に並んでいた。彼の視線に気づいた彼女がすばやく札を重ねて彼に手渡す。彼は軽く頭を下げてから札をめくり始めた。

「これが〈ゆふ〉で……これは〈やまざ〉で……。これはなんだっけな。あ、嵐の中で竜田揚げを食べる、だから〈あらし〉か」

 彼はいくつかの決まり字を口にしてみせた。ボブカットの彼女が「覚えてるじゃないですか」と破顔する。大きく笑うと目がまさに瞼を閉じた猫のようになり、愛嬌がぐんと増す。彼は彼女の顔を直視できずに目線を下げ、「あと、俺の札があるはずなんですよね」と言って鼻の下を掻いた。

「俺の札?」

「そうです、俺の札。えっと」

 彼は箱の中に残っていた取り札の束を手に取り、ざっと眺めた。数秒後、彼が「これだ」と呟いて引き抜いた一枚には、〈いくよねざめぬすまのせきもり〉の文字が並んでいた。

「〈あはじ〉?」

 不思議そうに小首をかしげた彼女に、彼は下の名前を強調するように自分のフルネームを告げた。「あ、なるほど」と彼女は頷いた。

「でも、決まり字を覚えてるのはこれくらいですかね」

「それだけわかっていれば充分ですよ。ぜひうちの会でかるたをやりませんか? うちはほかの大学に比べて歴史が浅くて会員数も少なくて、でも、最近A級に上がった部員が一人いるから、がんばれば大学選手権に出られそうなんです。ほかの部員はまだ初段か無段なんですけど、今から切磋琢磨してそれぞれが昇段すれば、間に合うかもしれない。だから、今の段階で競技かるたを知っている人が入ってくれたらすごく心強いです」

 今や彼女は彼の手を取らんばかりの勢いだった。身を乗り出して熱く語る彼女の表情がどこか泣きそうにも見えて、彼はとっさに承諾しかけた。しかし、ここで重要なことを思い出した。

「あの……実はうち、母親が競技かるたをやってるんです」

 彼は白状するように声を絞り出した。

「お母さんが?」

「そういうわけで、今更俺がまたかるたを始めるのも気恥ずかしいっていうか、親子でやっていることが同じになるのも、なんか照れくさいっていうか……」

「そんなのは最初だけですよ。えっと、大学には実家から?」

「はい、実家から通ってます」

「そうなんですね。だったら、お母さんと家でも練習できるじゃないですか。お母さんはいつからかるたを? 最近始められたんですか?」

「いや、それこそ俺が小一のときに始めたから……かるた歴はもう十二年とか? うわ、長いな」

「十二?」

 彼女の声が裏返った。「もしかして、段位を持ってます?」

「うちの母は先月A級になりました。だからあの人と練習しても怖いだけですよ」

 彼は拗ねたような口ぶりで答えた。彼の頭には、リュックサックに荷造りする母親の姿が思い浮かんでいた。高校に入学してからというもの、彼が脚の怪我で動けなかった期間と、神奈川に暮らす祖母が脳出血を起こして大騒動だった時期を除き、母親は毎月のように全国各地の大会に出場していた。大会の役員を務めることもあったようだ。母親が家を空けるときには彼と父親で家事を分担するのが、いつの間にか習慣になっていた。また、母親は所属しているのとは別のかるた会の練習にもよく参加していた。家で一人取りをすることも多く、「悪いけど、今から一時間くらい静かにしてほしい」と言われるたび、彼と彼の父親は各電子機器をサイレントモードに切り替えなければならなかった。

「A級選手が家にいる環境なんて最高じゃないですか」

「いやあ、親が張り切ってアドバイスしてくるのは面倒ですよ。絶対にいろいろ言ってくると思うんですよね」

 あの人、かるたが好きすぎるから、と口にしかけて、目の前の彼女も同じである可能性に彼は気づいた。

「そこはもう腹を括ってもらって。ね?」

「正直、俺がかるたサークルに入ったって言った瞬間の母親の表情を想像しただけで……ああっ、身体がむず痒いっ。すっげえ嬉しそうな顔をするんだろうな」

 彼は頭を掻きむしった。もはや入会を決めたと告げているも同然の発言だった。ボブカットの彼女もそれに気づいたらしく、片方の口角を上げ、「そこを乗り越えちゃえば、あとは楽しいことしかないですぜ」とほくそ笑む。そのやや悪ぶった顔も彼の目にはおそろしいほど魅力的に映った。彼女の表情の移ろいは雨上がりの虹よりも、満開の花よりも鮮やかだった。

「……わかりました。入ります、入りますよ」

「やったあ。一緒にがんばろうね」

 差し出された手を、彼はスーツのズボンで汗を拭ってからそっと握った。爪が短く切りそろえられた、薄い手だった。彼女のほうが体温が低いらしくひんやりしていたが、それでも彼は熱いと感じる。彼女の手を離す寸前、彼の胸に小さな不安が生まれた。万が一、かるたを再開した動機が一目惚れだと母親に知れたら、そんな理由で? と呆れられるかもしれない。いや、きっかけなんてなんでもいいんだよ、と訳知り顔で微笑まれても、きっとものすごく恥ずかしいだろう。

 絶対に隠しとおそうと彼は固く心に誓った。

 

(了)