「ママはもう行くからね。リュックは玄関ね。遅刻しないでよー。あと、郁登は家を出る前にトイレに行ってね」
希海は靴を履きながらリビングに向かって声を張り上げた。光のどけき会に入ってから、土曜の朝はさらに慌ただしくなった。希海が家を出る時刻は勇助と郁登より四十分早く、それまでに食器洗いや洗濯、サッカーの用意を済ませなければならない。勇助に持ちものの支度を任せたときもあったが、必ずなにかを忘れるため、結局「ママ、頼む」ということになったのだった。
「わかったわかった」
「トイレでしょう? わかってるってば」
サッカーのスーパープレイの動画をテレビで観ている二人の返事はなおざりだ。希海は小さく息を吐き、爪先を三和土に軽く打ちつけた。近ごろの勇助と郁登は、顔を合わせればサッカーの話ばかりしている。グリーンブルズの監督の影響で、ヨーロッパリーグに贔屓のチームができつつあるようだ。
「いってきまーす」
いってらっしゃい、の声は聞こえなかった。希海はマンションの共用廊下に出るなりダウンコートのファスナーを引き上げた。息が白い。今朝はこの冬一番の冷え込みで、エントランスの植え込みにはうっすら霜が降りていた。希海は〈かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける〉という冬の歌を連想した。決まり字は〈かさ〉。四枚札の〈か〉札の中ではもっとも好きだ。〈かく〉はなぜか身体が反応しにくく、共札である〈かぜそ〉〈かぜを〉はお手つきしやすい。先週の二試合目は〈かさ〉を自陣の右下段に置き、なんとか守ることができた。札が取れるとその歌を好きになる。
競技かるたの上達はある程度までは単純に慣れ、という岡村の言葉は単なる慰めではなかった。希海の決まり字を思い出す速度は徐々に上がり、今回は〈み〉札がない、というようなことも暗記時間内にわかるようになってきた。ただ、これまでに岡村との初戦を含めて六試合を経験したが、まだ一度も勝てていない。それどころか、札を払うこともできずにいた。
教室に四度目に参加した今日も、一試合目に琉宇の姉の花琉と対戦し、十枚差で負けた。二試合目の相手は五十代後半ほどの、髪を緑っぽく染めた森という女性で、彼女には二十枚差と大敗を喫した。森は手の動き自体は速くなかったが、歌が読まれるやいなやその音の札に向かって手を伸ばし、無駄のない軌道で決まり字が確定する瞬間に札を払った。冷静な取りだった。
森の速い動き出しに焦り、希海はお手つきを五回した。競技かるたは出札が含まれていない陣の札に触るとお手つきとなり、ペナルティとして相手から札を一枚送られる。しかも、五回のうち二回は自陣の出札を相手に抜かれ、かつ自分が間違えて敵陣に触れる、「ダブ」と呼ばれる類いのものだった。こうなると、送り札とペナルティぶんの札を合わせた二枚が敵陣からやって来る。一回で三枚の差が広がるかなり手痛いミスと言えた。
「お上手ですね」
試合後、希海が声をかけると森は手と首を大きく横に振った。森は膝の皿を守るようなサポーターを装着しており、それを外しているところだった。
「全然全然。私ね、更年期がひどくて二年近くかるたをお休みしてたの。最近復帰したばかりで、もう全然だめ。身体が錆びついちゃってる。皆川さんは若いから、あっという間に私よりうまくなるよ」
「若くはないですよ」
希海は即座に反論した。先週、希海は四十歳の誕生日を迎えた。今年も勇助からのプレゼントはなく、夜にケーキで祝ってもらった。「ママもついに四十代かあ」という彼のしみじみとした呟きが、今なお心に残っていた。
「私からすれば若いよ。皆川さんは、いつからかるたを?」
「百人一首を覚え始めたのが、一年くらい前ですね」
「順調じゃない。〈あはじ〉の守り、すごく速かった」
「でも、全然払えなくて……」
札の場所を思い出すのに必死で、どうしても押さえ手になってしまう。相手から守れたことに安堵はしても、押さえて取った札には体内でエネルギーが躍動するような快感は覚えなかった。
「もう払い手を意識してるんだ。向上心があってすばらしい。私なんか、かるたを始めて二、三年は札を払えなかったよ」
「向上心なんて立派なものではないんですけど」
希海は試合に使用していた札を重ね、箱に戻した。競技かるたは試合時間が長く、二戦目が終わると十二時半を超えている。公民館に到着した朝には白々としていた日差しは黄色みを帯び、和室を柔らかく照らしていた。
「なんか」
「なんか?」
希海の口からこぼれた音を森が繰り返した。
「なんか、ずっと整えてるじゃないですか、家のこと。牛乳やトイレットペーパーをきらさないように買い足して、散らかった部屋を片づけて、掃除機をかけて、子どもにも物を出したらしまえって怒鳴って。仕事も同じですよね。その場所を整えてお金をもらってる。でも、札を吹っ飛ばす瞬間は、そういうことが頭から消えるんですよね。だから楽しいのかもしれないです」
「お子さん、まだ小さいんだっけ?」
「小一です」
「なら、毎日が戦いだ。かるたのあいだは旦那さんがみてくれてるの?」
「サッカーの習いごとに連れていってくれてます」
「優しいね」
「そうですね。ありがたいとは思ってます」
希海は苦笑まじりに返した。一試合目と二試合目のあいだにスマートフォンをチェックすると、勇助からメッセージが届いていた。〈ママ、ユニフォームの替えが入ってなかったよー!〉とのことだった。
「今さらかるたがうまくならないのはわかってるんですけど、家族を差し置いてここに来てますし、せめて気持ちよく札が取れたらなって思ってます」
「どうしてうまくならないって思うの?」
背後から声がして希海が振り返ると、岡村が立っていた。岡村は自分のあとをついてくる夜空の月を不思議そうに眺める幼子のような目をしていた。今日のTシャツには脚で足し算のプラス記号を作っているカニのイラストと、〈TASHIKANI〉という文字がプリントされていた。そのカニの目にも似ていた。
「だって、私……もう四十で……」
希海は考えがまとまらないまま答えた。
「一年前まで百人一首の歌もほとんど知らなくて……。音の聞きわけもできないし、身体も思いどおりに動いてくれないし……。せめてあと十年早かったら違ったかもしれないですけど……」
「私は四十八でかるたを始めて、五十三でD級になったよ」
そう言ってから森は、「年がばれちゃうなあ」と付け加えて笑った。
「そうそう。森さんは最初は下の娘ちゃんの付き添いで練習会に来てたのに、四年くらいで娘ちゃんがやめちゃって、そのあとに入会したんですよね」
「娘に付き合ってるうちに決まり字は覚えたから、そのままかるたを離れるのがもったいなくてね。最初はそのくらいの軽い気持ちだったんだけど」
「D級って初段ですよね? すごい……」
新人を対象としたF級もあるが、一般的には無段のE級が競技かるたにおけるもっとも下の階級とされている。そこから各級ごとの大会に出場し、入賞することで昇段できるのだ。とはいえ花琉も、先週希海が十枚差で負けた花琉と琉宇の母親の武井奈穂もE級だそうで、無段が断じて弱くなく、なんとか札を覚えた程度でないことは希海も身をもって理解していた。
「私なんて全然。それを言うなら岡村さんはA級選手だよ」
「A級? 岡村さん、A級なんですか?」
「一応ね。A級になるのに十年以上かかってるけど」
「いやいや、C級までが速かったよね。二年だっけ?」
「なに言ってるんですか。三年ですよ。三十八でかるたを始めて、EからDまでが二年、DからCまでが一年。あー、私も年がばれちゃう」
岡村が希海の前にしゃがみ、おどけたように顔をしかめる。その表情を希海は呆然と見返した。前に咲千は、自分はB級までしかいけなかったと言っていた。岡村は咲千の二十は年上に思われたが、咲千よりも強いということか。しかも、かるたを始めた年齢は希海と変わらない。混乱し、自分がなにを考えているのかやはり判然としないまま、「D級……」と希海は呟いた。
「最後までしっかり集中できれば、誰でもD級になれるよ」
岡村が微笑んだ。
「誰でも?」
「誰でも……は、ごめん、語弊があったかも。競技かるたは運の要素も強いから。でも、D級に上がるのに一番大事なのは集中力だよ。才能とか技術のあるなしは関係ないと私は思ってる。もちろん、年齢も」
「私でも……なれますか?」
「なれるよ」
「本当に?」
「なれる」
「D級に……なれる」
頭をぶち抜かれ、大きな穴が空いたような感覚がした。そこを光が、冬の冷たい空気が通り抜けていく。ものごとの理解が早い若い時分に始めるか、聴覚なり暗記力なり体力なり反射神経なり、年齢を超越するなにかの才に恵まれていなければかるたはうまくならないような気がしていた。希海は和室を見回して目をしばたたいた。視界がやけに澄んでいた。
「私も目指してみたい、です、D級」
「うん、目指そう」
「それにはどうしたらいいですか?」
「定位置だね。定位置を作ろう」
岡村は即答した。
「三十枚くらいはだいたいどこに並べるか決まってきたと思うんですけど」
「百枚全部、もっとかっちり決めるんだよ。それに皆川さんは、一字決まりを全部右下段に置くよね。あれ、守りやすいかもしれないけど敵も狙いやすいからよくないよ。できれば左右でわけたほうがいい。もちろん自分の好きに並べればいいんだけど、定位置には一応セオリーみたいなのがあるから、それは知っておこう。前の会長がまとめてくれた定位置の作り方のテキストデータを、あとでメールで送るね。定位置表に記入して練習会に持ってきてくれれば添削するよ。写真を撮ってメールで私に送ってくれてもいいよ」
「わかりました。お願いします」
勢い込んで返したが、希海には自分の声が他人のもののように感じられた。これから競技かるたで初段を目指す? 本当に? 数分前までは気持ちよく札を取ることが目標だった。三週間前は勇助と郁登に恥ずかしくない程度に通えばいいと思っていた。その前は、ただ毎週かるたをやりたかった。それが、D級。急に肥大化した志に戸惑わずにいられない。だが、あるべきところにあるべきものが収まったような落ち着きも同時に感じていた。自分はずっとかるたがうまくなりたかったのだと思った。
やがて小学生四人がやって来て、「あと十分あるから坊主めくりをやってもいいですか?」と岡村に尋ねた。「えー、私も入れてよー」と岡村は立ち上がった。
(つづく)