現実から浮遊しているような感覚はバスの中でようやく治まった。希海は座席に腰を下ろすと、〈実は最近、光のどけき会に入りました。ここでかるたをがんばってみるね〉と咲千にメッセージを送った。伝えなければと思っていたが、半年も保たないかもしれないという懸念が頭をちらつき、約一ヶ月間、言えずにいたのだった。すぐには既読の印はつかず、希海は鞄にスマートフォンを戻して窓の外を眺めた。
駅からマンションまでは早足で帰った。勇助と郁登にも自分の意気込みを伝えたかった。特に郁登は戯れにも「A級になりたい」と言っていたことがある。母親がD級を目指すと知ったら興奮するのではないかと思った。
「ただいま」
希海が玄関のドアを開けると、リビングから英語の実況と歓声、郁登の「すっげえ」という叫びが聞こえた。二人はまたリビングのテレビでサッカーの動画を観ているようだ。束の間、希海は時間が巻き戻されたような錯覚に陥る。だが、廊下を進み、リビングと間続きのダイニングに足を踏み入れれば、勇助の料理の痕跡がそこら中に残っていた。まな板には人参のヘタが転がり、シンクには昼食に使われた二人ぶんの食器が無造作に置かれていた。
「ただいまって言ったんだけど」
「あ、おかえり。ごめん、聞こえなかった」
勇助がリモコンで動画の音量を下げた。
「ちょっと声が大きいんじゃない? 隣から苦情がくるよ」
「ごめんごめん、今、小さくしたから」
「気をつけてよ」
荷物を片づけて洗面所で手を洗い、ダイニングに戻った。土曜の昼は食器洗いも勇助の担当だ。しかし、勇助は夕方まで平気で食器を放置する。汚れがこびりつかないよう、希海は食器を水に浸すだけはした。生ゴミも捨てた。
「郁登は宿題はやったの?」
「このあとにやる。最初からそう決めてたってば」
郁登は視線をテレビに固定したままふてくされたような口調で答えた。数分後、映像は終わり、その後に表示されたほかの動画のサムネイルに反応しつつも、「宿題、宿題」と郁登は立ち上がった。
「ママ、かるたでD級を目指すことにしたから」
ランドセルに手をかけた郁登に希海は声をかけた。前のめりに話を聞いてくれるかもしれないという期待はこの数分で打ち砕かれていたが、せめて口にしなければ気が済まなかった。この家がサッカーのみを中心に回ろうとしていることに抵抗があった。
「え、そうなの? ママ、D級になるの?」
意外にも郁登は目を丸くして振り返った。
「まだなれないよ。これからなれるようにがんばるの」
「でも、D級なの? A級じゃなくて?」
郁登の問いに、ああ、この子は将来の夢を訊かれた際に、まだプロサッカー選手と答えられるのだと希海は目の開かれる思いがした。
「A級は……A級を目指すにしても、まずはD級からでしょう?」
「あ、そうか」
「D級ってどれくらいすごいの? どうやったらなれるの?」
勇助が尋ねた。
「E級の大会で三位以内……大会にもよるけど、三連勝できたら三位以内に入れるところが多いって、かるた会の人は言ってた。どれくらいすごいかは……なんて言ったらいいかわからない。簡単ではないと思う」
「へえ、郁登がレギュラーになるのとどっちが速いかな」
「絶対に俺だよ。今日も監督に褒められたし」
郁登は得意げに顎を突き出した。
「そうなの? すごいね」
「郁登はボールタッチがどんどんうまくなってるんだよ。足さばきが器用なんだよな。あと、最後まで諦めない。あのガッツはすごいよ」
確かに郁登はそのとき夢中で取り組んでいることには粘り強い。時折癇癪を起こすのも、簡単に諦められない性格が根底にあるのだろう。郁登のそういう一面が人に認められたことは希海も素直に嬉しかった。
「隼大のほうが足は速いけど、リフティングは俺のほうがうまいから」
「そうなんだ」
「ママ、明日は応援に来るよね? 見せてあげるよ」
「楽しみにしてる」
土曜のサッカーの付き添いはパパだけでもいいかと訊いたとき、郁登は「いいよ」とあっけらかんと答えた。現に希海がかるたの練習会に出かける際もさみしそうな素振りは見せないが、両親が揃う日曜のほうがわずかに高揚しているとは思う。母親が近くいることがまだまだ嬉しい年齢なのだろう。なにせ一年前は幼稚園児だったのだ。ほんの一瞬、希海はかるた会に入ったことに後ろめたさを感じた。郁登が手を繋いでこなくなったように、子どもから求められることにはいつか終わりが来る。それを週に一度でも親のほうから手放すような真似をした自分が、ひどく軽薄に思えた。
「ねえ、パパ。宿題が終わったら、次はスーパーセーブの動画が観たい」
「いいけど……。だからって、適当に終わらせるのはだめだよ」
「ちゃんとやるって。パパ、隣で見ててもいいよ」
郁登がダイニングテーブルにドリルとノートを広げると、勇助は隣に座った。どうやら本当に郁登の勉強に付き合ってくれるようだ。そのあいだに希海は自分の昼食を済ませることにした。冷凍うどんを使い、卵とじうどんでも作ろうかと湯を沸かしていると、勇助が、
「そうだ。昼食にチャーハンを作ったときに、人参と卵を使い切ったわ」
と言った。
「えっ、卵ってみっつ残ってなかった?」
「多いかなと思ったけど、ひとつ残してもあれだし、郁登は卵が好きだから使っちゃったよ」
「あー、わかった。卵と人参がもうないのね」
結局希海は素うどんを平らげ、食材の買いものに出かけた。駐輪場から自転車を出すのが面倒で、歩いて行けるスーパーハナタケに行くことにする。空に雲はなく、風も弱い。朝とは違い、日向を行けば暖かかった。
帰りに無人の「赤ちゃん公園」に寄り、ベンチでしばらくぼんやりした。近くのマンションのベランダで洗濯物が揺れるのを認め、郁登のユニフォームを洗わなければ、と思う。そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
〈すごいすごい! 希海さんが本格的にかるたを始めてくれて、すごく嬉しいです! がんばってください! 心から応援しています!〉
咲千からの返信だった。メッセージのあとには〈いとうるはし〉と書かれた百人一首の絵札ふうスタンプも届いた。そうだ、がんばろうと希海は胸中で独りごちる。咲千に〈ありがとう!〉と送り、ベンチから立ち上がった。
視界の端にソーサーが入り込み、希海ははっとして顔を上げた。
「お待たせいたしました、ブレンドです」
喫茶たまさかのマスターが微笑む。希海はペンをケースに戻して作業を中断し、湯気の立つコーヒーカップを自分の正面に引き寄せた。このコーヒーの淹れたてをすぐに味わわないのは考えられなかった。
「お仕事ですか?」
全身の筋肉を緩めてコーヒーを堪能していた希海は慌てて顔に力を入れた。マスターは推定五十代なかば。静かな人で、希海は今日のようにカウンター席に座ったときも彼から話しかけられた記憶はほぼなかった。それは相当に常連じみた振る舞いをする客にも同様で、マスターは誰に対しても常に一定の距離を保っているように感じていた。
「仕事ではないんです。これはかるたの、競技かるたの定位置作りです」
「競技かるた、ですか。百人一首の?」
「そうです。百人一首の」
「へえ、競技かるた……」
マスターは興味深げに何度も頷いたが、いい相槌は思い浮かばなかったようだ。数秒の沈黙ののち、「ごゆっくりどうぞ」と言ってサイフォンが並ぶガステーブルのほうへ戻っていった。
希海がこの店に来るのは初夏ぶりだった。郁登の幼稚園のお迎えに行かなくなったことで機会がめっきり減っていた。今日はパートが休みで、家事をあらかた片づけたのち、雑念の湧きにくい環境を求めてここを訪れた。岡村に送ってもらったノウハウを参考に、すでに一度は定位置表を完成させ、添削も受けている。今はその修正に悩んでいるところだった。
希海はコーヒーを啜りながら定位置表を眺めた。競技かるたの試合で最初に自陣に並ぶのは二十五枚だが、定位置表には百枚すべての札を記入することになっている。左右上中下段のどこに振り分けるかだけでなく、並びの順番まで決めるのだ。岡村から一字決まりを全部右下段に置くのはよくないと言われ、希海は〈す〉〈さ〉〈せ〉は右下段に、〈む〉〈め〉〈ふ〉〈ほ〉は左下段にわけたが、これはこれで難点があるそうだ。〈す〉〈さ〉〈せ〉は三枚ともサ行の音。子音が同じ札はなるべくばらばらにしたほうがいいとのことだった。
子音。四十年生きてきて子音を意識したことは一度もない。聞こえたと感じたこともなかった。そういう世界に自分は足を踏み入れたのかと希海はおそれにも似たものを感じる。それでも岡村のアドバイスに従い、〈む〉と〈め〉、〈ふ〉と〈ほ〉も左右でわけた。〈い〉札の〈いに〉〈いまこ〉〈いまは〉がすべて左にあるのもよくないと指摘されたため、〈いに〉を右に移した。そうしてあれこれやっていると、一段あたりの目安枚数をいつの間にか超えている。特に上段はあまり多くないほうがいい。敵陣上段の出札に手を伸ばした際、自陣上段にうっかり触れやすくなる。これも「引っかけ」と呼ばれるれっきとしたお手つきだ。せっかく敵陣が取れてもペナルティと相殺されて送り札ができず、結果「取り損」となる。希海は左右上段の札を二枚ずつ減らした。
「よかったら」
マスターがクッキーの載った小皿を差し出していた。
「えっ、あ……」
「サービスです。頭を使うことをされていらっしゃるようなので」
「あ、ありがとうございます」
さっそく一枚口に運んだ。昔、郁登が好きだったボーロを彷彿とさせるやや粉っぽい食感で、口の中であっという間に溶けていく。希海はカウンターに立つマスターを盗み見た。今日はテーブル席は埋まり、カウンター席には希海のみという珍しい状況だった。マスターは未婚らしく、常連らしい振る舞いの客から「いい人を紹介するよ。そろそろ身を固めたほうがいいって。老後に一人はさみしいよ」と言い寄られているのを見かけたことがある。「私はそういうのは……」と固辞するマスターの顔には苛立ちや呆れよりも、諦念のほうが強くにじんでいるように思えた。
「すごくおいしかったです。脳に沁みました」
希海が空になった小皿を返そうとすると、マスターが近づいてきた。
「そういえば一首、記憶に残っている和歌があるんです」
マスターの視線は希海の定位置表に向けられていた。「百人一首の歌ですか?」と希海は尋ねた。
「そうだったと思います。〈みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず〉という歌なんですけど」
「ああ、〈みせ〉。小倉百人一首にありますよ」
希海の定位置表では左中段に書き込まれていた。
「合っていましたか。私は宮城の出身で、この歌の舞台の近くに故郷があるんです」
「確か悲恋の歌ですよね」
「悲恋……。そうでしたか。お恥ずかしながら意味までは知らず、勉強になりました」
「悲しみで血の涙に染まった自分の袖をあなたに見せたい、みたいな意味だったと思います。私こそ、この歌の舞台が宮城とは知りませんでした」
「血の涙とは激しいですね。恋もなにもわからない子どものころに覚えさせられて、今、数十年ぶりに思い出したんですけど、すらすら口にできたことに自分でも驚きました」
そう言うとマスターは「邪魔をいたしました」と微笑み、もう話しかけてはこなかった。希海はコーヒーのおかわりを注文し、定位置表の修正版を書き上げた。ささやかなジャズの旋律が耳に心地よかった。
(つづく)