駅を出てまず感じたのは日の長さだった。郁登があまのはらかるた教室に入会したのが冬至の直前だったからか、天野邸に続く道のりには夕焼けや宵闇の印象が強く残っている。それが、いつもと同じ十七時前にもかかわらず、今日は明るい。隣を見れば、郁登は青いTシャツにストライプ柄のハーフパンツという出で立ちで、夏だ、と希海は思った。郁登が黄緑色の中綿ジャケットを着てこの道を歩いていたことが、早くも遠くに感じられた。
かるた教室に参加するのはおよそ二ヶ月ぶりだった。運動会以降、郁登はますます友だちと遊ぶことに熱中し、週に一回通うのも嫌がるようになった。六月には郁登が季節外れの風邪に倒れ、自分にもうつり、希海は二週間ほど家から出られなかった。その二週間がなにか契機となったのか、郁登は同年代が近くにいないときでも、とうとう親と手を繋がなくなった。
「まあ、郁登くん。久しぶりね」
郁登が教室に現れると天野は破顔した。咲千のメッセージどおりだった。今日、郁登が教室に行くのを承知したのは、「郁登が来なくて天野先生がさみしがってるって、有馬くんのママが言ってたよ」と希海が伝えたからだ。郁登も気まずいのか、「小学生って、結構忙しいんだよね。宿題もあるし」と口の中でもごもごと釈明していた。郁登を認めた有馬が、「あっ、郁登くん」と目を輝かせた。会わないうちに有馬は背がだいぶ伸びていた。
札のおさらいが始まった。今日の歌は二十六番から三十番まで。偶然にも郁登が初めて教室に参加した日と同じだった。あのときは天野の言っていることを半分も理解できなかったが、今は言葉が脳にたやすく浸透し、希海はそのことにくすぐったいような喜びを覚えた。二十六番の〈をぐらやま〉の決まり字は〈をぐ〉で、〈おくやまに〉の〈おく〉との聞き間違いに気をつける。二十七番〈みかのはら〉は〈みかきもり〉と、二十八番〈やまざとは〉は〈やまがはに〉と、二十九番〈こころあてに〉は〈こころにも〉と、三十番〈ありあけの〉は〈ありまやま〉と共札で、それぞれお手つきに要注意。天野が説明しなかったことも心の中で確認した。試合開始時点で三字目が聞きわけの重要なポイントとなる〈みかの〉〈みかき〉〈やまざ〉〈やまが〉〈ありあ〉〈ありま〉などの札は、三字決まりと呼ばれている。〈こころあ〉と〈こころに〉は四字決まりだ。希海はこれらの札が苦手だった。読まれた瞬間に軽いパニックに陥り、取り札がどちらかわからなくなるのだった。
「では、競技かるたとちらしにわかれて本日の試合を行います。今日は競技かるたの人数が奇数なのね。どうしようかな。郁登くん、ちらしでもいい? それともお母さんと競技かるたで勝負する?」
「俺、ちらしでいいよ」
郁登はほっとしたような顔で頷いた。郁登は教室の小学生にはまだ一度も勝っていない。「あっちのほうが早く始めたんだから、俺が負けるのは当たり前」と言いつつも、内心悔しくないはずがなかった。
競技かるたの子ども四人が札を並べて暗記し、ちらし取りの子ども四人がプリントで決まり字を復習しているあいだに、希海と咲千は教室の一角に陣取った。今日の咲千は水玉のロングワンピースを着ていた。黒地に白い点が星のように散らばっていて、細身の咲千によく似合っている。咲千は裾を折り込むように正座した。
「よかった、郁登くんが来てくれて。年長になってから、幼稚園の百人一首大会で僕も優勝したいって有馬が言い出して、すごく張り切っているんです。去年まで郁登くんがいた、くじら組になれたのも嬉しかったみたい」
「有馬くんなら、郁登よりもいい成績で優勝できるよ」
「どうかなあ。らいおん組に、家族でよく百人一首で遊んでるっていう子がいるらしいんですよね。有馬は札際が弱いから、負けることもあるかも」
「札際?」
「札に触るぎりぎりの瞬間のことです。ここが弱いと、いくら先に手を出していても相手に追い抜かれて取られちゃうんです」
「へえ、それが札際」
「ちなみに私は札際は胆力だと思っています。あれは度胸なんですよ」
「有馬くんは優しいもんね」
「でも、いつかはそれを克服しないとA級にはなれないですから」
希海と千咲が小声で喋っているうちに、ちらし取りの子どもたちが札を広げた。あまのはらかるた教室で使われている札は、競技かるたの公式戦にも用いられているものだ。初めて教室で手にしたときには本当に紙なのかと疑ったほど硬く、札同士がぶつかると芯のある音がする。希海はその響きが好きだった。春先には家の札も同じものに買い換えていた。
「〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉〈いまをはるべと さくやこのはな〉」
試合が始まった。本日のちらし取りのメンバーは、郁登と有馬と、これまでにも何度も対戦したことのあるポニーテールの夏芽、それから四月に入会したばかりの凛だった。ブランクのある郁登はさすがに最初はまごついていたが、音に対する反応は早かった。有馬は自分の手の届く範囲を完璧に守り、夏芽はその二人の意識からこぼれていた札をすかさず拾った。凛があらかじめ目星をつけていたらしい二、三枚の札を取ると早々に集中力を切らしたため、中盤をすぎたころには実質三人の戦いとなっていた。
「〈ありまやま――〉」
これまでほぼ手の動きのみで枚数を重ねていた有馬が場に覆い被さるようにして遠くの札を取った。自分の札だと言っている手前、譲れなかったのだろう。希海の隣で咲千が「よしっ」と気を吐いた。次に読まれたのは〈つきみれば〉だった。郁登がすばやく札を押さえた。〈つ〉は二枚札で、〈つ〉から始まる歌は〈つきみれば〉と〈つくばねの〉の二首しかない。今回、〈つくばねの〉は序盤で読まれていたため、〈つき〉の決まり字はすでに〈つ〉になっていた。決まり字の変化を追うのが苦手な郁登も、二枚札は把握できるようだ。〈つ〉が読まれた瞬間に動き出し、札を探していた。鮮やかな取りだった。
続いて二枚しかない五字札の〈よのなかは〉と〈よのなかよ〉の共札で夏芽がお手つきし、そのあと連続して読まれた〈むらさめの〉と〈ほととぎす〉の一字決まりは郁登と有馬が取った。ちらし取りは場に百枚すべてが並び、札の向きはばらばらで、暗記時間がほぼない。実は取るのがわりと大変なのだと、希海は競技かるたを通じて学んでいた。だが今回、上の句のあいだに誰も取れない札は、序盤にしか発生しなかった。子どもたちは明らかに成長していた。特に有馬の上達は目覚ましく、郁登も焦っているようだ。終盤、有馬につられてお手つきを二度した。郁登の顔が強張り、赤くなった。
場にある札は残り十枚。読まれる歌は、あと七首。
「〈わがいほは――〉」
夏芽が自分から一番近くの札にぱっと手をのせた。彼女の取りだ。取った札は利き腕の反対側に伏せて重ねることになっている。希海が見たところ、その山は有馬が一番高かった。序盤から安定して取り、お手つきしていないのが効いている。次いで高いのが郁登の山だ。だが、その差はわずかだろう。郁登が残り六枚の大半を取れば逆転できそうな程度のものだった。
「〈たかさごの――〉」
郁登が取った。郁登自身も有馬との差に気づいているらしく、安堵したような息を吐いた。〈やすらはで〉と〈ちはやふる〉の札も取れた。三連取だ。音に対する反応のよさがここにきて光っていた。
「〈あはれとも――〉」
郁登の身体が動いた刹那、有馬の腕も伸びる。衝突するかと思われた二人の手は、しかし別々の札に着地した。お手つきだ、どちらかの。郁登も有馬も読まれた歌が急にわからなくなったような顔をしている。希海がいる場所から取り札までは見えない。教室に緊張が走り、上の句の余韻がいやに響いて聞こえた。天野が四人の輪に近づき、上から場を覗き込んだ。
「取ったのは、有馬くんね」
天野を見上げる有馬の表情が明るくなった。〈あはれ〉〈あはじ〉の共札二枚は、この最終局面までどちらも読まれていなかったようだ。郁登は自分の札を取りたい一心で〈あは〉で反応し、〈いくよねざめぬすまのせきもり〉の取り札に手を置いた。一方の有馬は〈あはれ〉まで聞いてから、〈みのいたづらになりぬべきかな〉にきっちり手を伸ばしたらしかった。
「郁登くんは、お手つき。次の歌のあいだはお休――」
「あああああっ」
郁登が咆哮し、自身の手の下にあった〈あはじしま〉の取り札を畳に叩きつけた。希海は制止しようとしたが、間に合わなかった。郁登は自分の取り札の山を場にばらまき、泣きながらそれらを踏み始めた。
「ちょっと、郁登くん――」
天野が鋭い声を上げる。希海は「郁登、郁登っ、だめっ、やめなさいっ」と後ろから腕を固定するように郁登を抱きしめた。だが、脚はとめられない。郁登の足は相変わらず札を踏みしめ、蹴り散らかした。希海は郁登を引きずり場から遠ざけた。子どもも大人も、この部屋にいる全員が自分たち親子に怯えの視線を向けているのがわかる。暴れる郁登を押さえながら、希海は「すみません」と「ごめんなさい」を繰り返した。郁登が三歳のときに公園でほかの子が作った砂の山を壊したことや、年少クラスでおもちゃの取り合いから相手の腕に噛みついたこと、去年起こした愛桜とのトラブルなどが次々と脳裏をよぎった。謝ってばかりの子育てだった。しかし、郁登も小学生になり、そろそろ落ち着いたような気がしていた。そんな自分の甘さが希海は情けなかった。
「俺、もうかるたはやめる。絶対にやらないっ」
「わかった、わかったから」
希海は郁登を捕らえたまま、「すみません、今日は帰ります、すみません」と頭を下げた。荷物を持ってきてくれた天野と、どうしても目を合わせられない。咲千の顔を見るのも怖かった。俯いたまま庭に出て駅に急ぐ。電車に乗るころには郁登の興奮もだいぶ治まっていたが、「俺、もうかるたはしないから」と折に触れて母親に釘を刺すことは忘れなかった。
そのたびに希海は「わかった」と応えた。
夜、職場から帰宅した勇助に、希海はかるた教室での一件を告げた。勇助の第一声は「はあ?」だった。
「なんでそもそもかるた教室に連れていったの? 郁登、最近はかるたに全然興味なかったよね?」
「だから、またやるきっかけになったらいいなって――」
「そんなのママのエゴだよ、エゴ」
勇助は希海が電子レンジで温め直した肉じゃがを口に運び、しばらく険しい顔で咀嚼した。「年下に負けて悔しかっただろうな、郁登」
「そうかもしれないけど……」
そのあとに続く、勇助に受けとめてもらえそうな言葉は見つからなかった。言わなければよかった、と希海は思ったが、子育てに積極的な勇助に黙ったままでいるのも、それはそれで気が咎めた。
「教室の人からなにか言われた?」
「天野先生からはメールをいただいて、札を大切にすることは家でも指導してほしいけど、郁登くんはまだ小学一年生なんだから、あまり厳しく叱らないでくださいって言われた。気が向いたらまたいつでも来てくださいって」
「まあ、向こうにしてみたら、貴重な生徒だもんな。そんなに入会希望が多い習いごとでもないだろうし」
そういうことではないと思う、と応える代わりに希海は水を飲んだ。天野の言葉に甘えるわけにもいかず、帰宅後、希海が叱りつけたことで郁登の機嫌はまた悪くなった。今夜は本当に大変だったのだ。やっと郁登が寝たあともコーヒーを淹れる気力は到底湧かなかった。
「そんなことがあったなら、さすがにママももう連れて行かないよね?」
「行かないっていうか、行けないよ」
数時間前には咲千からも郁登を気遣うようなメッセージが届いていたが、有馬の礼儀に人一倍厳しい彼女の本心だとは思えなかった。「だよな」と頷いた勇助はこれで話が一段落したと感じたのか、急に面差しを和らげて汁椀を手に取った。「あ、なめこだ」と味噌汁の具に喜んだのち、「覚えた百人一首がいつか古典の授業で役に立ったら上出来じゃない?」と言って椀に口をつける。希海は無言で水のおかわりを注いだ。
郁登があっけらかんとした口調で「俺もグリーンブルズに入って、隼大とサッカーがやりたい」と言い出したのは、その二日後、土曜の昼食時だった。
(つづく)