春分の日に咲千に女児が生まれ、四月には郁登が小学二年生になった。クラスは持ち上がりで友だちの隼大と同じになるとわかっていたため、今年の進級にはさほど心配がなかった。五月の運動会でも郁登がクラスメイトと笑っている場面をたくさん見かけた。今年の運動会に希海の親は来なかった。兄の子どもの日程と重なったらしく、「やけん、仕方なか」と言われた。
グリーンブルズのグループトークに慌てた様子の監督からメッセージが入ったのは、六月の土曜の朝だった。校庭の予約に不備があり、今日は活動できないという。勇助と郁登を起こして朝食を食べさせていた希海は「ええっ」と情けない声を上げた。
「いやあ、俺は正直助かったよ。もう一回寝るわ」
勇助は朝食を済ませると、歯も磨かずに寝室に戻ろうとした。瞼がほとんど開いていない。このごろの彼は特に仕事が忙しかった。他院に勤める名医のスカウトに動いていて、それが普段の業務を圧迫しているという。一昨日も昨日も日付が変わってからの帰宅だった。
「えっ、寝るの? 郁登はどうするの?」
「どうするのって……郁登のサッカーがないときは、ママもかるたを休むんだよね? ママに任せるよ」
そう言われて希海ははっとした。自分もかるた会に休みの連絡を入れなければならない。練習会の参加不参加はまったくの自由だが、会員はスケジュール調整ツールに毎回の出欠席を登録する決まりになっていた。
「そうだった。ごめん、ゆっくり休んで」
これまでにも雨でグリーンブルズの活動がなくなり、かるたの練習を休んだことはある。しかし、その場合には天気予報を見て数日前から腹をくくっていることがほとんどだ。今日のような直前の欠席は初めてだった。
「あー、つまんない」
ダイニングテーブルでは郁登がパンをもてあそびながら文句を垂れていた。「だらだら食べないの」と郁登を追い立て、希海は洗濯物を干した。食器を洗い、寝室以外に掃除機をかけ、朝食後、リビングに寝そべって漫画を読んでいた郁登に宿題をするように促す。「今日は時間があるんだからあとでもいいじゃん」と郁登に反発されたとき、スマートフォンがメッセージを受信した。
〈隼大がサッカーがないなら友だちとゲームしたいって言い出してきかないんです。よかったらうちに遊びに来ませんか?〉
二年生メンバーの母親のみが集うグループトークに、隼大の母親である留美から届いたものだった。希海は郁登を盗み見た。留美の誘いに乗れば郁登は喜ぶだろう。それにこのままでは希海自身も時間を持て余しそうだった。
〈いいんですか? ご迷惑でなければお邪魔したいです〉
文章に絵文字をつけて返信し、「早く宿題を終わらせたらいいことがあるかもよ」と郁登に声をかける。郁登は「どうせたいしたことないよ」と口を尖らせながらも、なにかを感じ取ったのか、わくわくした表情で立ち上がった。
四十分後、行き先を知って大はしゃぎする郁登と家を出た。友だちと遊べることもテレビゲームができることも嬉しいのだろう。勇助の方針で、皆川家は郁登が十歳になるまではゲーム機を買わないことになっている。隼大の家は小学校からほど近くの一軒家で、前に留美から「あの青い屋根の」と話は聞いていた。チャイムを押すやいなや、隼大と二人の男子が飛び出してくる。郁登は靴を脱ぎ捨て、「みんな早すぎっ」と叫びながら家に入っていった。
「ちゃんと揃えてよ……」
希海がため息を吐いて郁登の靴を揃えていると、「皆川さん、来てくれてありがとね」と留美が玄関までやって来た。「こちらこそありがとう」と希海は途中のコンビニエンスストアで買った菓子を差し出した。留美に案内され、リビングダイニングに足を踏み入れる。自分よりせいぜい一、二分しか早くこの部屋に入っていないはずの郁登はすでにゲーム機のコントローラーを握り、「誰かやり方を教えろって」と笑いながらカーレースをプレイしていた。
「郁登、それ逆走だから」
先に到着していた男子のうちの一人が大笑いしてソファで跳ねる。すかさず彼の母親が、「そこで跳ねないっ。壊れたらどうするのっ」と声を荒らげた。
「あー、いいのいいの。うちのことなら気にしないで。もう諦めてるから」
希海のぶんのコーヒーを運んできた留美が言った。合皮製らしいソファは確かに表面があちこち破れていた。隼大には兄が二人いるそうだ。「和室の障子も襖も穴だらけなんだけど、隼大が中学生になるまでは一切新調しないって決めてるの。どうせすぐにぼろぼろにされるから」と留美は笑った。
母親四人でダイニングテーブルを囲み、まずは「大変だったね」と今朝の騒動を振り返った。そこから世間話が始まったが、なにせ近くにいる子どもたちがやかましい。話は幾度となく中断を余儀なくされた。子どもたちは誰かがいいプレイをすれば「神じゃん」と騒ぎ、誰かがミスをすれば「はい、終わったー」とからかった。相手を押したり蹴ったりするような小競り合いも発生し、希海とママ友は何度も立ち上がらなければならなかった。
想像をはるかに上回るにぎやかさだった。郁登の幼稚園時代の友だちはおとなしい子が多く、小学校に入ってから仲よくなったグリーンブルズの仲間とはもっぱら外で会っていたため、希海は今までこういう混沌に縁遠かった。全員が思い思いに感情を発散させている。四人のあいだでパワーバランスが分散していそうなのが救いだが、それにしてもうるさい。
「は? おまえ、俺のこと舐めてるのかよ」
ゲーム内でターゲットにされたらしい隼大が笑いながら郁登に吠えた。
「うるっせえ。隼大がとろいからだろ」
「おい、てめえ、ぶっ殺す」
「隼大、そういうことを言うならゲームは終わりにするよ」
留美が叱ったが、「ごめんなさいごめんなさい、もう言いません」と返す隼大の口調は軽い。こんなやり取りは日常茶飯事なのだろう。留美には、自分の息子が「ぶっ殺す」と口にしたことを深刻に捉えている感じもなかった。
全員がゴールしてレースが終了したようだ。数秒前まで剣呑だった郁登と隼大が「また一位と二位」「俺ら最強じゃん」と肩を組んだ。希海は留美と顔を見合わせて苦笑した。
「そういえば、皆川さんの百人一首は最近どうなの? 土曜は応援に来ないってことは、まだ行ってるの?」
留美が話題を変えた。郁登が言って回ったため、グリーンブルズの保護者の大半は希海がかるた会に通っていることを知っていた。
「うん、まだ行ってるよ」
「すごい。郁登くんのパパって優しいよね。ママのやりたいことを応援してくれる旦那なんて滅多にいないよ」
「うーん、そういう感じではないと思うんだけど」
希海は首をかしげてコーヒーを飲んだ。茶色いお湯だな、と思うが、もちろん顔には出さない。グリーンブルズのママ友には自分のかるたは勇助の飲み会とトレードなのだと説明していたが、彼の株は上がったままだった。
「そうなの?」
「かるたには相変わらずなんの興味もないし。なにも訊いてこないからね」
「いやあ、行かせてくれるだけですごくない? うちは絶対に無理だな」
「うちも。毎週末の半日、一人で子どもの面倒を見てほしいって言ったら、それだけで機嫌が悪くなると思う」
あとの二人も口々に留美に賛同した。
「しかも、休みの日に勉強してるようなものだよね、百人一首って」
留美は「偉いよ」と言い足し、自分のマグカップに口をつけた。
「そんなことないよ。ただの趣味だから。楽しいからやってるだけ」
希海は首を横に振る。そのとき、子どもたちが一斉に歓声を上げた。レースで盛り上がる展開があったようだ。自分にとってのかるたは、子どもたちにとってのテレビゲームと大差ないのかもしれない。そんなことを思いつつ壁の時計を見遣った。現在の時刻は十一時四十三分。光のどけき会は二試合目の真っ只中だろう。視線を窓の外に移す。初夏の空は快晴で、天気のいい土曜に自分がかるたをしていないことが不思議だった。
先週、相手陣の右下段にあった〈わび〉を突き手で取れたことを思い出した。先々週は会の小学生でもっとも強い、六年生でC級の茉衣子と初めて対戦し、十三枚負けを喫すも送った直後に読まれた〈あし〉は抜けた。希海がかるた会に入り、間もなく半年になる。対人戦の経験は着実に増えているが、自分のよかったプレイを脳内でリピート再生する習慣は競技かるたを体験した日から変わらない。希海は自分のことをネガティブだと思っていたが、かるたに関してはなぜかいい記憶のほうが鮮やかに頭に残った。
かるたがやりたい。
炎天下で木陰を、凍てつく日に日向を求めるように希海は思う。かるたには静寂と秩序がある。時間がとまる瞬間がある。美しい言葉もある。そのどれもが恋しい。今朝、かるた会に欠席連絡を入れる際、最初に心に湧き上がったのは久しぶりに予定のない休日を息子とすごせる喜びではなく、かるたができない悲しみだった。かるたがしたい。練習を一回休むと、次に人とかるたができるまでに二週間が空くのも辛い。近ごろの希海は、この四月に小学六年生になった花琉とその母親の奈穂を除き、光のどけき会のE級選手には負けなしだ。ほかのかるた会からゲストとして練習に訪れた五十代の女性にも勝てた。この好調の感覚がブランクのあいだに薄れるのも怖かった。
「私も子どもを産む前は趣味がたくさんあったんだけどな。全部どこにいっちゃったんだろう」
留美が呟いた。いつもからっと明るい彼女からは想像できないさみしげな声音だった。
「望んで子どもを授かって、充分幸せなはずなのにね」
ポン、ポン、パーン、とテレビの中でレース開始の音が鳴る。子どもたちがふたたび耳をつんざくほどの歓声を上げた。
奈穂から大会に誘われたのは、七月なかばの練習会のことだった。希海は二試合目に琉宇と対戦し、六枚差で勝った。その振り返りをメモアプリに入力していたときに、「希海さんは来月の大会に出ないの?」と訊かれたのだ。雑談の折に同い年だということがわかってから、奈穂とは互いに砕けた口調で話すようになっていた。
「来月の大会?」
「東東……東京都東部初心者大会。一昨日だったかな、メーリスで案内が届いたと思うんだけど」
光のどけき会のメーリングリストには連日のように大会の情報が流れてくる。中には北海道や九州地方で開催されるものもあり、誰が行くのだろうと希海は疑問に思っていたが、C級以上は全国の大会に出場できるらしく、遠征も珍しいことではないようだ。大会に出るのには当然参加費がかかり、こうなると、かるたは勇助の言う「お金のかからないいい趣味」には収まらないような気がしていた。
「大会に出るのはまだ早いかなと思って、そういうお知らせのメールはあんまり読んでないんだよね。奈穂さんは今回も行くの?」
「うん、私と花琉と琉宇と三人で申し込んだ。全然早くないって。むしろ大会の経験を積んでおくのは大事だよ。東東の今回の会場は近いし、たぶん抽選もないからお薦め」
「その大会の日って土曜? 日曜?」
「あ、どうだったかな」
奈穂がスマートフォンを取り出そうとするのを制し、希海は自分の受信トレイを遡った。確かに二日前に〈第十六回東京都東部初心者大会のご案内〉というタイトルのメールが届いている。開催日は七月の最終土曜で、場所はこの北東地区公民館と同じ地域にある区民スポーツセンターだ。これなら行けるかも、と希海が思ったとき、時間と試合形式に関する記述が目に留まった。
「あー……」
「難しそう?」
「家族に訊いてからじゃないとわからないな」
東京都東部初心者大会の受付開始時刻は、午前九時半だった。そして、最大で四回戦まで行われるという。万が一、三連勝して最後まで残れば、帰宅が練習会の日よりずっと遅くなるのは間違いなかった。
「あ、そうだよね」
「奈穂さんは結構いろんな大会に出てるよね。それも経験を積むため?」
大会の結果や今後の出場予定は練習会でも話題になることが多く、誰がなにに出場したかは伝わってくる。奈穂には都内で開かれるE級大会の大半に親子三人で出場しているという印象があった。
「うん、そう。他会の人と戦うのは緊張するし、うちの会の練習だと一回で二試合しかできないでしょう? でも大会で入賞するには、三、四試合を勝ち抜ける体力が必要なんだよね。そういうのに慣れたくて、なるべく出るようにしてる。私は旦那の親と同居なんだけど、旦那自身はサービス業で休日に家にいないんだ。子どもを連れて外に出ちゃったほうが気が楽っていうのもあるし」
「そうだったんだ」
希海がスマートフォンをしまったとき、「そろそろ片づけて出るよー」と森が和室全体に呼びかけた。今日は岡村が腰痛のために欠席で、森が練習会を取り仕切っていた。岡村の腰痛はかなり手強いらしく、先週も休みだった。
「皆川さんも出られるといいな、東東」
奈穂は無邪気に笑うと、ホワイトボードを舞台の端に戻した。
(つづく)