三回戦の相手は平明学園中高かるた部所属、天野光太朗だった。
唯を五枚差で下したときからこうなるような予感があり、対戦カードの組み合わせを目にしても希海は驚かなかった。役員がグループトークに投稿した写真を拡大すれば、その人のカードに記された対戦結果を見ることができる。光太朗は一回戦は二十枚差、二回戦は十六枚差で勝利を収めていた。Gグループで勝ち進んでいるほかの選手と比べても抜群の戦績だった。
席番号の位置には希海のほうが先に着いた。柔道畳に上がる選手の数はだいぶ減り、場内全体ががらんとしている。希海は奈穂と目を合わせ、それぞれ一度ずつ頷いた。奈穂は二回戦を七枚差で勝ち抜いていた。
数十秒後に現れた光太朗は、一回戦の前にばったり再会したときよりも明らかにリラックスしていた。これから彼は、約二年前に自分が競技かるたのルールを教えた相手と戦う。さすがに負けることはないと思っているのかもしれない。昇段戦でやっといい相手が引けたと感じているのだろうか。改めて正面から向き合うと、光太朗の額は天野のそれと同じ形をしていた。
「一番上の札が〈はなの〉であることを確認してから札を開いてください」
「よろしくお願いします」
互いに深く礼をする。この試合に勝ったほうがD級に上がる。
札をかき混ぜ、二十五枚を自陣に並べた。左右とも上中下段のバランスがよく、定位置どおりに試合を始められそうなことにまずはほっとした。六列のどこかに札が偏ったがために、数枚を定位置以外の場所に移動させることがたまにあり、そういうときにはさらなる感覚の調整が必要だった。〈む〉〈す〉〈め〉〈ふ〉〈さ〉〈ほ〉〈せ〉の中ではもっとも好きな〈め〉や、〈あはじ〉が自陣に来たのもラッキーだ。大丈夫、と希海は声には出さずに呟いた。
「ただ今より暗記時間を取ります。十四時五十分より試合開始です」
場にある五十枚の札を一字決まりから順に暗記する。だが、頭の回転が鈍い。何度数えても一枚足らず、なにを見落としているのか突きとめるのに数分を要した。思えば希海にとって、三試合目を経験するのは初めてのことだった。今回は〈ゆふ〉の札はなく、希海は脳裏の勇助に、〈ゆふ〉のほうが私に取られる気がないんだけど、と言いがかりをつけた。
「二分前です」
役員の合図で素振りを始めた。光太朗は右よりも左に六、七枚多く札を並べていた。身体は重いが、敵陣との距離感覚は悪くないことに希海は安堵する。一方、光太朗の動きは身軽そのものだった。きっと部活で毎日練習に励んでいるのだろう。筋トレや体力作りのためのメニューもあるに違いない。しかし、若いことやかるた漬けの毎日をもう羨ましいとは感じなかった。
「それでは本日の第三試合を始めます」
役員が読手の名前を告げる。希海は背筋を伸ばし、光太朗と読手に「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉〈いまをはるべと さくやこのはな〉」
希海は聴覚を研ぎ澄ませた。
「〈つき――〉」
空気の揺れを感じた瞬間、自陣の右中段が横一線に払われた。光太朗の左中段には〈つく〉があり、希海は〈つ〉で〈つく〉に手を伸ばし、〈つき〉なら戻る心づもりだったが、手が畳から離れる間もなかった。〈つき〉を取られたこと自体は問題ではなかった。攻めがるたを目指す希海の主戦場は敵陣だ。しかし、内容が悪い。希海の耳には〈つ〉の音が聞こえたかどうかも怪しく、今読まれたのが〈つく〉でも取れなかったのは間違いなかった。
これはレベルが違う。
背中を冷たいものが流れた。同会のD級で、一音目に反応して手を出す森よりも光太朗のほうが速い。先月、希海は森に四枚差まで迫り、D級の雰囲気というものをなんとなくは掴んだように思っていた。実力充分にもかかわらず、足踏みしている歴戦の猛者。希海は奈穂の言葉を思い出した。
光太朗が送り札に選んだのは〈つく〉だった。〈つき〉と同じ動きで取る計算のようだ。左中段に並んでいる〈もも〉〈もろ〉の共札を先に分けなかったことに、感じのよさに対する自負を感じた。〈も〉札は百枚中にこの二枚のみ。二枚がくっついている今の布陣ならば、〈も〉の音で一気に払えばよかった。
「〈やえ――〉」
二枚目は空札だった。光太朗は自陣左の〈やまが〉の方向に手を十センチほど動かしたが、うっかり触るようなことはしなかった。
「〈かさ――〉」
来た。狙い札として特に強く意識していた一枚だ。希海はこれ以上ないタイミングで飛び出し、最短距離で敵陣の左上段に突っ込んだ。しかし、札に触れる寸前に光太朗が下から札を払った。手の軌道が低い。希海は天井を仰いだ。払いの手本のような、基礎がしっかり身についている人の動きだった。
その後も光太朗は希海の右にあった〈わすら〉と〈ちは〉を抜き、自身の左に置いていた〈なつ〉と〈たご〉を守った。希海は敵陣右の〈いに〉を払い、自陣左の〈ひとは〉も押さえ手で取ったが、やはり気持ちは焦っていたようだ。次の空札の〈ありま〉で敵陣の〈ありあ〉に触るお手つきをした。読みの途中で違うことに気づいたが、どうしても手をとめられなかった。
「……失礼します」
隣の選手も同じお手つきをしていた。彼が札を並べ直しているあいだに希海はその場に立ち上がり、肺が空になるまで息を吐いた。視点を変えることで落ち着きを取り戻そうと思ったのだ。こういうリフレッシュ方法があることは岡村から聞いていたが、実践したのは初めてだった。中年の初心者が試合の流れを妨げかねない真似をすること、周囲からの注目を集めるかもしれないことに、ずっと抵抗があった。しかし、もう四の五の言ってはいられない。
そして希海は気がついた。光太朗が札を取っている場所は、希海の陣は右に、自陣は左に偏っている。希海が取った〈いに〉と〈ひとは〉だけがそのセオリーから外れていた。ではなぜその二枚は取れたのか。光太朗の動きが微妙に精彩さを欠いていたからだ。敵陣右と自陣左に向かう彼の動作を百点の満点とするならば、逆サイドは八十点ほどの切れ味だった。
もしや光太朗は、右腕を外方向に動かしづらいのだろうか。
希海は腰を下ろしながらさらに考えを巡らせた。奈穂は光太朗が去年利き腕を骨折したと言っていた。その影響か、それとももともとの癖か。いずれにせよここに活路を見出すならば、最大限に狙うべきは得意札や決まり字の短い札ではなく、彼の右陣に並んでいる札だ。攻めがるたを志す者として敵陣左も諦めず、自陣左は死守。自陣右のことはひとまず考えない。この面はどんなに意識していてもおそらくほぼ抜かれる。希海はそう算段を立てた。
「〈なげき――〉」
希海は自陣の左上段を払った。決してベストタイミングではなかったが、それでも光太朗より早く札に到達できた事実に先ほどの推論が裏づけられたような気がした。三枚の空札のあと、自陣右の〈ふ〉と〈ひさ〉をまたしても微動だにできないほどの速さで抜かれたが、もう動揺はなかった。
「〈あはじ〉と〈たき〉を左に動かします」
希海は光太朗に断りを入れて札を移動した。一度に二枚程度までなら、相手に宣告した上で自陣の札の場所を変えることができる。定位置を外した札を守るのは苦手だが、今回はなるべく多く左に置きたかった。
希海が自陣左の、〈はる〉決まりになっていた〈はるす〉を守る。
光太朗が自陣左の〈やまが〉を押さえる。
希海が先ほどお手つきした〈あり〉決まりの〈ありあ〉を抜く。
自分の目のつけどころは間違っていない。試合が進むにつれ、希海の確信は深まっていった。だが、敵陣右と自陣左を取りこぼさないよう気を張り続けるのは苦しい。光太朗は左に腕を振る動きが飛び抜けて洗練されているだけで、右に払うのが遅いわけではない。充分速いのだ。希海の意識が薄くなっていた札を光太朗は決して逃さない。二枚取られた。
「〈よの――〉」
五字決まりの歌だ。希海は自陣の左下段〈よのなかよ〉を大山札のとき同様に囲った。共札の〈よのなかは〉は今回の場にはない。五音目が〈よ〉ならすばやく札に触り、〈は〉なら囲いを外す。希海は読手の声に全神経を注いだ。
「〈――なかよ――〉」
希海が手を倒して札を確保しようとした瞬間だった。光太朗の突き立てた人差し指が手のひらと札の間に入ってきた。
やはり、レベルがまったく違う。
自分の取りにできなかったにもかかわらず、希海は素直に感嘆した。今、光太朗が繰り出したのは囲い手破りという技だった。囲いの隙間から指を入れて札を取る動きのことだ。光太朗は技が多彩で、しかも鮮やかだ。希海は圧倒的な実力差を思い知らされたような気がした。彼の弱点につけ込んでいることを承知の戦法で食らいついているが、希望が見えそうになると突き離される。あと一歩がひどく遠い。その状態のまま試合はさらに進行した。
「〈なにはが――〉」
希海は自陣左中段を押さえ手で守った。前方で音がして顔を上げると、光太朗の左陣の札が競技線から出ていた。共札の〈なにはえ〉に触ったようだ。スピードに乗った腕の動きを制御しきれなかったのかもしれない。希海は〈はな〉決まりになっていた〈はなの〉を送った。セミダブと呼ばれるこのお手つきにより、一気に三枚の差が縮まった。今、自陣の札の数は約二十で、敵陣が十五くらいか。目算だが、差はおそらく五枚程度。いける。追いつける。希海は呼吸を整えた。身体が熱く、朝、小雪がちらついていたことが信じられない。汗で肌着が背中に貼りつくのを感じた。
光太朗が自陣左の〈もろ〉を〈もも〉もろとも光速で払う。
希海が自陣左の〈たき〉を守る。
空札。光太朗が取る。空札。空札。希海が取る。空札。
苦しい。脳が限界を訴えている。もうなにも覚えられないと主張している。自分がやっているこれは一体なんだろう。競技かるたはおかしなスポーツだ。平仮名を見つめてひたすらに音を追いかけている。体重を支える膝が痛い。足の甲が痛い。肩も腰も痛い。けれども次の歌に備えて会場が静寂で充ち満ちると、思考や感覚は引き波のように後ろに下がる。乾いた大地が雨を欲するように耳が音を求め、読手の呼吸の音がそよ風のように鼓膜をかすめる。
かるたをしていると、濃縮された生を感じる。
中学生のころ、希海はリストカットをしたことがあった。クラスメイトの影響で、本当に鬱屈が晴れるものなのかと興味を持ったのだ。手首ににじんだ血はそれまでに見たなによりも赤かった。一度試したら気が済み、思っていたより長引く痛みに嫌気が差したこともあって、二度目はなかった。今の感覚はあのときに抱いた興奮に少しだけ似ていた。
和歌の意味や響きに、震える心。かつてその札を取れたときの喜びと取れなかったときの悔しさ。一枚の札に、一音の響きに、あまりにたくさんのものが詰まっている。一秒にも満たない時間に強く集中することが、感情を、思考を、記憶を凝縮させる。生が濃くなる。
光太朗が札を取る。空札。光太朗が取る。空札。空札。希海が取る。希海が取る。空札。光太朗が取る。空札。
希海は額の汗を手の甲で拭った。自陣の残りは八枚で、敵陣が四枚。光太朗があと札を四枚取れば、この試合は終わる。情勢は厳しい。だが諦めない。場にある札の決まり字を必死におさらいした。何度も何度も確かめた。
「〈あは――〉」
まだ〈あはれ〉が読まれていないことはわかっていたにもかかわらず、希海の手は一音早いタイミングで自陣左下段の〈あはじ〉に向かった。
「〈――れとも――〉」
慌てて手にブレーキをかけたが、中指の腹にさらりとした紙の感触が残った。希海は反射的に息をとめ、〈いくよねざめぬすまのせきもり〉と書かれた札を見下ろした。札が乱れた形跡はない。どうか触ったことに気づかれませんように、と祈った。競技かるたではお手つきを自己申告する必要はない。相手に察知されなければやりすごすことができる。光太朗には指が札の一ミリ上をかすめたように思ってほしい。希海は緊張が顔に出ないように努めた。心臓が跳ねるように脈を打っていた。
光太朗が自陣の〈もも〉の札を掴み、希海の陣に差し出しながら、
「……今、触られましたか?」
と小声で尋ねた。
しらを切ろうか、と希海は真っ先に思った。光太朗の声音は自信なげで、希海が触っていないと答えたら、すぐさま送り札を引っ込めそうだ。幸いなことに札は動いていない。ぎりぎりよけたと答えれば認められるだろう。ここで九対三になるのは辛い。三倍の差がついてしまう。
だが、嘘を吐こうとした瞬間に希海の頭に浮かんだのは郁登の顔だった。郁登は〈あはじ〉の札を掴み、俺の札だよ、と笑っていた。
「……はい、触りました」
希海は小さく顎を引き、送り札を受け取った。
一番上に〈はなの〉を重ねて札をまとめた光太朗が立ち上がり、役員に報告に行く姿をぼうっと眺める。負けた。六枚差だった。
数秒後、希海は我に返り、奈穂が試合をしていたはずの場所を見遣った。いない。彼女の試合はすでに終了していた。奈穂は勝っただろうか。タイミングを見計らって畳から降りる。奈穂は二人ぶんの荷物の隣に正座していた。希海と視線が合うと同時に微笑む。彼女の目の縁は赤くなっていた。
「希海さん、惜しかったね。天野くん相手によく粘ったよ」
試合が終わるなり奈穂が言った。
「ありがとう。それで、あの、奈穂さんは……」
「勝ちました」
奈穂は口角をきゅっと上げて頷いた。
「勝った? 勝ったの?」
「うん、勝った」
「じゃあ、これでD級?」
「うん、これでD級」
希海は奈穂を軽く抱きしめ、「おめでとう」と言った。喜びが身体の奥から湧き上がり、全身を駆け巡る。今日一日の疲れが吹き飛んでいた。同会の仲間の勝利としても、大人の選手の昇段としても、「おめでとう」の五文字では祝った気になれないほど嬉しかった。
希海が奈穂から身体を離したとき、青いTシャツを着た人影が通りかかった。光太朗だ。希海の姿を認め、どこか居心地悪そうに会釈する。勝ったほうが気まずい思いをしているようだ。希海は「光太朗くん」と呼びとめた。
「はい」
「D級、おめでとう」
希海には全力を尽くしたという実感があった。また、郁登がかるたをやめずに中学生まで続けていたら、こんなふうに二人で戦うこともあったかもしれない。そんなことも感じていた。自分が〈あはじ〉のお手つきをごまかさなかったことに、改めて深い安堵を覚えた。
「あ……ありがとうございます」
「次もがんばってね。光太朗くんなら勝てると思う」
三試合目の勝者は昇段は確定しているが、あと二戦、準決勝と決勝が残っていた。
「はい、がんばります」
ふたたび会釈し、トイレの方向に足を向けた光太朗が振り返った。
「あのっ……皆川さんも強かったです」
「ありがとう」
今度こそ光太朗が立ち去ると、希海は大きく伸びをした。身体のあちこちが痛い。腿の裏には早くも筋肉痛の兆しがあった。希海につられたように奈穂も首や肩を回し、「ここまで来たら私も優勝したいな」と言った。
「奈穂さんもいけるよ。勝てる勝てる」
「そういえば、初夢の話って希海さんにしたっけ? してないよね?」
奈穂が右手で左腕を胸のほうに引き寄せるストレッチをしながら切り出した。
「聞いてないと思う。初夢って、今年の?」
「そう。今朝会ったらすぐに言おうと思ってたのに忘れてた。私の初夢に希海さんが出てきたんだよね」
「私が?」
「正確には希海さんの姿は見えなくて、声がしただけなんだけど」
奈穂は左右の手と腕を入れ替えた。
「声の出演なんだ」
「岡山大会に出場するために二人で遠征していて、希海さん、行くよーって私が駅で呼びかけたら、希海さんから、今行くーって返ってきた夢」
なぜ岡山なんだとツッコミを入れようとして希海ははっとした。全国大会と銘打たれているものを除き、地域を問わずに大会に出場することが認められているのは基本的にはC級以上だ。つまり奈穂の夢の中では、自分も彼女もC級以上の選手だったということになる。
「正夢にしようね」
奈穂が言った。その表情は柔らかかった。
「奈穂さんはすぐにC級に上がれるよ。でも私は……何年かかるかな」
「私だってCは厳しいよ。でも、何年かかってもいいんじゃない?」
「……そうか。そうだよね」
「そうだよ。おばあちゃんになってから遠征するのも楽しそう」
「じゃあ、がんばります」
「ついでに岡山観光しようね」
「しようしよう。でも、どうして行き先が岡山なの?」
希海はようやく疑問を口にした。奈穂が「それは全然わからない」ときっぱり答える。二人で顔を見合わせて大笑いした。
「ねえ、パパ。水筒を忘れてるよ」
希海の声にリビングで荷物を詰めていた勇助が顔を上げた。まずは自分のリュックサックの中を覗き、それからダイニングテーブルにあった一リットル容量の水筒に目を向け、
「本当だ。やばいやばい」と立ち上がった。
「俺もパパの友だちとサッカーしたかった」
「郁登には隼大くんたちがいるでしょう。ほら、早く食べなさい」
文句を言いながら食パンをかじる郁登を希海は急かす。勇助が郁登の頭を乱暴に撫で、
「もうちょっと大きくなったら一緒に行こうな」と言った。
「もうちょっとって何歳? 俺、このあいだ股抜きシュートもできたよ」
「郁登、パパにわがままを言っていないで、さっさと食、べ、る」
「食べてるってば」
勇助は支度が終わったようだ。ベンチコートを着てリュックサックを背負い、玄関に行く途中でもう一度、ふてくされている郁登の髪を掻き混ぜた。
「今日のサッカーのこと、あとでパパにも教えてよ」
「わかってる」
「じゃあ、パパ、行ってくるから」
「いってらっしゃい」
希海は勇助の見送りのために玄関に立った。
「怪我には気をつけてね。勇くんも立派な中年なんだから」
「俺は大丈夫だよ。週一でグリーンブルズのコーチをやってるから、ほかの奴らとは普段の運動量が違うよ。あ、二次会には本当に行かないから。一次会が終わったらすぐに帰ってくる」
「どっちでもいいってば。勇くんの好きにしなよ」
希海は勇助の首もとに手を伸ばし、一部裏返っていたフードを直した。これから勇助は中高時代の部活仲間とフットサルに出かける。夕方までコートを駆け回り、夜には飲み会が予定されているそうだ。希海がこの話を打診されたのは三週間前の平日の夜で、勇助から「休んでもいいかるたの練習の日とか……ないよね?」と上目遣い気味に訊かれたときには、彼がなにを言いたいのかよくわからなかった。
「休んでもいい練習ってどういうこと?」
「部活のときの奴らと二月中に集まって、フットサルをやろうかっていう話になったんだけど、日曜より土曜を希望する人のほうが多いんだよね」
「ああ、そういうこと。わかった。その日は私がかるたを休むよ」
希海は即答してマグカップに口をつけた。通販で取り寄せたたまさかの豆で淹れたコーヒーだ。店で飲んでいたものとは多少風味が異なるが、それでも充分おいしい。希海はマグカップに鼻を寄せ、香りを堪能した。
「でも、二月の最後の日曜にもグリーンブルズの監督たちと飲む予定が入ってるから、さすがに……」
「ああ、まあね。でもフットサルは久しぶりなんだし、行ってきたら?」
「本当にいいの?」
「いいよ。行きたいんでしょう?」
「かるたを休むことになっても平気?」
「大丈夫だってば」
自分から言い出しておきながら困惑しているような勇助の様子がおもしろく、希海は彼の頬をつついた。「私はかるたを長く続けたいの」
「あ、うん」
「長い趣味になったらいいなって思ってるの。それこそ、勇くんのサッカーとかフットサルみたいに。もちろん、これからも一生懸命かるたをやる。練習にはなるべく参加したい。今月はもう休むつもりはないからね。でも、行けないときがあるのも当然なんだよね」
勇助はほんの一瞬、呆けたような表情をした。それを目にしたとき、結婚や子どもの誕生を機に、この人もいろんな取捨選択をしてきたのだと希海は初めてわかったような気がした。
勇助が軽く跳ねてリュックサックの位置を調整し、ドアノブに手をかけた。
「じゃあ、グリーンブルズのみなさんによろしく。コーチを休んで申し訳ないって言っておいて」
「了解」
希海は手を振り、それからふと思いついて勇助の背中に尋ねた。
「フットサルにもポジションってあるの?」
「えっ、もちろんあるよ」
ドアを数十センチ押し開けた姿勢のまま勇助は振り返った。外の光が玄関に差し込む。今日は快晴で、二月の朝とは思えない陽気だった。
「勇くんのポジションはなに?」
「随分と今さらだね。希海は俺のフットサルには興味がないのかと思ってた」
勇助は笑った。「俺はサッカーで言うところのフォワード」
「点取り屋だったんだ。がんばってね」
「がんばってくる」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
希海は勇助を送り出すと脱衣所に向かった。脱水の終わった衣類を洗濯機からカゴに移す。それをベランダに運ぶ途中、ダイニングテーブルの真横をとおり、郁登に「食べ終わったんだったら着替えて。遅れるよ」と声をかけた。
「今、やろうと思ってた。ねえ、ママ、あとでパパに見せられるように、今日の練習のときに動画を撮ってよ」
「ああ、そうだね。それがいいね」
「ちゃんと撮ってよ。最近の俺のボールタッチ、まじで神だから」
「はいはい」
希海はリビングの掃き出し窓を開け、サンダルに足を突っ込んだ。今朝は本当にいい天気だ。雲ひとつない。目をすがめて外を眺める。マンションのエントランスや公園の片隅に赤や白の小さな点が集まっていた。桜にはまだ早いから、きっとあの花だろう。
それもまた、春の宣言だった。
(つづく)