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 一旦深くまで沈んだのがよかったのか、希海は少しずつ調子を取り戻していった。驚いたのが、あの日を境に〈あはれ〉の歌が明瞭に聞こえるようになったことだ。一度は〈れ〉の音を耳が捉えるのと同時に札に触れる、会心の取りもできた。希海にとって〈あはれ〉はもう印象の薄い歌ではなかった。

 競技かるたが小倉百人一首を使ったスポーツでよかった。希海は心からそう思った。実際は、読みが始まった瞬間に音以外のことを気にかけている余裕はない。〈あはじ〉と聞いていちいち郁登の顔を思い浮かべていては、相手に札を取られてしまう。それでも読まれるのが和歌だからこそ、札と通じたような感覚がふいに訪れることがある。理屈の上では、五十音をランダムで五七五七七に入れ込んだ短歌もどきを百個作り、それを用いても、現行と同じルールで遊べるはずだ。日本語に馴染みのない外国人や古語と接点のない子どもにとっては、今のかるたも最初はこれに近いだろう。だが、現行と同じゲーム性を有していても、意味のない五七五七七では、ここまで多くの人は魅了されなかったのではないか。恋をうたったものも季節を詠んだものも、和歌はどれもが切実な響きを内包している。希海には、その響きが時折こちらに手を伸ばしてくるように思えてならなかった。

 十月の最後の練習会で、希海は敗北して以来、初めて大塚と対戦した。希海の集中力はほぼもとに戻っていたが、やはり大塚の反応は速く、勝負は互いに一枚ずつを残した運命戦にまでもつれた。運命戦は自陣の札が先に読まれたほうがほぼ勝つ。運を天に任せることからこの名前がついたらしかった。

 希海の最後の一枚は〈たち〉だった。六枚ある〈た〉札のうち五枚はすでに出ていて、決まり字は〈た〉に変わっているはず。希海は指を折って確認した。一方、大塚の陣に並んでいるのは〈あまつ〉。共札の〈あまの〉が読まれ、〈あま〉決まりになったことまではわかっているが、〈あまつ〉以外の〈あ〉札、十五枚がどこまで読まれたのかは判然としない。大塚は把握しているだろうか。希海は彼の表情を窺ったが、特に不安げな様子は見られなかった。

「〈ひとにしられで くるよしもがな〉」

 ひとつ前に読まれた歌の下の句が始まり、希海は構えの体勢に入った。とにかく〈た〉と聞こえたら右下段を守る。それだけを思った。

「〈ゆらのとを――〉」

 空札だ。希海は大きく息を吐いた。お手つきが怖い。似ても似つかない音の札に触れて負けた前回の記憶が恐怖として身体に刻まれているのを感じる。〈た〉以外の音は無視すること。希海は自分に言い聞かせ、次の歌を待った。

「〈あ――〉」

 大塚の手が〈あまつ〉に向かう光景をスローモーションのように感じた。一枚の札がほぼ真横に吹っ飛ぶ。また負けた、と希海が思ったとき、

「〈――さぢふじうの ののしのはら しのぶれど――〉」

 歌の続きを耳が捕まえた。これは〈あまつ〉ではない、〈あさぢ〉だ。希海はすかさずお手つきのペナルティとして〈たち〉の札を送った。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 勝った。希海は礼をしたまま畳に倒れ込みたいほどの安堵を感じた。大塚は額に手を当て、「嵯峨さが天皇の曾孫ひまごにやられました」と苦笑した。

「嵯峨天皇?」

「〈あさぢ〉を詠んだ参議等さんぎひとしは嵯峨天皇の曾孫なんです。彼の存在をすっかり忘れていました」

「嵯峨天皇……って、なにをした人でしたっけ?」

「嵯峨天皇は蔵人くろうどのとう検非違使けびいしを設置して、律令制を強めた人ですね。桓武かんむ天皇の息子です」

「えっと、桓武天皇は平安京の?」

「そうです、平安京に遷都したのが桓武天皇です。ちなみに〈あまつ〉の僧正遍昭そうじようへんじようは、桓武天皇の孫ですよ」

 わずか一枚差で惜敗したにもかかわらず、大塚は上機嫌に語った。前回の試合のあと、トイレに駆け込んだ自分との違いに希海は耳が熱くなる。謝罪する代わりにせめて、「大塚さんは本当に札と歌で繋がってるんですね。払いもきれいで、前回もそれに圧倒されて負けちゃいました」と述べた。

「そんなことないですよ」

 大塚は謙遜したが、今後、また彼に負けることがあっても、前のような嫉妬にはもう悩まないだろう。好きな歌は自然と得意札になる。小倉百人一首そのものに思い入れのある大塚がかるたをうまくならないはずがなかった。

「皆川さんは今日もバスで来たんですか?」

 終了時刻が迫り、全員で和室を片づけていたときに大塚が尋ねた。

「はい、今日もバスです」

「皆川さんのご自宅って、あっちのほうでしたよね?」

 大塚が口にした名前の神社は確かに希海のマンションから徒歩五分の場所にあった。毎年家族で初詣に行っている少し大きな神社だ。希海が頷くと、「僕、このあとの予定の関係で今日は車で来たんです。方向もついでなので、よかったら近くまで送りますよ」と大塚は微笑んだ。

「そんな……申し訳ないです」

「本当についでですから。この寒い中、バスを待つのも辛くないですか?」

 今日は朝から強い北風が吹いていた。天気予報によると、木枯らし一号だそうだ。帰りのバス停では定刻から十五分以上待たされることも珍しくなく、ありがたい申し出ではあった。

「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」

「どうぞどうぞ」

 大塚の車は濃い紫色の軽だった。ダッシュボードにはゲームキャラクターのぬいぐるみがふたつ並び、バックミラーからは交通安全の御守りがぶら下がっていた。大塚が車を発進させると、御守りは円を描くように揺れた。

「いやあ、かるたって楽しいですね」

「大塚さん、めきめき上達していますもんね」

「でも僕、決まり字の長い札が苦手なんですよ。全然聞き分けられなくて。特に〈わすら〉〈わすれ〉と〈なげき〉〈なげけ〉と〈わがい〉〈わがそ〉、全部一緒に感じちゃうんですよね。これを克服しないとだめですよね」

「えっ、〈わがい〉と〈わがそ〉はわりと聞き分けやすくないですか? 三文字目の響きが全然違うから」

「確かに。でも、なあんか苦手なんだよな」

 大塚が首をかしげつつハンドルを右に切る。希海はその横顔に、

「大塚さんはなんの歌が一番好きなんですか? 得意な札でも意味が好きな歌でもどちらでもいいんですけど」

 と尋ねた。前々から一度ぶつけてみたいと思っていた質問だった。

「一番ですか? 悩むなあ……。うーん、迷いますけど、やっぱり小野小町の歌かなあ」

「〈はなの〉ですか?」

「そうです」

「意外でした」

 小野小町が詠んだ〈はなのいろは うつりにけりな いたらに わがみよにふる ながめせしまに〉という歌は、月日が流れるにつれて自分の容姿が衰えていくことを、花の色が褪せていく空しさに重ねたものと言われている。その内容から女性に人気の一首という印象だった。

「実はあれはいろんな解釈ができる複雑な構造の歌なんです。ほとんどの言葉がふたつ以上の意味をもっています。小野小町というとどうしても絶世の美女のイメージが強いですけど、本当に優れた歌人だったんですよ」

「あ、そういう観点なんですね」

「皆川さんはなんの歌が一番好きですか?」

 希海は同じ質問が返ってくることをなぜか想定していなかった。不意を突かれて束の間黙る。脳裏にはいくつもの歌が浮かんでいた。最近自分の懐に飛び込んできた〈あはれ〉に、郁登が「冬はさみしいっていう意味なんだよね?」と言った〈やまざ〉、初めて払えた〈もろ〉、天野を連想させる〈あまの〉、喫茶たまさかのマスターの話を聞いてからぐんと身近になった〈みせ〉に、もちろん〈あはじ〉。安定して取れる〈あし〉〈いに〉〈かさ〉も、このあいだうまく突けた〈わび〉も好きだ。好きな歌が得意札になるように、得意札の歌は好きになる。これらの中から選ぼうか。しかし、どうにもぴんとこない。

「あ……」

「どうしました?」

「私も好きな歌はいろいろあるんですけど、一番って言われたら序歌かもしれないです」
 序歌の〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉を耳にすると、これからかるたが始まる緊張と百首の和歌を聞ける喜びで、どうしようもなく胸が昂ぶった。

「ああ、王仁わにの。いい歌ですよね、僕も好きです」

「と言いつつ、意味をちゃんとは知らないんですけど。王仁っていう人が作った歌なんですね」

「よく勘違いされるんですけど、この歌で詠まれている花は桜じゃなくて、梅なんです」

「梅なんですか?」

 希海も桜だと思っていた。大塚は流し目で希海の反応を見て頷いた。

「難波津……今の大阪ですね、あのあたりで冬のあいだこもっていた梅が、今こそ春が来たと言わんばかりに咲いている、という歌です。ほら、梅はまだ寒い時期に春の先陣を切るように開花するじゃないですか」

「すごい。序歌にぴったりですね」

「そうなんです、序歌にぴったりなんです」

「勉強になりました」

 希海がかしこまって頭を下げたとき、左手前方にコンビニエンスストアが見えた。郁登の通う小学校の裏手にある駐車場つきの店舗だ。今までにも何度か買いものをしたことがある。「あそこで下ろしてもらえますか?」と希海は看板を指した。「わかりました」と大塚はウインカーを出した。

「本当にありがとうございました。助かりました」

 助手席のドアを少し開けただけで風の冷たさに顔が強張った。「来週もがんばりましょう」と爽やかに拳を握る大塚に会釈で応えてドアを閉める。去って行く濃紫こむらさきの車を見送り、家に向かって歩き出したとき、

「ママーっ」

 と郁登の声がした。

 希海が振り返ると、片手にレジ袋を提げた勇助と郁登がコンビニエンスストアの前に立っていた。二人揃って紺のベンチコートを着ている。希海は自分でも郁登の顔立ちは母親似だと思っていたが、こうして見ると佇まいは父親にそっくりだった。

「あ、もしかして寄り道?」

 希海は笑いながら二人に近づいた。「いいなあ」

「今日、リフティング対決で俺が一位だったんだ。そうしたら、パパがご褒美にアイスを買ってくれるって」

 郁登が白い歯を見せて笑った。

「この寒いのにアイス?」

「俺は寒くないよ。いっぱい動いたし」

「ママ、今のは?」

 勇助が話に割り込んできた。

「今の?」

「かるたの人? 車で送ってもらったの?」

「ああ、そう、かるたの人。たまたまこっち方面で予定があるらしくて、ついでに送ってくれるって言うから甘えちゃった」

「男じゃなかった?」

「そうだよ」

「ママのかるた会にも男がいるんだ」

「いるよ。うちは少ないけどね」

 男性会員の中では大塚がもっとも出席率が高く、あとは一ヶ月に一度ほど顔を出す社会人が二人と、長期休みに入るとやって来る大学生が二人、それに小学生の琉宇がいるくらいだ。必然的に光のどけき会の練習では男性選手との対戦経験を積みにくく、「うちももう少し増えるといいんだけど」と岡村がぼやいていたことがあった。

 その日の夜、希海がアイロンがけを終えて立ち上がると、ソファでテレビを観ていた勇助が「希海ももう寝る?」と尋ねた。

「……寝るけど」

 返事が遅れたのは、名前で呼ばれるのが久しぶりだったからだ。希海を見上げ、勇助がソファの空いたスペースをぽんぽんと叩く。郁登は一時間前に就寝していた。東京都東部初心者大会のことで喧嘩するまでは、休日の夜は希海の淹れたコーヒーを飲みつつ、夫婦でドラマや映画を観るのが楽しみだった。だが、最近の希海は平日の夜に勇助の帰宅を待つこともやめていた。夕飯は電子レンジで温めればいいように用意して、冷蔵庫に入れている。勇助と一対一で顔を突き合わせるのが億劫だった。

「まだ寝なくてもいいんじゃない?」

「えっ、なに? なんで?」

「いいから、ほら」

 希海はアイロンとアイロン台を床に戻し、勇助の隣に腰を下ろした。

「なに?」

「かるたってさ」

「うん」

「札を取るときに対戦相手と手と手が触れ合ったりするんじゃない?」

「するよ」

 そう答えてから、希海は勇助の言いたいことに気がついた。「まさか、昼間の大塚さんとのことを心配してるの? やめてよ、そういうの」

「へえ。あの人、大塚さんっていうんだ」

「そういう疑いの目で見るの、私にも大塚さんにも失礼だからね」

「別に疑ってはないよ。車から降りて大塚さんに挨拶してるときの希海は他人行儀だったし、そんなに親密な関係じゃないことはわかってる。でもほら、かるたは試合中に手が重なることもあるみたいだから……」

「それはサッカーの接触と同じだよ」

 希海はなかば吐き捨てた。大塚が未婚か既婚か、恋人はいるのか、どんな仕事に就いているのかを希海は知らない。正確な年齢すら把握していなかった。光のどけき会の大人たちは人のプライベートにあまり踏み込まず、過去に経験した試合や他会の選手の状況など、かるたにまつわる話ばかりしている。その生真面目さをけがされたような気がして腹が立った。

「サッカーはふつう男女混合では戦わない」

「でも、サッカーの試合中に仲間や相手選手の性別なんて気にしないよね? 自分と同じ男だなっていちいち思わないでしょう? そういうことだよ。それに私はもう四十。男とか女とかもう関係ないの。勇くんだって去年の私の誕生日に、 ママもついに四十代かって言ったじゃない」

「俺、そんなことを言ったっけ?」

「言ったよ」

「言ったとしたらそれは月日の経過を噛み締めただけで、希海をおばさん扱いしたわけじゃないから」

「どうだか。まあ、私が四十代でおばさんなのは事実だから、別にいいんだけど」

 希海は自分の腿を軽く叩き、「寝ます」と宣言して立ち上がった。話は済んだと思っていた。

「待って」

 勇助に左の手首を引かれ、希海は尻餅をつくようにソファに戻った。

「なに? これ以上そういう話は――」

「二人目、作らない?」

 希海は絶句し、勇助の顔をまじまじと見つめた。話がとんでもなく飛躍したように感じたのだ。勇助の耳は赤く、視線は熱っぽかった。郁登を妊娠したことがわかって以来、勇助とは一度も身体を重ねていない。そういう気持ちになるにはどちらも毎日あまりに疲れていた。

「……無理だよ。なんでそういう話になるの」

「希海も結婚前は、子どもは二人ほしいって言ってたじゃん」

 郁登を出産してからも、この子にきょうだいを、と考えたことは何度もある。だが、希海は郁登しか育てたことがなく、二人目を想像しようとすると、彼をもう一人養育するようなイメージがどうしても頭に浮かんだ。郁登のことは愛している。それでも郁登をふたたびゼロ歳児から育てる気にはなれない。怖い。天井のクロスの継ぎ目を眺める日々に戻りたくなかった。

「とにかく無理だって。無理無理」

「それは妊娠したらかるたができなくなるから?」

 違うと反論しかけて希海は口をつぐんだ。自分の中にその思いが皆無だとは言えなかった。

「俺、ずっと思ってたんだけど」

 勇助はいつの間にか希海の右手首も握っていた。小さな子どもを叱るときのように希海の身体を自分のほうに向け、顔を覗き込んでくる。希海は俯き、勇助の視線から懸命に逃れようとした。

「なに」

「かるたはさ、もう少しあとの楽しみにとっておけばいいんじゃない?」

「どういうこと?」

「自分がそうだったからわかるけど、中学に入ったら子どもは部活だったり友だちと遊びに行ったりして、ほとんど家にいないよ。一人で留守番もできるようになる。希海はそれからかるたに打ち込めばいいんだよ。そうすれば練習も大会も自由に行ける。子育てはそのうち必ず終わるんだって」

「……勇くんはそう言うけど」

 声がかすれた。希海は咳で喉を整え、

「勇くんはそう言うけどっ、今すぐ妊娠して子どもが生まれたとして、その子が中学生になったときには私は五十四だよ? 今ですら頭も身体も若い子みたいには動かなくて、学生時代にかるたと出会えなかったことが悔しくて、あと四年、郁登が中学に入るのも待てないのに、十四年なんて絶対に無理。それに、あと数年したら更年期も始まるかもしれない。腰だって膝だって、きっとどんどん痛くなる。勇くんはかるたのことをなにも知らないからそんなふうに言えるの。私にはあとの楽しみにとっておく余裕はないんだよっ」
 と言い立てた。視界の端に勇助の困惑した顔が映る。勇助に怒りの色はなく、こちらに対する憐憫すら感じさせる表情だった。

 

(つづく)