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 郁登は流行の先端にいたようだ。郁登が復帰した火曜から近隣の小中学校で病欠が急増し、スパリカでもパートを休む人が続出した。希海はここぞとばかりにシフトを代わった。スパリカのパートには子持ちが多く、持ちつ持たれつの輪に加わらなければ平穏に働くことはできない。同じマンションの住人に紹介してもらった、子どもが小さいうちは平日の昼間のみのシフトでいいと言ってくれる職場は貴重で、手放したくなかった。

 本日ぶんの勤務を終えた希海は自転車のハンドルを握った姿勢で空を仰いだ。うろこ雲が一面に広がっている。辛い、と率直に思った。郁登の看病疲れを引きずったまま四連勤に突入してしまった。おいしいコーヒーを飲みたいが、自分で淹れる元気はない。希海の頭に喫茶たまさかの看板がふと思い浮かんだ。さっと飲んで店を出れば郁登の帰宅に間に合うだろう。自分の思いつきに励まされ、希海は自転車を漕ぎ出した。

 古い町工場を寄せ集めたかのような区画を進む。丸と三角で構成されたシンプルな看板を見上げ、来るのがまた久しぶりになってしまったと思った。去年の十二月、かるたの定位置を考えるために訪れたとき以来だ。木製のドアを開けると、希海はまたたく間にコーヒーの香りに包まれた。

 店内には三人の客がいるだけだった。希海に気づいたマスターが目を見開くやいなやすぐに細めて、「ようこそいらっしゃいました」と会釈した。希海はもっとも気に入っている窓際の席に座った。

「ブレンドをお願いします」

「かしこまりました」

 コーヒーを口に含んだ瞬間に生き返ったと思った。喉を伝う感覚までもが心地いい。希海は来週に誕生日を迎える予定で、ケーキも食べようかと迷ったが、また時間に余裕があるときにしようと考え直した。十五分ほどでコーヒーを飲み干し、席を立った。

「今日もおいしかったです。すみません、慌ただしくて。また来ます」

 マスターに挨拶して店を出た。自転車を解錠していると、からんころん、とベルの音がして、マスターが駐輪場に姿を現した。忘れものだろうか。希海は反射的に上着のポケットを叩いた。

「お客さま」

「はい」

「実は今年いっぱいで店をたたむことになりました。平素よりお客さまには大変お世話になりました。誠にありがとうございました」

 希海は目の前がさっと暗くなるのを感じた。あと一ヶ月で喫茶たまさかがなくなる。あのコーヒーが飲めなくなる。立っているのもやっとの衝撃だった。

「ど、どうして……」

「端的に申しますと、田舎に帰ることになりまして」

「田舎……。宮城、でしたよね?」

「はい。覚えていてくださったんですね」

「もちろんです」

 マスターと〈みせばやな〉の歌について話したときのことははっきり覚えている。あれ以来、希海は〈みせ〉を宮城県の札として認識するようになった。宮城県は会社員時代に仙台の街中に行ったことがあるだけだったが、札の向こうに東北の太平洋が見えるような気がしていた。

「昨年父が亡くなり、いよいよ一人になった老母の面倒を見る人間が必要になりまして。一応、私が長男なものですから」

「そうでしたか……」

「親も親族も閉鎖的な人間で価値観が古くて、私は故郷を捨てるつもりで上京したんですけどね。でも、お客さまと〈みせばやな〉の和歌の話をしたときに、自分にも意外と郷愁の念があったことに気づいたんです」

 マスターは鼻の頭を掻き、「気づいてからも心が決まるまでは時間がかかりましたが」と笑った。希海が初めて日の光のもとで見るマスターの顔にはこまかな皺が刻まれ、ごま塩頭と顎髭は白っぽかった。こめかみ付近にはコイン大の染みもある。思っていたよりもいくらか年上だったかもしれなかった。

「……残念です」

 ショックが大きく前向きな言葉を口にできない。暗い表情を見られるのが申し訳なくて、希海は俯いた。

「それと、もうひとつ理由があるんです」

 マスターの優しげな声に希海は顔を上げた。

「はい……」

「父親が亡くなる直前に、私は長年交際していたパートナーとひどい別れ方をしたんです。まさに血の涙を流すような」

「あ、〈みせばやな〉」

 マスターは恋愛や結婚に興味がないとばかり思い込んでいた希海は驚いたが、努めて顔には出さなかった。

「そうです。〈みせばやな じまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはからず〉。だからこの歌を暗唱できたときに、少しだけ故郷と和解できたような気がしたんですよね。いや、これは格好をつけすぎました」

 マスターは照れたように微笑んだ。「それがじわじわと効いてきて、なんとか帰る決意が固まった次第です。お客さまには閉店を直接お伝えしたかったもので、お目にかかれてよかったです」

「いえ、ご丁寧にありがとうございます。たまさかさんのコーヒーが飲めなくなるのは本当に……辛いですが……」

「あっ、飲めますよ」

「えっ」

「故郷での生活が落ち着いたら、豆の通販を始める予定なんです。具体的な話も進んでいますので、それほどお待たせすることはないかと――」

「つ、通販してくださるんですかあっ」

 喫茶たまさかはコーヒー豆を店頭販売していなかった。水や淹れ方のこだわりまで守って初めて「喫茶たまさかのコーヒー」になる、自分の淹れた最高の一杯を味わってほしいからこそ豆だけでは売らないのだと、マスターが前に話しているのを聞いたことがあった。通販は夢のまた夢だと思っていた希海は喜びのあまり肌が粟立つのを感じた。

「最初はその予定はなかったんですが、さみしがってくださる常連さんが思いのほか多くてですね……。自分のコーヒーを少しでも長く残すために形を変えてみようかと思い直しました。今はむしろ軽やかな気分です」

「すごく……すごく嬉しいです。私、絶対に買います。ネットショップの名前はもう決まっているんですか?」

「たまさかの名前をそのまま引き継ぐつもりです」

「わかりました。オープンを心待ちにしています」

「よろしくお願いします。申し訳ない、長々と引き留めてしまいました」

 希海は郁登の下校時刻を思い出し、慌てて自転車に跨がった。マスターに頭を下げてペダルに足を置いたとき、

「お客さまは今も競技かるたをやっていらっしゃるんですか?」

「は、はい」

「がんばってください。宮城から応援しています」

 マスターが柔らかな笑みをたたえて頷く。希海は先ほどより深い礼をして、自転車を発進させた。

 

 小さなホールのショートケーキに長いロウソクが四本と、短いロウソクが一本刺さっている。勇助がライターで火を点け、部屋の明かりを消した。

「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア、マーマー、ハッピバースデートゥーユー」

 勇助と郁登の合唱に合わせて希海は火を吹き消した。

「ママ、おめでとう」

「ママ、おめでとう。ねえねえ、ママの誕生日だから、今日はママがチョコレートの飾りのやつを食べていいよ」

「はーい、パパも郁登もありがとう」

 希海は二人と共に自分でも拍手しながら応えた。勇助がふたたび部屋に明かりを点け、ケーキを切り分けた。今年も仕事を早めに切り上げて買ってきてくれたのだ。今日はママが食べていいよ、と言ったはずの郁登は、希海が〈ママ〉と書かれたプレートを一口かじった途端に「おいしい?」「甘い?」「結構硬いの?」と質問をたたみかけた。希海は「しょうがないなあ」と笑い、半分に割ったプレートの片方を郁登の皿に置いた。

「やばっ、うますぎるっ」

 口の回りにチョコレートをつけて郁登が叫ぶ。希海は勇助と目を合わせて笑った。

「パパと郁登に相談があります」

 全員がケーキを食べ終わったところで希海は切り出した。

「なにー?」

 素直な反応を見せる郁登の正面で、勇助がわずかに顔を強張らせたことに希海は気づいた。なにを言われるかわからず緊張しているらしかった。

「えー、ママがかるたを始めてもうすぐ一年になります。この一年間の力試しに、年始にあるかるたの大会に出たいです。勝った回数によっては家に帰るのが遅くなります。家のこととか、二人にも協力してほしいです」

 三週間前、かるた会のメーリングリストに迎春全国大会の案内が届いた。希海も興味を惹かれたが、案内を読んだときには勇助とそんな話ができる関係では到底なく、一度は諦めた。しかも、E級の部の開催日は一月の第一土曜。まだ松も明けていない。郁登は冬休み中で、グリーンブルズの練習も休み。出たいと思うこと自体にためらいがあった。

 だが、毎年行われる迎春全国大会は、競技かるたの大会の中でも大規模なものだという。日本各地からE級の部には四百五十人弱が出場するそうだ。希海は奈穂からその話を聞き、やはり行きたいと思い直した。奈穂が圧巻だと言う、それだけ多くの人が同時にかるたを取る光景を自分も見てみたい。そして、そこで自分のかるたがどこまで通用するかを試したかった。

「ママが行きたいなら行けばいいじゃん。なんで相談なの? 俺、洗濯物を干したりたたんだりできるし」

 郁登が言った。

「そうだよな」

 勇助は苦笑した。もっと無理難題を突きつけられると思っていたのか、拍子抜けした様子でもあった。「行ってきなよ。郁登と留守番してるから」

「ありがとう」

 希海は口もとを引き締め、大きく頷いた。

 

(つづく)