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 教室を出ると日はとっくに暮れていた。一緒に駅まで行くことになった伊藤と有馬は手を繋ぎ、希海と郁登の少し前を歩いていた。街灯に薄められた闇の中に建物の光が点々と灯っている。都会の夜は田舎の星空みたいだ。希海が少し深めに息を吐くと、白いもやが口から溢れた。

「郁登くんが入会してくれて、本当に嬉しいです」

 伊藤が歩きながら振り向いた。「俺、もっとかるたがやりたい」と郁登が騒ぎ立てる。郁登が車道にはみ出さないよう、希海は彼の袖を引いた。郁登は去年の秋くらいから、同年代が近くにいるときには親と手を繋ぐのを嫌がるようになった。一人称が「いっくん」から「俺」に変わるのと同じころだった。

「私こそ、いい教室を紹介してくれてありがとう。まさか、郁登にここまで集中力があるとは思わなかった」

 郁登は十八枚を取り、五人中二位だった。最後の一枚を巡り、勢い余った子ども同士の手が衝突しないよう、ちらし取りは札を場に三枚残して終わることになっていた。一時間以上に及ぶ試合の九十七枚目に読まれた〈せ〉札を郁登は押さえた。ほかの誰よりも勢いのある動きだった。

「希海さんも疲れたんじゃないですか? 天野先生は、隙あらば親にもかるたを普及しようとするから」

「先に言っておいてほしかったです。こんなに頭を使ったのは久しぶりで……」

 希海は十五枚の三位に終わった。〈あはじしま〉以外に会心の取りはなく、子どもたちの記憶があやふやな札をかろうじて拾う形だったが、なんとか面目は保てたと感じていた。

「まさか本当にやるとは思わなくて……」

「えっ」

「先生がどんなに誘っても、やらない親のほうが多いですよ」

「そうなんですかあ」

 思わずこぼれた希海の情けない声に、伊藤は白い歯を見せて笑った。

「でも、希海さんは本当にすごかったです。特にあの、〈あはれ〉と〈あはじ〉の共札。始めたばかりには見えなかったです」

「有馬くんもすごいですよ。落ち着いて試合してましたね」

「それは、私が有馬に厳しく言い聞かせているからですね。かるたは礼儀が大事だって。泣いたり暴れたりする子に、あの場にいる資格はないって」

 駅に到着した。四人で縦に並び、改札を通過する。ホームに向かう階段の途中で、「伊藤さんはかるたの経験者なんですか?」と希海は尋ねた。

「高校の部活で競技かるたを始めて、大学を卒業するまでやっていました。私はB級までしかいけなかったんですけど」

「B級?」

「競技かるたの公式の級の、一応、上から二番目の級です。天野先生はA級なんですよ」

「俺もA級になりたい」

 郁登が上げた声に、「ぼ、僕もっ」と有馬が続く。「俺のほうが先だよ」「僕もがんばるもん」と騒ぎ出した二人に、伊藤は「全部の決まり字を完璧に覚えないと始まらないよ」とぴしゃりと言い放った。

「あ、電車が来ました。あれに乗りましょう」

 希海はホームに滑り込む電車を指差し、伊藤に声をかけた。車内は都心から帰宅する人たちでやや混雑していた。

「希海さんも、郁登くんと一緒に決まり字を覚えるといいですよ。希海さんが練習相手になれたら、郁登くんはもっと強くなります」

 ひとつ飛ばしで空いていた席に郁登と有馬を座らせ、希海と伊藤はつり革に掴まった。希海は伊藤に「そうですねえ」と返した。覚えてみたいという気持ちと、我が子の才能を伸ばすためなら、という思いと、百枚の果てしなさに圧倒される感覚が胸の内側でぶつかり、曖昧な返答しか出てこなかった。

「あ、そうだ。伊藤さんの下の名前を聞いてもいいですか?」

 希海は話題を変えた。天野が「希海さん」と呼ぶようになってから、伊藤にも下の名前で呼ばれている。自分も同じようにしたかった。

咲千さちです、伊藤咲千。一字決まりの〈さ〉札と、三枚ある〈ち〉札が得意です」

 咲千がいたずらっぽく目を細める。電車が地元の駅に着いた。

 

 郁登は週に二回、火曜も木曜もあまのはらかるた教室に行きたがった。希海が持ちかけた相談に、勇助は一瞬、「月一万円弱か……」と険しい顔になったが、「郁登が夢中になってるんだから、いいか」とすぐに頷いた。正式に入会すると、郁登は百首すべての取り札と決まり字が書かれたプリントを天野からもらった。郁登は毎日それを眺め、家庭用プリンターで印刷したらしいコピー用紙の束はあっという間に皺だらけになった。

 結局、希海も決まり字を覚えた。郁登からしょっちゅう「問題を出して」とプリントを渡されるために、十五首は特段努力しなくても記憶に定着した。二十数首は郁登が暗記に手こずって癇癪を起こし、二人で語呂合わせを考えるうちに把握した。「〈あらし〉の札の下の句は〈たつた〉から始まるから、嵐の中で竜田揚げを食べるって覚えようか」と提案して、郁登に「なにそれ」と笑われたとき、希海は中学時代にも年号の語呂合わせで友人から大笑いされたことを思い出した。

 これにもともと知っていた三首と、初回に学んだ一字決まりの〈む〉〈す〉〈め〉〈ふ〉〈さ〉〈ほ〉〈せ〉、教室に赴くたびに学ぶ五首を足せば、過半数は容易に超えた。せっかくだからという気持ちが芽生えたのは、このあたりからだった。希海は暗記用の単語帳を作り、一人でも復習を重ねるようになった。

 暗記が進むに従い、家で札を広げる頻度も増えた。最近は天野に教わった小倉百人一首の読み上げ専用アプリを使い、郁登と対戦している。札を並べた瞬間に手もとの札の決まり字を確認し、競技中も札の位置を何度も確めて、少しでも速く取ることを二人で意識した。「一字決まりは子どもが速いのよ」という天野の言葉どおり、よほど自分の近くにない限り、希海は〈む〉〈す〉〈め〉〈ふ〉〈さ〉〈ほ〉〈せ〉の札には触れることもできなかった。

「ああ、つまんない」

 天野家の門を出た途端、郁登は片足で地面を強く踏みながら言った。

「あのね、郁登。先生の前でそういうことを言わないの。先生も困ってたよ。先生だって忙しいんだから」

「大掃除するから?」

「あと、お客さんもいっぱい来るんじゃない? 郁登だって、神奈川のじいじとばあばのところにいくでしょう? それと同じだよ」

「でも休みすぎだよ」

 年末年始のため、十二月の終わりから一月の頭までは教室を休みにする。天野からそう聞かされた日の帰り道だった。今日は咲千と有馬は欠席だった。咲千の咳がとまらないらしい。〈ゆっくり休んでね〉と希海がメッセージを送ると、〈ありがとうございます〉という返信に続き、〈かたじけなし〉と書かれた、百人一首の絵札ふうイラストのスタンプが届いた。この人は本当にかるたが好きなんだな、と希海はつい笑った。

 前々回から郁登はポニーテールの女の子、なつに勝てるようになった。決まり字の暗記もさらに進み、天野からは、「今、郁登くんはかるたが楽しくて楽しくて仕方がないときね」と言われている。「あっ、〈さ〉だ」と、郁登が赤い車のナンバープレートを指差した。その姿勢のまま「〈さ〉は、〈いこ〉」と下の句の始まりを確認し、希海の顔を見上げてにんまりと笑う。駅近くのドラッグストアの前をとおったときも、〈これがあなたの最終本命美容液!〉というポスターに、「〈これ〉は……えっと、〈しる〉かな」と反応した。郁登は町中のあらゆるものから百人一首の欠片かけらを見つけ出すようになっていた。

 地元の駅から自宅マンションまでは、郁登の足で十分くらいだ。大通りから一本裏手に入ると急に車の音が遠くなり、人の気配が薄くなる。都会の道だから真っ暗ではないが、微妙に心細い。希海が歩く速度を上げようとしたとき、郁登が立ちどまった。

「ママ、〈やまざとは〉だね」

「え? どれが?」

「〈やまざとは ふゆぞさみしさ〉……続きは忘れちゃったけど、これは冬はさみしいっていう意味なんだよね?」

「……あ」

 希海も立ちどまり、あたりを見回した。ここは山里ではないが、郁登が言いたいことはわかった。世界に一人取り残されたような冬のさみしさ。その感覚が〈やまざとは〉の歌と重なったのだ。今までなにげなく歩いていた道が、すごしやすいか否かしか気にしていなかった季節が、自分たちに和歌を目配せしているように感じた。希海は郁登と繋いでいた手に力を込めた。周りに同年代がいなければ、むしろ郁登のほうから手を握ってくる。小さな手は柔らかく、湿っていて熱かった。

 百人一首を、ちゃんと覚えてみようか。

 決まり字だけでなく、札としてだけでなく。希海はそんなことを思った。天野の説明を週に二回聞くことで、歌の内容はだいぶ理解できるようになった。百人一首は決して無意味な音の羅列ではなく、大昔に人が思いを込めて詠んだものだった。どうせ暗記するなら、上の句と下の句を合わせた三十一字を丸ごと頭に入れたほうが、自分が郁登の対戦相手として役に立てなくなったあとも意味のあるものが残るような気がした。

「郁登。〈やまざとは〉の決まり字は?」

「〈やまざ〉っ」

「下の句の始まりは?」

「なんだっけ。〈ひとみも〉? 〈ひとみむ〉?〈ひとむめ〉? あれっ? 知ってるのに思い出せない。ママは? 正解がわかるの?」

「実はママも思い出せない。なんだっけ」

「ママもなのお? じゃあ、なんで俺に問題を出したんだよ」

 笑い、呆れ、怒った郁登が力任せに希海の手を前後に振った。今日はパートが休みで、昼間にクリームシチューを作っておいた。希海はシチューに喜ぶ郁登を想像しつつ、残りわずかな帰路をなるべくゆっくりと歩いた。

 

 

(つづく)