意識が泡のように浮上して、希海は瞼を開けた。手探りでスマートフォンを掴む。時刻は五時五十三分。アラームが鳴る七分前だ。設定を解除し、ベッドから起き上がった。隣で眠る郁登は腹部が丸出しで、足もとで丸まっていたタオルケットを広げてかけた。八帖の洋間にシングルベッドを二台並べて隙間パッドで溝を埋め、そこに親子三人、川の字で寝ている。今年度中には子ども部屋を設える予定で、この寝顔を見られる日々も残りわずかだろう。
なるべく音を立てないように寝室を出た。夏場の六時は明るい。食パンをトースターで焼いているあいだに洗濯機を回し、まずは朝食を済ませた。それから大会に持っていくおにぎりと、夕飯のカレー作りに取りかかる。献立がカレーの際には甘口を大盛り二皿ぶんと辛口を四皿ぶん作る。都合六人前の野菜を切るのは手間だが、これで夕飯作りを一回休めるかと思うとやる気になった。
ボリュームを絞り、小倉百人一首の読み上げ専用アプリで音声を流した。今日の東京都東部初心者大会で初戦から動けるよう、耳を慣らしておこうと思ったのだ。だが、やはり子音は聞き取れない。競技かるたにおいて、音に対する反応のよさは「感じがいい」という言葉で表現されている。希海が今までに対戦した相手の中でもっとも「感じがよかった」のはA級の岡村ではなく、C級小学生の茉衣子だろう。茉衣子と対峙しているあいだ、希海は時空が歪んでいるような感覚に絶えず襲われていた。ただし、子音に反応する身体を制御しきれないのか茉衣子はお手つきも多く、自分で増やした札を自分の取りで減らしていたというのが彼女のかるたに対する印象だった。
二種類のカレーが完成した。そろそろ勇助と郁登を起こそうかと時計を見たとき、寝室から着信音が聞こえてきた。勇助のスマートフォンだ。土曜の朝に電話とは珍しい。勇助が応じたらしく音が途切れる。もしや義父母の身になにかあったのか。希海が心配になったとき、ドアが開いた。
「仕事、仕事が入った」
「えっ、これから?」
「この数ヶ月スカウトしてた外科医の凄腕先生がいるんだよ。条件面で折り合いがつかなくて交渉決裂したはずだったんだけど、その先生が、今日ならもう一回話を聞いてもいいって上司に連絡してきたんだって。これは九十九パーセント、気が変わったってことだと思う。会社で上司と打ち合わせしてから先生に会ってくる。そのまま接待みたいな流れになったら遅くなるかも」
頬を上気させた勇助は饒舌に喋った。コップの牛乳を立ったまま一気に飲み干し、食パンにかぶりつく。「俺が休むこと、グリーンブルズの監督にはママから連絡しておいて」と言う勇助に、希海は戸惑いながら、
「私、今日かるたの大会なんだけど」
と返した。
「あ……」
勇助は顔を小さく引き攣らせた。仕事が急展開を迎え、希海の大会のことは頭から吹き飛んでいたらしかった。視線が泳ぎ、束の間まばたきが増える。「あー、でも、それは別に今日じゃなくてもいいよね?」
「なにが?」
「今日のは欠場して、今度、別の大会に行けばいいよ。大丈夫、俺もちゃんと覚えておくから」
希海は頭蓋骨に穴を開けられ、そこから古くて臭い油を流し込まれたような気がした。思考回路がもったりとしてうまく働かず、言葉が出てこない。そんな状態で今言われたことを反芻する。光のどけき会の森も義妹の絢子もママ友の留美も、みんな勇助のことを優しいと言っていた。その人となりを今、必死に見出そうとする。だが、できなかった。
「……でも、私の約束のほうが先だよね?」
勇助が仕事に行かざるを得ないのはわかっていた。自分が大会を欠場することになるのも致し方ないだろう。ただ、勇助がまったく悪びれていないことが許せない。確かに彼自身に落ち度があったわけではないが、あまりにこちらへの寄り添いが足りないではないか。やはり妻がかるたの大会に出ることにもともと納得していないから、そういう態度でいられるとしか思えない。希海は再度、「私の約束のほうが先だった」と口にした。
「え? それは俺に仕事に行くなって言ってるの?」
勇助は言葉の通じない人間を見るような目を希海に向けた。「優先順位の感覚がおかしくない?」
「行くなとは一言も言ってない」
「そういう意味にしか取れないんだけど。しかも夫の仕事が大事な局面を迎えたってときによく言えるね。ちょっと信じられないわ」
「私のかるたも大事なことなんだけど」
ドア一枚を隔てたところに郁登がいることを意識して抑えていた声が、互いに大きくなっていく。勇助が鼻で笑った。
「かるたが大事って、それは趣味じゃん。俺は仕事なの」
「そうだよ、趣味だよ。趣味のことだから真剣に話してるの。え、趣味より仕事のほうが偉いの? すごいの?」
「さっきも言ったけど、優先順位の問題だから。仕事と趣味では大事の意味合いが違うよね? 俺、そんなに難しいことを言ってないと思うんだけど。ママってそんなに聞きわけが悪かったっけ?」
希海の頭の奥でなにかがちぎれるような音がした。
「私が今日のためにどんなに練習――」
「俺だってママを応援してるよ。もしママの今日の予定がA級の試合とかクイーン戦とかだったら、俺も仕事には行かなかった。外科医の先生との話し合いは上司に任せて、俺は休みにしてもらったと思う。でもママが行こうとしてるのは初心者向けの小さな大会だよね? 代わりになる大会なんていくらでもあるんじゃないの? なのに俺に仕事を休めって言うの?」
「だから、休めとは言ってないっ」
寝室から湿った足音がして、「ママあ?」と郁登が顔を覗かせた。まだ半分眠っているのか、目が開いていない。「ママとパパ、喧嘩してるの?」
希海は大仰なほどの笑顔を作った。
「おはよう。ごめん、起こしちゃったね。でもほら、ちょうどご飯の時間だよ。今日のサッカーはママと二人で行くからね」
「パパは? コーチしないの?」
「郁登、ごめんな。パパは――」
「パパはお仕事が入ったんだって。だから今日はママと二人ね」
勇助の言葉を笑顔のまま遮る。郁登が不思議そうに首をかしげた。
「ママは今日はかるたの大会でしょう?」
「それはまた今度になったの。ご飯を用意するから、手を洗っておいで」
「はーい」
なにかを察しているのか今朝の郁登はいやに素直だった。郁登が脱衣所に向かうなり、希海は踵を返してトースターに食パンを入れた。視界から勇助を追い出したかったのだ。それは彼も同じらしく、希海を寄せつけない雰囲気を発して身支度を調え始める。一方で、「今日の練習がどうだったか、あとでパパに教えて」と郁登に話しかける口調はいつもより甘い。こういうときに子どもの存在を少しでも自分に引き寄せたいのは夫婦どちらも同じようだ。スーツに着替えた勇助が「行ってくる」と食事中の郁登の頭を撫でた。
「ねえ」
希海は勇助を追って玄関に向かった。靴を履いていた勇助が顔を上げる。希海が謝罪の言葉と共に見送りに来たと思ったのだろう。勝ち誇ったような色合いが口もとにかすかににじんでいた。
「なに?」
「ひとつ訂正して」
「なにを」
勇助が真顔に戻った。
「今日の私の大会がA級の試合でもクイーン戦でも、パパは仕事に行った。お義母さんに連絡して、今すぐうちに来て郁登の面倒を見てほしいって頼むくらいはしてくれたかなあ。あ、これも私にさせるか。とにかくパパが仕事を休むことは百パーセントなかった。絶対に」
「なんでそんな――」
「パパにかるたを応援されてるって、私、感じたことない」
勇助が唇を噛んだ。玄関に沈黙が落ちる。突如リビングからテレビの音が流れてきた。食事を終えた郁登がスイッチを入れたようだ。底抜けに明るい女性の声が「まだ夏は終わらない? 駆け込み花火大会情報ーっ」とタイトルコールしている。勇助が黙ってドアを押し開け、三和土に光が差し込んだ。そのまま勇助は無言で出て行った。
これほど派手に勇助とぶつかったのはいつぶりだろう。
キッチンに戻った希海はどろどろのカレーのついたおたまを洗いながら考えた。答えはすぐに見つかった。仕事を辞めると決断したときだ。乳児期の郁登は寝起きがおそろしく悪く、また、気に入らないことがあると長時間にわたって泣き喚いた。郁登を保育園に連れ出すたびに大騒ぎになるのはわかりきっていたことだった。退職を決意するまでには散々悩んだ。新卒で入ったコーヒー豆を扱う会社は希海の第一志望で、同僚にも恵まれた。だが、郁登が受かった保育園は第四希望のところで家から少し遠く、希海は自分が毎朝の試練を乗り越えられる気がしなかった。
「私、やっぱり職場復帰は諦める。郁登にはまだ集団生活は早いような気もするし、そのほうがいいと思うんだよね」
ある晩、希海は勇助にそう告げた。その日の夕飯が大人から子どもに取り分けやすい親子丼だったことをなぜかはっきり覚えている。丼鉢から顔を上げた勇助の第一声は、「それって決定事項?」だった。
「いろいろ考えたけど、しょうがないのかなって。だめ?」
「マンションのローンのことを考えたら、俺としては復職してくれたほうが助かるんだけど。休日は俺も家のことをやってるし、なんとかならないの?」
今思い返せば、それほど目くじらを立てるような発言ではなかったのかもしれない。ただ、産後一年近くまとまった睡眠時間を取れずにいた希海の神経は逆撫でされた。金銭のために過酷な挑戦を自分一人が強いられたような気がした。まるで人身御供のようにすら感じたのだった。週に一回昼食を作り、あとは妻に言われた家事を手伝う程度で「家のことをやってる」と言うな、とも思った。希海が「ならないよ。ならないから諦めるのっ」と激高し、手近にあった台拭きを投げつけると、勇助も投げ返してきた。その後は激しい言葉の応酬だった。
あれから七年以上、大きな喧嘩がなかったことを鑑みれば、自分たち夫婦は仲がいいほうなのかもしれない。周りにはそう思われているとも感じる。だが、希海の中で勇助の存在感は日に日に薄くなっていた。恋人同士だったころや新婚当時のように、彼が心に常駐しているとはとても思えない。
希海は洗いものを終えるとスマートフォンを手に取った。グリーンブルズの監督宛に勇助が休む旨を綴ったメッセージを送り、一呼吸置いてから、東京都東部初心者大会の欠席連絡フォームを開いた。送信ボタンを押す瞬間に泣くかもしれないと思ったが、涙は出なかった。ひたすらに空しかった。
「ねえ、ママ。今日、本当にサッカーあるよね? 休みじゃないよね?」
郁登に訊かれて我に返った。普段急かしてばかりの母親がなにも言わないから不安になったようだ。希海が「あるよ、あるある。ほら、早く着替えるよ」と答えると、郁登は「はーい」と跳ねるように立ち上がった。
(つづく)