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「希海のかるた会に四、五十代以上の人はいないの?」

「……いる」

「その人たちは、みんなそんなに辛そうにかるたをしてるの?」

 答えはわかっていた。だが、口にしたくなくて希海は押し黙った。

「それに、かるたを中心に将来設計を考えるのはさすがにおかしくない? 趣味に人生が呑み込まれてる」

「でも、仕事のキャリアを逆算して出産計画を立てる人はいるよね? だったら趣味を中心に人生を考える人がいても変じゃないと思う。むしろ、優先するくらいの意識がないと、趣味は仕事と家事と子育てに簡単に食い潰されちゃう。仕事と家事の時間は絶対にゼロにはできないし、子育ての時間はゼロにしたくない。そういうことの皺寄せって、全部趣味に来るの。だから趣味のことほど真剣に考えないといけないし、優先しないといけないんだよ」

 勇助がため息を吐く音がした。

「別に俺は趣味を楽しむなとは言ってない。ただ、希海にはコーヒーにこだわったりドラマを観たりする趣味だってあるじゃん。郁登が小学生のうちはそれでいいんじゃない? 小さい子どもがいながら仕事以外のことで毎週末、しかも、半日近く家を空けている人なんていないよ」

「……母親になった人の趣味は家族の得になるか、負担にならないものじゃないと許されないの?」

 希海はゆっくりと顔を上げ、至近距離から勇助を見据えた。笑っていないときでも消えない目尻の皺と、左の眉の中で一本だけ長く伸びた毛。顎の髭には白いものが交じっている。この人も年を重ねた。自分と同じように。しかし、自分の感情を雄弁に伝える眼差しは出会ったころから変わらない。勇助の双眸は今、もどかしそうに揺れていた。

「許すとか――」

「要は勇くんは、自分が家にいるあいだに妻が外で楽しい思いをしてるのが嫌なんだよね。違う?」

 勇助の手から力が抜けた。希海はその隙に手首をすばやく引き抜いた。勇助の目がわずかに見開き、そして翳る。自分は今、この人をとても傷つけたかもしれない。そう感じたが、前言を撤回する気にはならなかった。

 数秒の沈黙ののち、勇助が口を開いた。

「……そうかもしれない。でもそれは希海も同じだと思う」

 希海が意味を呑み込むより先に勇助は「ちょっと出かけてくる」と言ってソファから立ち上がった。「こんな時間に? どこに行くの?」と訊いたが返事はない。勇助は部屋着にベンチコートを羽織った格好で本当に出て行った。

「あーっ、もうっ」

 希海は顔をしかめるように目をつむり、ソファに横向きに倒れた。

 

 希海は和室で正座していた。すぐ目の前にはかるたの札が自分の定位置どおりに並んでいるが、対戦相手の顔はよく見えない。自分が誰と戦っているか判然としないうちに〈かさ〉の歌が読まれ、希海は自陣の左中段を全力で払った。しかし、飛んでいった出札を取りに行くと〈しろきをみればよぞふけにける〉の文字はそこになく、代わりにスパリカの特売シールが貼られていた。

 仰天して自陣と敵陣を振り返った。すると、先ほどまでふつうの百人一首の札だったものが、すべて特売シールつきに変わっていた。これで試合をどう展開させていけばいいのか。希海は必死に頭を絞った。

「――マ。ママ」

 はっとして目を覚ました。夢か。希海は心臓をなだめるように自分の胸に手を当てた。特売シールの札を前に焦っていたときの感覚がまだ身体に残っている。〈半額〉札は得意だからなるべく早く敵陣に送って攻めようとか、〈10%引き〉と〈10円引き〉の共札は分けたいとか、真剣に考えていた。

「ねえ、ママ。なんか変なんだけど」

 郁登が希海の肩を揺さぶっていた。室内はまだ暗く、カーテンの隙間から朝の兆しも見えない。希海はシーリングライトのリモコンを手に取り、橙色の弱い明かりを点けた。

「どうしたの? 怖い夢でも見た?」

「違う。なんか……気持ち悪い」

 希海は跳ね起き、郁登をトイレに連れて行った。だが、吐くほどではなかったようだ。「出ないってば」とぐずる郁登を寝室に戻したとき、「どうした?」と勇助が起き出した。眩しそうな表情の勇助に希海は状況を説明した。彼の両眼はたちまち大きく開かれた。

「もしかしてインフルかな」

「まだ流行ってるって話は聞かないけど……。とりあえず郁登の熱を測ってくれる?」

「わかった」

 そのあいだに希海は洗面器にレジ袋をかぶせたものを用意した。万一のときにはここに吐いてもらうつもりだった。過去に何度か布団に嘔吐された経験から、この手の対応はだいぶ身についている。電子音が鳴り、郁登が体温計を脇から引き抜いた。希海と勇助は同時にそれを覗き込む。表示されていた数値は〈37・8〉だった。

「あー……」

「俺、熱あった?」

「あった。ありました」

 希海は常備している冷却シートを小さな額に貼った。

「夜間診療に連れていったほうがいいかな?」

 希海は勇助に尋ねた。部屋の時計を見ると、午前二時半だった。

「この感じなら朝になってからでも大丈夫じゃない? もしも吐いたり熱が急激に上がるようなことがあったら、俺、車を出すよ。三人で行こう」

「お願いします」

 郁登が、横たわると気分が悪くなると言うので、希海はリビングからクッションを運び、背中を少し起こした体勢で眠れるようにした。郁登には希海が付き添い、感染予防のため、勇助はリビングのソファで寝ることになった。熱でだるいのか、郁登からは思いのほか早く寝息が聞こえてきた。

 希海はそうっと寝室を出た。麦茶を飲んで一息吐く。これから小学校のメールフォームで欠席連絡を送り、小児科の予約開始時間を確認しなければならない。朝になったらスパリカにも連絡する必要があった。今日はパートが休みだが、明日の金曜はシフトが入っている。もしインフルエンザなどの感染症だった場合、熱が下がっても郁登はしばらく学校に行けない。来週月曜のシフトにも穴を開けるかもしれなかった。

 希海が今いるキッチンからも、ソファの上の、こんもり盛り上がっている布団は見えた。あの夜、口論の果てに家を出て行った勇助は、結局二時間近く帰ってこなかった。希海は先にベッドに入ったが眠れず、玄関から鍵の開く音が聞こえてきたときには心底ほっとした。それでも、おかえり、と声をかけることはできなかった。横向きになって目を閉じ、寝たふりをした。

 あれからまた微妙にぎくしゃくしていたが、今夜は勇助がすぐ近くにいることにほっとする。我が子の体調不良は怖い。急変の可能性や、大変な病気の初期症状かもしれないという想像が常に頭の片隅に居座っている。昔、郁登が熱性痙攣を起こしたときの恐怖も忘れられなかった。

 布団の山がもぞもぞと動いた。勇助が身体の向きを変えたようだ。動きがとまったタイミングで希海はソファを覗き込んだ。やはり勇助は目を覚ましてはいなかった。希海はずれた布団をかけ直した。

 勇助は眠ったまま鼻から大きく息を吐いた。

 感染症の検査結果は陰性だった。発熱から時間があまり経っておらず、正確な結果ではないかもしれないと医師には言われたが、希海はひとまず安堵した。感染症か否かは保護者にとっても大問題だった。

 しかし、夕方になると熱は三十九度台前半に達した。翌日も解熱剤が効いているあいだは元気だが、切れるとたちまち熱が上がる。食欲もなく、こうなると、感染症ではないらしいことがむしろ不安に繋がった。今後、郁登の体調がどのような曲線を描くのか、まるで予想がつかない。希海はろくに眠れなかった。夜中、ふとした拍子に何度も郁登の呼吸を確かめた。

 郁登の発熱から三日目の土曜、希海はかるたの練習会を休んだ。趣味とは自分だけでなく、家族までが健康であってこそ初めてできるものなのだと痛感していた。三崎は趣味を持つことも人権の一種だと言ってくれたが、趣味には時間のみならず、精神的な余力や金銭的な余裕も必要だ。なにかを始めることも続けることも、決して容易ではない。人にはそれぞれ事情がある。希海は汗で湿った郁登の前髪を撫でつけた。郁登は「くすぐったい」と弱々しく笑った。

 週が明けたら朝一番に病院に連れていくつもりだったが、希海が日曜の朝起きると、郁登の熱は三十七度二分まで下がっていた。家族三人で呆気にとられ、ベッドに倒れ込んで笑った。「よかったあ」と息を吐く勇助の目は赤かった。勇助も郁登が食べられそうなものを買って帰ったり、勤務時間中にも容態を尋ねるメッセージを送ったり、郁登の体調を案じていた。一人で看病しているわけではないと思えることが希海には心強かった。

 月曜の朝、郁登の熱はついに平熱に戻った。しかし、大事を取って学校は休んだ。希海もスパリカを欠勤した。新卒で入った会社を辞めた悔しさはいまだに消化しきれていないが、郁登が体調を崩したときだけはこれでよかったのだと思えた。心置きなく子どものそばにいられる。また、夫婦両方が正社員だったら、どちらが仕事を休むかで勇助と揉めていたに違いなかった。

「郁登、お昼ご飯はうどんでいい?」

 希海はリビングで漫画を読んでいた郁登に尋ねた。遊んでいるくらいなら宿題を進めてほしいが、ここ数日、ぐったりした郁登の姿ばかり目にしていたため、元気ならばなんでもいいか、という気持ちのほうが強かった。

「うどんだけ? おにぎりも食べたい」

「食べすぎじゃない?」

「お腹が減りまくってるから大丈夫」

 郁登は食欲も回復し、ほとんど胃に入れられなかった三日間を取り戻すかのように食べている。希海は卵とじうどんと小さなおにぎりをふたつ用意した。郁登は器に顔を突っ込みそうな勢いで麺を啜った。

「ねえ、郁登」

「なに?」

 郁登が顔を上げた。

「本当は土曜のサッカーにもママがいたほうが嬉しいよね?」

 光のどけき会に入る前、「土曜はママがいなくても大丈夫だよね?」という言い方で郁登の気持ちを確かめたことを、希海は今になって後悔していた。これでは子どもは「いいよ」としか答えられない。母親からの唐突な質問に郁登は箸をとめ、口の端から垂れていたうどんをつるっと吸い込んだ。

「え? 別にパパだけでいいけど」

「本当?」

 希海は顔を覗き込んだ。「本当だよ」と返す郁登の瞼の動きはいつものテンポで、嘘を吐いているときの癖は見られなかった。

「でも、どうしてパパだけでいいの?」

「えっ」

「ママが土曜に行くことになっても、パパがサッカーに行くのをお休みするわけじゃないよ。だったら三人一緒のほうがよくない?」

「それは……うーん」

 郁登が焦ったように希海から目を逸らす。「怪しいな」と希海は郁登の頬をつついた。

「だって」

「だって?」

「……怒らない?」

「怒らない」

「絶対?」

「絶対」

「だって……だってパパは、家に帰ってからサッカーの動画をいっぱい見せてくれるから」

「えーっ、二人でそんなことをしてたの?」

 希海は脱力した。土曜も来てほしいと言われたら、郁登自身が親の付き添いを断るようになるまでかるたを休むつもりだった。その覚悟で質問したのだ。だが、郁登にとって母親はときに鬱陶しい存在で、自分に甘い父親と二人ですごす時間はとびきりのデザートなのだろう。子育てのおいしいところ取りをしている勇助にはこれまでも不満を感じたことがあった。動画に頼りっぱなしの子守りにも、それはずるいだろうと思う。しかし今は、なによりも自分の思い上がりに呆れていた。

「あとパパね、かるたの動画も観てたよ」

「パパが? かるたの?」

「クイーンがすごく速くて、パパ、びっくりしてた」

 一点の光が弾けるように記憶がよみがえる。東京都東部初心者大会の日の朝に勇助が言った、「もしママの今日の予定がA級の試合とかクイーン戦とかだったら」という言葉。よく考えれば、かるたに興味のないはずの彼が「クイーン戦」という単語を知っていたことがおかしいのだ。「代わりになる大会なんていくらでもあるんじゃないの?」という発言も同じ。調べなければほかの大会のことなど知るよしもない。今の今まで気づかなかった自分に希海は頭を抱えた。「ママ、頭が痒いの?」と郁登が目を丸くした。

 夜、希海は二ヶ月半ぶりに寝ずに勇助の帰りを待った。出迎えに現れた希海に勇助は視線を泳がせ、三秒ほど黙ってから「ただいま」と言った。

 冷蔵庫にとっておいた野菜炒めとかぼちゃのそぼろ餡かけを電子レンジで温め直し、そのあいだに味噌汁を再加熱して、湯を沸かした。勇助が「いただきます」と手を合わせて食べ始める。希海は勇助の様子を横目に見つつ、ペーパードリップでいつもより丁寧にコーヒーを淹れた。

「よかったら。眠れなくなるのが嫌なら飲まなくてもいいけど」

 希海はマグカップをふたつテーブルに置き、勇助の正面に座った。

「いや、飲むよ」

「昼間も連絡したけど、郁登は今日は朝から晩まで元気だったよ。明日は学校に行けると思う。いろいろと……ありがとう」

「……うん。結局なんだったんだろうな。本当に風邪だったのかな」

「最初に吐き気はあったけど、あとは熱だけだったよね」

「久しぶりに三十九度台の体温計を見たけど、あれはやっぱり怖いな」

「また痙攣を起こしたらどうしようって心配だった」

「職場の人に訊いたら、熱性痙攣を起こすのは小学校の低学年くらいまでじゃないかとは言ってたけどね」

「そうなんだ。じゃあ、そろそろその心配はしなくていいのかな」

「でも怖いよな」

「白目を剥いた郁登の顔が今でも忘れられないよ」

「俺も」

 久しぶりに向き合って喋っている気恥ずかしさをごまかすように二人で喋った。言葉が隅々まで通じているかのような感覚が心地よかった。勇助は今夜もきれいに料理を平らげた。実家の父親とは違い、もとより食事を残すことも、献立や味つけに文句をつけることもない人だった。それも結婚の決め手だったことを希海は思い出した。勇助がマグカップを口もとに運び、揺れた液面から湯気が立ち上った。

「やっぱり希海のコーヒーが一番だな」

 勇助が呟いた。

 

(つづく)