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耳を澄ましていなくても店が混雑していても、希海は「あしたも笑顔ッ!」が流れてくる瞬間を正確に捉えることができる。ふつっと糸が切れるような音と、空気にひびが入るような音。それらのノイズからきっかり二拍を置いて、イントロは始まる。希美が商品をレジにとおすのを待っていた男性客が、思わずといった様子で頭をかすかに振り出した。「あしたも笑顔ッ!」の軽快なリズムに揺られているようだ。総白髪で仏頂面の老人が見せた意外な行動に、希海の頬は緩みそうになった。
「あしたも笑顔ッ!」は、東京都東部を中心に展開するローカルスーパーマーケット、スパリカのオリジナルソングだ。およそ十五分に一回の頻度で店に流れる。常連客であれば、無意識のうちに口ずさんだことが一度や二度はあるだろう。従業員にとっても耳馴染みがあるどころではなく、チープなメロディや甲高い歌声は、もはや鼓膜にも脳にもこびりついていた。
「合計で、千百五十三円になります」
最後にかつお節のバーコードをスキャンして、希海は金額を告げた。男性客ははっとしたように動きをとめ、鞄から財布を出した。そこに紺のエプロンと帽子を身に着けた戸田が颯爽と現れ、希海の後ろに立った。
「お疲れさま。皆川さん、替わるね」
時計を見ると午後一時二分だった。希海は礼を述べて戸田と交代し、休憩室に入った。商品が積み上がったバックヤードをとおるあいだにも、天井のスピーカーからは「あしたも笑顔ッ!」が流れている。「お疲れさまです」と希海が休憩室のドアを開けると、「あ、お疲れさまです。上がりですか?」と中にいた三崎が顔を上げた。彼女は大きなメロンパンを両手で持ち、もっちゃもっちゃと食べているところだった。
「うん。私は上がり。三崎さんは? 二時からじゃなかった?」
「二限が休講になって一限だけだったので、少し早く来ちゃいました」
大学二年生の三崎は、九月からスパリカでアルバイトをしている。パート仲間からは物覚えが悪いと聞いているが、丸顔で愛嬌に溢れ、三崎の親とのほうが年齢の近い自分にも気さくに話しかけてくれるため、希海は彼女が好きだった。三崎はメロンパンを食べ終えると、今度はあんパンがよっつ並んで入っている袋に手を伸ばし、けれども開封寸前でおもむろに天井を見上げた。
「私、ずーっと疑問に思ってたんですけど」
「うん?」
希海はタイムレコーダーにカードを差しながら相槌を打った。スパリカは、三十二年前に現会長が家業の酒屋を拡張する形で一号店を誕生させた。体質の古い店で、出退勤の打刻はパソコンではなく、いまだにタイムレコーダーが使われている。当然、スパリカ全四店舗をとおしてセルフレジは一台もない。下町と呼ばれるこの地区は年配の住民が多く、導入されたところで説明に明け暮れるのが関の山、というのがパート仲間の見解だった。
「この、〈おとーふで便利な〉って、どういう意味なんですかね?」
その質問こそどういう意味かと聞き返そうとして、希海は三崎の視線が真上のスピーカーに注がれていることに気づいた。「あしたも笑顔ッ!」の歌は二番に突入していた。
「ああ、これは〈おとーふ〉じゃなくて〈おとーく〉なんだよ。〈お得で便利な〉っていう歌詞」
「ええっ、ずっと〈おとーふ〉だと思ってました」
「そういう人は結構いるよ。どうして急に豆腐が出てくるのかって、お客さんからも聞かれたことがある」
「〈お得〉には絶対に聞こえないですよ。ねえ?」
「そう? 私は〈おとーふ〉にこそ聞こえないんだけどなあ」
客としてこのスパリカ二号店を利用していたときから、希海の耳にはちゃんと〈おとーく〉と聞こえていた。しかし、先ほど持ち場を交代した戸田も、歌詞を長らく何ヶ所か聞き間違えていたと言っていた。
「皆川さんって、耳がいいんですね。音楽かなにかをやってました?」
「昔、六年くらいピアノは習ってたけど、あんまり関係ないと思うよ」
希海は首をかしげ、脱いだエプロンと帽子をリュックサックに詰めた。ピアノに熱中したことはなかった。筋がいいと先生に褒められたこともあったが、家で練習するのがとにかく面倒だった。始めたきっかけは、ピアノが弾ける女の子に憧れがあった両親の意向がすべてだろう。それでも希海が生まれ育った福岡県の海沿いにある小さな町には、習字教室と、音楽大学を卒業して地元に帰ってきた女性が自宅で開くピアノ教室のほかに習いごとの当てはなく、放課後の暇つぶしに、小学校を卒業するまでピアノは続けた。
「六年って長くないですか? 私、幼稚園のときに自分からママにねだってバレエを始めたんですけど、半年でやめちゃいました」
「バレエはお金がかかるんじゃない?」
「それ、ママにもめっちゃ言われました。シューズもレオタードも買ったのに、これ、どうすんのって。でも、先生は怖いし周りは意地悪だし足も痛いし、嫌になっちゃったんですよね」
「まあ、本人に気持ちがなくなっちゃったら、続けても意味がないからね」
「それなんですよ、それ」
三崎は小ぶりのあんパンひとつを一口で食べ、ふうっと息を吐いた。「半年保っただけでもがんばりましたよ」
「あ、私、もう行かないと。お迎えの前に銀行に寄るんだった。今日は卵が特売だから忙しいよ。がんばってね」
「はあーい」
希海はスパリカの裏口を飛び出し、黒色の電動自転車に跨がった。冷たい空気を切り裂くように銀行へとペダルを漕ぐ。東京スカイツリーは今日もそびえ立っている。気がつくと希海はペダルを踏み込むリズムに合わせ、「スパリカ、スパリカ、買いものならスパリカ」と小声で歌っていた。
銀行窓口は混雑気味だったが、午後二時の降園時刻には間に合った。希海はぎゅうぎゅう詰めの駐輪場に自転車をやや強引にとめ、すずがも幼稚園の正面玄関に向かった。横長の園舎に沿って、ポリカーボネート製の庇がある。その下に用意されたベンチ代わりの角材に座り、園バスを利用しない園児たちは、今日も手遊びをしながら保護者の迎えを待っていた。
希海の姿を見つけると、郁登はぱっと立ち上がった。
「ママ、遅い。俺、待ちくたびれちゃったんだけど」
「ちょっと遅れただけでしょう。あ、すみません、皆川です」
希海が担任の先生に挨拶しているあいだにも、郁登は「悠士っ、待って、悠士っ」と叫んで走り出してしまう。自分より早く迎えが来た友だちに追いつきたいようだ。希海は先生に頭を下げてから駆け出した。園庭の中ごろで郁登と悠士と、悠士の母親である長田に追いついた。
「あ、皆川さん。まだ十一月なのに毎日寒いね」
郁登と悠士は年中のときのクラスが同じで、長田とは喋る機会が多かった。テレビドラマの趣味が似ていて、育児以外の話題でもたびたび盛り上がった。
「朝は布団から出られないよね」
言いながら希海は郁登のジャンパーをリュックサックから取り出し、「ねえ、これ着て」と郁登に声をかけた。だが、郁登は真剣な面持ちで悠士に石を見せていて、こちらを振り返ろうともしない。あれは昨日、郁登が自宅マンションの前で見つけた、「磨けばダイヤになるかもしれない」石だろう。希海に内緒で制服のポケットに忍ばせていたらしい。「風、邪、ひ、く、か、らっ」と希海は後ろから強制的に郁登の腕にジャンパーの袖をとおした。
「ねえ、ママ。俺、悠士とイルカの公園に行きたい」
「えっ、今から?」
希海がちらりと様子を窺うと、長田は曖昧な笑顔で、「うちは今日は、お姉ちゃんが学校から帰ってくるまでなら空いてるよ」と言った。
「でも、郁登。今日は寒いよ」
子ども同士を遊ばせたくはあるが、帰りたくもある。そういう長田の気持ちに同調し、希海は一応、郁登に反論した。
「俺は寒くないもん。悠士は? ほら、悠士も寒くないって。ママたちは日向でお喋りしてていいからさ」
「皆川さん、行こうよ。悠士も遊びたいみたいだから」
「ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ……」
希海は肩をすくめるように頭を下げた。「イルカの公園」とは、幼稚園からほど近くにある、イルカ型のスイング遊具が人気の公園だ。郁登と悠士に手を繋がせ、希海は長田と並んで自転車を押して歩いた。
「郁登くんは本当にお喋りが上手だね。男の子なのに」
「五月生まれだからだと思うよ。年長に上がってからますます生意気になってきて、最近屁理屈がすごいの。あと、一日中喋ってる」
「きっと頭がいいんだよ。いっくんはなんでも知ってるんだ、すごいんだって、去年、悠士がよく言ってたな」
悠士は上に小学生の姉がいるからか二月生まれだからか、おっとりしている。郁登の提案に付き従っているように見えることが多く、希海としては気を揉む場面もあったが、二人は滅多に喧嘩にならなかった。郁登も自分の話を楽しそうに聞いてくれる悠士には優しくできるようだった。
「イルカの公園」に着くと、郁登と悠士は茂みのほうへ走り出した。「悠士は木の根っこを探して」「わかった」とやり取りが聞こえてくる。ダイヤモンド以外の宝石に見える石を二人で探しているらしい。希海は長田と近くのベンチに腰を下ろした。公園には、ほかにも数組、すずがも幼稚園帰りの親子がいた。その中に郁登と同じくじら組の高橋愛桜とその母親の姿を見つけて、希海は嫌な予感を覚えた。母親同士で黙礼は交わしたが、高橋だけでなく自分の顔も強張っていることに、希海は気づいていた。
嫌な予感はわずか十分後に的中した。茂みで成果を得られなかったらしい郁登と悠士が広場に出てきた直後のことだった。しゃがみ込んで石を探す二人に、愛桜の好奇心が刺激されたようだ。顎をつんと上げて郁登たちに近づくと、二人を見下ろす形でなにかを話しかけた。郁登がやにわに立ち上がり愛桜の胸あたりを押したのは、その次の瞬間だった。
尻餅をついた愛桜の泣き叫ぶ声があたりに響いた。長田と今クールのテレビドラマについて喋っていた希海は慌てて駆け出し、愛桜を抱き起こした。ママ友と立ち話していた母親の高橋も険しい表情でやって来て、希海から宝物を奪回するかのように、「どうしたの」と愛桜を抱きしめた。
「郁登に押されたあ」
愛桜は高橋の胸に顔を埋めた。
「郁登、なんでそんなをことをするのっ」
希海は郁登の両肩を掴んだ。
「だって愛桜が……こんなところで宝石を探すなんて馬鹿だって、俺たちのことを言うから」
愛桜が一瞬泣きやみ、郁登の顔を睨みつける。高橋は愛桜の頭を撫でながら、「それはだめでしょう」と娘を咎めるような台詞を口にした。
「だからって暴力はだめ。ママ、郁登に何回も言ってるよね?」
「愛桜のだって、言葉の暴力だよ。先生がそういうのもだめって言ってた」
「私、馬鹿って言ってないっ」
愛桜が絶叫する。希海は郁登の顔を覗き込んだ。まばたきが速い。これは嘘を吐いているときの郁登の癖だった。
「郁登、嘘を吐くのは最低だよ」
「……馬鹿だ、とは言ってないけど、変なの、とは言った」
「本当?」
希海は郁登の陰に身を潜ませるように立っていた悠士に視線を送った。希海と目が合った悠士はまず自分の母親である長田の表情を窺い、長田に背中を軽く押されてから、希海に向かってそっと頷いた。
「本当に申し訳ありませんでした」
希海は高橋と愛桜に頭を下げ、郁登の後頭部を手で押さえつけた。数秒、郁登は頭を下げることに抵抗していたが、「嫌なことを言われたら、相手に口でそう言えばいいの。暴力を振るった時点で郁登が悪いっ」と希海が金切り声にも似た調子で言うと、最後には「ごめんなさい」と呟いた。
「愛桜、帰ろう」
高橋が娘の手を引き公園をあとにする。希海と長田のあいだにも気まずい空気が流れた。「今日はもう帰ろうか」と希海が切り出すと、長田は明らかにほっとしたようだ。郁登も悠士もごねなかった。互いに自転車の後部席に子どもを乗せ、公園の前で別れた。ペダルを漕ぎながら、希海は泣きたい衝動を喉の奥に押さえ込んだ。郁登と愛桜は先月も揉めた。郁登が描いた運動会の絵に「変なの」と愛桜が言い出し、かっとなった郁登が愛桜の三つ編みを引っ張ったのだった。
「ママ、今日のおやつは? ゴマのビスケット、まだある?」
背中越しに聞こえる郁登の声は、もう明るい。言語感覚に優れていて、しかし、かっとなると手が出てしまう。そして、親や先生にどんなにきつく叱られてもすぐに立ち直る。切り替えが早いのは、必ずしも短所ではないのかもしれない。毎日元気な郁登の姿は家庭を、希海の人生を、間違いなく明るく照らしている。ただ、希海はときどき、自分の言葉が息子にまるで届いていないような無力感に苛まれた。質問に答えずにいると、風の音で聞こえなかったと思ったのか、郁登はさらに声を張り上げた。
「ママー、おやつはー?」
希海はやはり答えない。よりにもよって、なぜ今日、高橋母娘と公園で会ってしまったのだろうと思う。
今日は希海の、三十九歳の誕生日だった。
(つづく)