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 スーパーマーケットのスパリカでは、自家製の栗きんとんと伊達巻きが毎年末よく売れる。希海は黄色いそれらをひたすらレジにとおし、家に帰って郁登に冬休みの宿題をやるよう促し、休みの日には大掃除を進め、そうこうするうちに新年を迎えた。一月二日は神奈川にある勇助の実家に行くのが恒例だ。今年も三人で電車で向かった。

「はーい、いらっしゃい。いっくん、明けましておめでとう」

 駅からほど近い低層マンションの三階角部屋が勇助の実家だ。ドアを開けて出迎えてくれたのは義母で、その後ろから正午をすぎたばかりにもかかわらず、早くもお酒を飲み始めていたらしい義父が赤い顔を見せた。

「よく来たね。さあさ、上がって上がって」

「ばあば、じいじ、明けましておめでとう」

 挨拶だけはちゃんとするようにという言いつけを郁登は守った。ぺこりと頭を下げた郁登に、義父母は「偉いねえ」と揃って目を細める。希海と勇助も新年の挨拶を述べて家に上がった。廊下の突き当たりにあるリビングダイニングから、駅伝番組の実況中継と出汁だしのいい匂いが漂ってきた。

「あー、おめでとー」

 ソファの上で膝を抱えてスマートフォンをいじっていた絢子あやこが顔を上げた。

「あ、絢ちゃんだ」

「郁登、大きくなったね。小学生になったんだっけ?」

「そうだよ。一年生」

「その節は入学祝いをありがとうございました」

 希海は絢子に礼を述べた。絢子は勇助の七つ下の妹だ。「おう」「うっす」と兄妹ならではの気安い挨拶が交わされる。絢子は新卒からアパレルメーカーで働き、親もとは離れたが結婚はしていない。青みがかったアッシュヘアーはきれいな内巻のボブカットで、くるぶしまでありそうな長いニットワンピースはこの世のすべての光を吸収するかのように黒々としていた。絢子は「郁登は皆川家唯一の、大事な大事な孫ですから」と言い、片手をひらひらと振った。

「ほら、こっちに来て座ってちょうだい。絢は待ちきれないからって先に食べたからいいの。いっくんの好きなマグロのお寿司もあるよ。全部サビ抜きだから、たくさん食べてちょうだいね」

「あ、お義母さん。いつものです。毎年変わり映えしなくて申し訳ないんですけど」
 希海は日本酒の一升瓶とカットフルーツの盛り合わせを詰めた紙袋を差し出した。

「なに言ってるの。これが一番嬉しいんだから」

 義母は満面の笑みで受け取り、中身をテーブルに並べた。嫁が手土産に悩まないようにという配慮だろう、義母からは日本酒とフルーツがいいと毎年リクエストされている。折りたたみ椅子を二脚足したもともと四人掛けのテーブルは、お節料理の重箱や寿司桶、義母特製の唐揚げやお煮染めが盛りつけられた器などで埋め尽くされていた。勇助の母親は定年まで信用金庫の窓口で働き、今も料理教室やボランティアにしょっちゅう出かけている精力的な人だ。明るい茶色のショートカットふうの髪形は実はウィッグで、「毎月の白髪染めが面倒になっちゃったの」と笑い、ウィッグを外した姿を希海にも見せてくれたことがある。義父も快活な人で、希海は義父母から孫をせっつかれたことも子育てに口を挟まれたこともなかった。

「このあいだ勇助がいっくんがサッカーをしてる動画を送ってくれたよ。足の使い方がうまいねえ。勇助より才能がありそうだ」

 義父は御猪口おちよこに口をつけて陽気に笑った。

「へえ。郁登、サッカーを始めたの? 去年の正月には百人一首を習ってるって言ってなかった?」

 絢子がソファから立ち上がり、カットフルーツからイチゴを指で摘まんで自分の口に放り込んだ。

「絢、お行儀が悪い」

 そう注意しつつも義母の顔に苛立ちめいたものはよぎらなかった。

「百人一首はやめて、九月からサッカーを始めたんです」

「俺、郁登のチームでサブコーチをやってるんだよ」

「お兄が? それってお金はもらえるの?」

「馬鹿、ボランティアだよ。監督は少しだけ手当が出るけどね」

「タダ働きなの? よくやるね、そんなこと」

 絢子は呆れ果てたような口調で言った。

「好きでやってるんだからいいんだよ」

「いやいやいやいや、やりがい搾取でしょう、そんなの」

「絢、そんなふうに言わないの」

 義母が窘めた。

「そういうことをなあなあにするからこの国はよくないの。もらうべきものはもらわないと。時間こそが人間最大の資産なんだから」

「でも、勇助さんのコーチは郁登の付き添いも兼ねてますよ。むしろ郁登の練習を間近で見られて楽しいみたいです」

 希海は言いながら光のどけき会のことを考えた。咲千がいつか言っていたように、かるた会は講師から教えを受けるところではなく、仲間同士で切磋琢磨するための場だった。会長も手弁当で、会員から集めた年会費は備品の購入や公民館の和室の利用料に主に充てられているらしかった。

「ママはかるたに行ってるんだよ」

 鉄火巻きを頬張っていた郁登の突然の発言だった。流れにややそぐわない内容が余計に注目を集めてしまったようだ。義母と義父は「かるた?」「希海さんが?」と顔を見合わせ、希海に視線を向けた。

「えっと、実は私のほうがかるたをやりたくなってしまいまして、土曜だけ郁登のサッカーを勇助さんにお任せして、練習会に行かせてもらっています」

「そうだったの。いいわね」

「希海さんにもそういう時間がないとなあ」

 朗らかな反応の義両親とは対照的に、絢子は「えっ」と顔をしかめた。

「それって大丈夫なの? ほかの家はみんなママがサッカーの応援に来てるんでしょう? 郁登がさみしくならない?」

「ママが一緒とは限らないですよ。下の子がいるおうちは、むしろママが家に残ってパパが連れてくることのほうが多いですね」

「でも郁登には下の子がいないじゃない」

 希海は両家顔合わせで初めて会ったときから絢子が苦手だった。「優しそうな人でよかった」と笑う顔に、自分の垢抜けなさを茶化されたような気がした。裕福な都会の家庭に生まれ、理解ある両親のもとで末っ子として甘やかされて育ち、そのまま大人になった人、というのが絢子に対する印象だ。今なおそれは覆っていなかった。

「俺、別にママがいなくても平気だよ」

 郁登は寿司桶に手を伸ばし、今度は握りのマグロを掴んだ。

「だって隼大がいるし、日曜はママも来るし」

「でも、郁登がせっかくサッカーをがんばってるのに」

 だから勇助が付き添っているのだ、と希海が反論する前に義母が、

「こーら、人の家庭に口を出さないの」

「人の家庭っていうか、かわいい甥っ子の家のことじゃん」

 絢子が口を尖らせた。

「私だったら土日は家族ですごす日にするけどな。うちがそうだったよね? 月に一回は家族で外食したり映画を観に行ったりしてた。そういう日のことは今でもよく覚えてるよ。いつか子どもは巣立つんだし、今思えば、すごく大事な時間だったと思う。希海さんはフルタイム勤務じゃないんだから、郁登が学校に行ってるあいだに好きなことをすればいいんじゃない?」

「……かるたの練習会が土曜なんです」

「おいおい、俺と郁登がいいって言ってるんだから、絢が口を出すなよ。週に一度のことだし、土曜はそもそも俺が昼食を作る当番だから、いろいろとちょうどいいの。うまく回ってるんだって」

 勇助の言葉に、希海は危うく、は? と声を漏らしそうになった。今の流れのどこに昼食の当番の話をする必要があったのか。親と妹から褒められようとしているとしか思えない。それは勇助が自分の家事分担を優しさだと捉えていることの証左にほかならなかった。

「へえ、毎日残業だって言ってたのに、家でも料理当番があるんだ。今どきのパパって感じ。妻がフルタイム勤務じゃないのに、そこまで家事と子育てをしてくれる配偶者ってなかなかいないよ。郁登、優しいパパでよかったね」

 絢子が「ねーっ」と郁登の顔を覗き込む。唐揚げにかぶりついていた郁登はきょとんとした表情のまま「うん」と頷いた。希海は絢子の発言よりも、妹に「優しいパパ」と言われて嬉しそうな勇助にいっそ腹が立った。ここが義実家でなければ視線で刺していただろう。義父母に醜態を見せたくない一心で怒りを押し殺した。

 午後八時に義実家を辞去すると、希海は勇助との会話を放棄した。酔って上機嫌だった勇助もむっとしだして、次第に希海にはなにも言わなくなった。郁登を介して必要なことをやり取りするうちに自宅に到着した。郁登が眠りに就くと、「言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃん」と勇助は仏頂面で切り出した。

「……言いたいことなんてないけど」

「ないわけないよね。前から言ってるじゃん。急に不機嫌になって黙り込むのはやめてくれる? 建設的じゃないから」

「……だったら言わせてもらうけど」

 希海は部屋に干していた洗濯物をたたみながら応酬した。

「昼食の当番のこと、あのタイミングで言わなくてもよくない?」

「あのタイミングってなに」

「かるたの話の流れで言われると、私が家事も子育てもパパに押しつけて好きなことをやってるみたいに聞こえるんだけど」

「そんなことは誰も思わないよ」

「お義父さんとお義母さんは思わないよ。でも、絢子さんは違う」

「被害妄想だって」

 勇助は鼻で笑った。

「だいたい俺は事実を述べたまでだよ。ママが土曜にかるたに出かけて、俺が昼食を作って郁登に食べさせてるのは本当のことじゃん。なにか間違ってる? 間違ってないよね?」

 そうだ、間違ってはいない。希海は無言で洗濯物をたたみ続けた。しかし、勇助の靴下が裏返っているのを見た瞬間、また頭に血が上った。

「靴下は表にしてから洗濯機に入れてって、何度も言ってるよね」

「はいはい、それは俺が悪かった。でもさ、冷静に考えてよ。俺は家事も子育てもしてるほうだよね? その上、ママに自由時間もあげてる」

 希海が唖然として顔を上げると勇助も自分の発言のミスに気づいたのか、「これは俺も飲み会に行かせてもらってるからイーブンだけど」と早口で付け加えた。あの約束以来、勇助はすでに二回、グリーンブルズの監督たちと飲みに行っている。二回とも帰宅は日付が変わってからだった。

「俺のなにが不満なの?」

 そう問われると自分が怒っている理由がわからなくなる。希海は勇助から逸らした目線の遣り場に迷い、タオルのパイル地を凝視した。勇助は子育てに積極的で、乳児だったころの郁登も一人で世話ができた。彼に郁登を任せて美容室やマッサージに行ったことは何度もあった。幼稚園や小学校の行事にも熱心に足を運び、土曜の昼食を作るという取り決めをつまらない口実で反故にしたこともない。泊まりに来た妻の両親も快く受け入れ、もてなしてくれる。絢子だけではない。昔からの友人もママ友も、希海から話を聞いた人間は漏れなく勇助のことを優しいと讃えた。

「……わからない」

 なにかに納得できずにいるのに、その正体が掴めない。そして、現状に不満があるのかと問われれば否定するしかなかった。「不満、は、ない、かも」

「なんだよ」

 勇助は拍子抜けしたように息を吐いた。

「なんなんだよ、もう。俺も風呂に入るから」

「……はい」

 脱衣所の戸が閉まると同時に希海は両手で顔を覆った。薄々わかってはいた。自分が郁登よりかるたを優先していることへの罪悪感がどうしても消えない。今回の怒りの根はそこに繋がっている。特に小学生と対戦したときの、我が子を放置して他人の子と遊んでいるような感覚は強烈で、到底忘れられなかった。そこを絢子に突かれたように思い、かっとなったのだ。また、相手が絢子でなければ、おそらくここまで気にならなかっただろう。小学生の時分から東京の繁華街で遊んでいたという絢子。兄を引き立てるように親から言われたことも、女の子なのに愛想がないと人前で貶められた経験も、彼女には一度たりとてないに違いない。絢子と対峙すると、希海はしばしばこの子の代わりに皆川家の末っ子に生まれたかったという思いに駆られた。

「さっきはごめんなさい。私も飲みすぎて、ちょっと興奮してたみたい」

 風呂から上がった勇助に希海は声をかけた。

「確かに今日はえらくペースが速いなあとは思ってた」

 勇助は苦笑しながら濡れた頭をタオルで拭いた。

「酔い覚ましにコーヒーを淹れるね」

 希海は洗濯物をたたみ終えるとコンロで湯を沸かし、豆を挽いた。

 

(つづく)