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 バスは混雑した大通りを抜けてやや狭い道に入った。すぐ横の歩道では、三歳くらいの男の子が希海の乗ったバスを指差し、目を輝かせている。昔、郁登にもバスを好きな時期があったことを希海は思い出した。そういえば一人でバスに乗るのは随分と久しぶりだ。子どもが騒ぐことを心配しなくていいのは気が楽で、背もたれに上半身を預ける。今日降りるバス停は、北東地区公民館前。光のどけき会の練習はここの和室で行われているらしかった。

 咲千からかるた会を薦められた瞬間にふたたび充填されたエネルギーは、衰えることを知らなかった。発散されることを求めて指先はうずき、希海は丸一週間悩んだのち、郁登ではなく、自分がかるたをやってみたいのだと勇助に打ち明けた。光のどけき会の活動日時は、毎週土曜の午前九時から午後一時まで。郁登のサッカーと重なる。しかし、グリーンブルズの練習において、保護者の役目は応援と、子どもの急な怪我や体調不良に対応することのみ。しかも皆川家からは、勇助がサブコーチとして参加している。遠征の際にはチームメイトやその保護者を車に乗せることも多く、希海が二回に一回行かなくなっても、角が立つ可能性は低いように思われた。

 最大の懸念は勇助からの反対だったが、自分は平日の週五日、ほぼワンオペで郁登をみている。ここを主張して交渉を持ちかけるつもりだった。だが、その必要はなかった。希海の申し出に、勇助はあっさり「いいよ」と応じた。

「えっ、いいの?」

「そのかるた会が終わるのが一時だっけ? だとしたら、ママが家に着くのは二時前か。土曜は俺が昼食当番だし、郁登と適当に食べておくよ」

 勇助は夕飯の麻婆豆腐を白米にかけ、大口でかき込んだ。

「ありがとう。明日、郁登にも土曜のサッカーはママなしでも大丈夫か訊いてみる。雨でグリーンブルズの練習がなくなったら、私もその日はかるたを休むから。郁登が試合の日も、もちろんかるたは欠席して応援に行くね」

 これほど簡単に許可が下りるとは想定外で、希海は淹れたコーヒーの味がわからなくなるほど嬉しかった。やはり業務で社員の産休や育休に日々関わっている人は妻に対する理解が違う。この人と結婚してよかった、と思った。

「ママがそんなにかるたに熱中するとはなあ」

「自分でもびっくりしてる」

「あのさ、俺もひとつお願いがあるんだけど」

「なになに?」

「グリーンブルズの日曜の練習って、月に一度か二度、午後になるじゃない? そういう午後練のあとは、監督とコーチで集まって飲みに行ってるんだって。俺もそれに参加したい。平日は家族揃って夕飯が食べられないんだから、土日に飲みに行くのはなるべくやめてほしいってママに言われて断ってたけど、ママがかるたに行くなら、俺にもそういう時間があっていいよね」

「えっ……」

 希海は一瞬返事に迷った。これまで校庭の片隅でサッカーの練習をぼうっと眺めていた時間にかるたをやるのとは話が違うようにも感じたが、夫婦の片方だけが好きなことをやるのも確かに不均衡に思えた。

「わかった。いいよ」

「やったあ。グリーンブルズの監督って、高校時代に地元の県大会のベスト4まで行ったんだって。すごいよなあ。ヨーロッパのサッカーリーグに詳しくてさ、もっとゆっくり喋ってみたいってずっと思ってたんだよね」

 勇助は茶碗を空にすると、心から満たされたように微笑んだ。

「ちなみにママが行こうとしてる、そのかるた会の会費っていくらなの?」

「ネットで調べた感じだと、入会金が千円で、会費は年間五千円」

「年間五千円? 一ヶ月じゃなくて? 安くない?」

「まあ、これに交通費がかかるけどね」

「毎週四時間活動して、一ヶ月あたり五百円未満か。かるたって、お金のかからないいい趣味だなあ」

 勇助がそう口にしたことを思い出したとき、「次は、北東地区公民館前、北東地区公民館前」と車内アナウンスが流れた。

 和室が二階にあることを館内案内で確かめ、ひんやりとして薄暗い階段を上がった。建物は古めかしく、天井近くの壁は埃で黒っぽいが、トイレはリフォーム済みのようだ。廊下の突き当たりに閉じられた襖が見えて、希海はほんの束の間足をとめた。

「すみません、本日体験をお願いしている皆川です」

 声をかけて襖を開ける。中は和室ふたつをぶち抜いた二十畳ほどの空間だった。障子越しに壁一面の窓から日が差し込み、かなり明るい。舞台らしきスペースに座っていた六、七人が希海を振り返った。

「あ、おはようございます。私が岡村おかむらです」
 小柄でショートカットの女性がぱっと笑顔になり、立ち上がった。

「場所はすぐにわかりましたか?」

「はい。バス乗り場で少し迷っちゃったんですけど、なんとか」

「あの駅のバスターミナルって、わかりにくいですよね」

 岡村が笑顔のまま頷く。この人が光のどけき会の代表か。希海は「今日はよろしくお願いします」と頭を下げた。岡村は五十代前半だろうか。長袖の黒いインナーに、大勢の忍者のイラストと〈NANNINJA?〉という文字がプリントされた半袖のTシャツを重ね着している。下はジャージのズボンだ。メールで体験を申し込んだ際、希海も動きやすい服装で来るようにと返信をもらっていたが、ジャージやスウェット姿で公共交通機関に乗るのが恥ずかしく、迷った末にゆったりとしたシルエットのボトムスを穿いてきていた。

「では、体験代として二百円いただいて……ありがとうございます。皆川さんは、決まり字かるたは使いますか? 決まり字の暗記にはまだ自信がないって、メールにありましたけど」

「決まり字かるたって、なんですか?」

「取り札にあらかじめ決まり字が書かれている札です」

 岡村は鞄から競技かるた用の札を一箱取り出し、「ね?」と中身を希海に見せた。そこには確かに赤い字で薄く決まり字の書かれた札が収まっていた。これを使えば決まり字を覚えていない人でも競技かるたをプレイできるだろう。読まれた歌の始まりが赤く印刷されている札を取ればいい。

「でも、今までふつうの札でやっていたなら大丈夫ですね。皆川さんはどこでかるたを覚えたんですか?」

「息子が一時期、あまのはらかるた教室というところに通ってたんです。その流れで私も覚えました」

「なんだ、天野先生のところにいたの。それなら決まり字かるたはいらないね。天野先生は決まり字かるたが好きじゃないから」

 そう言うと岡村は声を上げて笑い、一気に砕けた口調になった。

「皆川さんの息子さんは何歳なの?」

「七歳……小一です」

「小一? 小一なら琉宇るうくんと一緒だ」

 岡村が舞台を振り返り、「武井たけいさん、琉宇くん」と呼びかけた。髪を後ろでひとつに結んだ女性が顔を上げ、自分の傍らで札を仕分けていた男の子の肩を軽く叩いた。

「武井です。この子が息子の琉宇」

 母親に挨拶を促された男の子がもじもじと頭を下げる。五月生まれで成長が早いはずの郁登よりさらに背の高そうな、黒縁眼鏡の子どもだった。

「武井さんは毎回お子さん二人と来てるの。うちに入ったのは一年くらい前かな」

「去年の秋ですね。あそこに琉宇の姉の花琉はるがいます。花琉は小五です」

 武井が指し示した舞台の端には、小学生と思しき女子三人が集まっていた。その中の一人、ボブカットで目もとの涼しい女の子が花琉のようだ。花琉は一瞬母親を見てから、希海に向かって首をすくめるように会釈した。

「皆川さんの息子さんは、今日は来ないんですか?」

 武井が舞台の上から尋ねた。

「息子は今、サッカークラブに入っていて……」

「そうなんだ。せっかくかるた教室に通っていたのに、もったいないですね」

 希海は自分の視線が下がるのを感じた。畳はい草ではなくビニール製のようで、陽光を受け、いやにてかてかしている。せっかく百枚の決まり字を暗記して競技かるたのルールを覚え、一字札を風のような速さで取れるのに、もったいない。郁登があまのはらかるた教室をやめた日から四ヶ月が経ったが、希海は自分がいまだにそう思っていることを自覚していた。

「あれじゃないの? 子どもはかるたをやめて、親が残ったパターン」

 岡村が言った。

「はい、それです」

「うちもそうだよ。今日はお休みだけど、もりさんのところもそう。結構多いよね、そういうおうち」

 岡村が遠くを見つめるような目で「子どもは楽しいことが次々に見つかるけど、大人はそうじゃないからなあ」と呟いたとき、襖が開いてさらに数人がやって来た。岡村の号令で全員で輪になって座る。最終的な今日の参加者は大人と子どもが十人ずつだった。希海は輪の中心で簡単に自己紹介し、その後、岡村の口から、「東京都東部初心者大会の締切が来週まで、上越大会のABC級が再来週までです。麟玉りんぎよくの案内が昨日届いたので、あとでメーリスに流します。みなさん、くれぐれも締切厳守でお願いします」と伝えられた。希海の耳には暗号のようにも聞こえる連絡事項だった。

「では、今日もがんばりましょう。よろしくお願いします」

 全員で手を前に突き、「よろしくお願いします」と礼をした。岡村が対戦の組み合わせを決め、舞台上のホワイトボードにマグネットのネームプレートを貼っていく。「天野先生仕込みなら問題ないと思うけど、ルールの確認も含めて私とやろうか」と言われ、希海は岡村と試合することになった。

「正座で足が痛かったら、そこの押し入れにある座布団を使ってね」

「大丈夫です」

「定位置はある?」

「ないです」

「じゃあ、好きに並べてもらおうかな」

「はい。よろしくお願いします」

 岡村と向かい合い、希海は左右三段ずつに札を並べた。昨晩、ルールと決まり字の復習にと一人で札を並べてみたが、人と取るのは久しぶりだ。「暗記の仕方はわかる?」と岡村に訊かれ、「場にある札の決まり字をひとつひとつ確認して場所を覚えていくんじゃないんですか?」と質問で返した。

「うーん、基本としてはそうなんだけど、もっと俯瞰的に配置を認識するために同じ音ごとに一枚札から覚えていくのが一応の基本かな。その音で始まる札が一枚しかないのが〈むすめふさほせ〉、二枚ずつある札が〈うつしもゆ〉、三枚札が〈いちひき〉、四枚札が〈はやよか〉で五枚札が〈み〉、六枚札が〈たこ〉、七枚札が〈おわ〉、八枚札が〈な〉で、一番多い〈あ〉札は十六枚。この順番に札の場所を覚えながら、ついでに空札がなにかも把握するの。これを暗記時間のあいだに三周くらいできるようになるといいね」

 希海は「はい」と応えて自陣と敵陣に二十五枚ずつ札の並ぶ場を見つめた。だが、緊張からか、決まり字を思い出すのに普段よりも時間がかかる。場にない札を一枚捉えるのにも相当な労力を要した。敵陣の〈たご〉の場所を覚えた途端に、自陣にあった〈た〉札二枚を見失う始末だ。岡村から教わった暗記方法は、三周どころか一周もできそうになかった。視界を埋め尽くさんばかりの平仮名の群れに、希海は次第に自分がなぜここにいるのかわからなくなってくる。三十九歳の母親である自分が七歳の一人息子と離れ、初めて訪れる公民館で小倉百人一首のかるた札の前に正座している。この状況はなんだろう。自分で決めたことのはずなのにおかしいと思う。

 タイマーが電子音を鳴らし、十五分の暗記時間のうちの十三分が終了した。希海は目の前の札に意識を戻したが、まったく集中できなかった。あとの二分は身体を動かして素振りすることが認められている。払う、一枚でもいいから札を払う、と念じながら、希海も見よう見まねで腕を振った。

「それでは本日の第一試合を始めます。よろしくお願いします」

 岡村の号令により全員で挨拶した。岡村が百人一首読み上げ専用機にリモコンを向けた。

「〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉〈いまをはるべと さくやこのはな〉」

 静かな部屋に女性読手の豊潤な声音が響き渡る。余韻のささやかな声の揺れが今までより一層クリアに聞こえた。この序歌が好きだ、と希海は思う。これからかるたが始まる合図に心が震える。

 そうだ。自分が、自分こそがかるたを取るのだ。

 

 岡村は会の代表だ。当然強いのだろうとは思っていたが、予想を超えていた。郁登が一字決まりを取るスピードが風なら、岡村のそれは光だった。岡村は大半の札に関しては指導に徹し、「あるよ、自陣。よく見て」「共札はまず敵陣に手を伸ばす」と声をかけつつ希海に取らせてくれたが、ときどき本気を出した。すると、まるで予知能力が働いたかのように、歌が読まれる前に札が消えた。希海の目にはそんなふうに映った。

 速いのは岡村だけではなかった。今日、この和室で繰り広げられている試合は十組。場に並べる五十枚は十組で揃えているそうで、読まれた歌が出札なら、ほぼ一斉に畳を叩く音が鳴った。そのタイミングがめっぽう速い。子どもたちの動きもあまのはらかるた教室とは段違いだ。希海は周囲の動きからその歌が空札ではないことを察し、場から取り札を探すありさまだった。

 払う形では一枚も札を取れないうちに試合は終了した。岡村からは「うん、ルールは問題ないね。競技かるたの上達って、ある程度までは単純に慣れだから」と明るい声音で言われたが、希海はここにきて指先に満ちていたエネルギーが急速にしぼむのを感じた。二試合目に対戦した琉宇も速かった。希海は七枚差で琉宇に負けた。あまのはらかるた教室を初めて訪れた日、「希海さんは耳がいいのね。それに頭の回転も速い。瞬時に違うって判断して、手をとめられた。運動神経もいいのね」と天野に言われたことを希海はどこかでよすがにしていた。だが、あれはお世辞だったのだ。三十九歳の未経験者にしては、という話でしかなかった。郁登ではなく久しぶりに自分が褒められ、調子にのってしまった。希海はうずくまりたいような羞恥を覚えた。

 それでも希海が入会を決めたのは、勇助に交渉し、郁登にも「ママ、かるたやるから」と宣言した手前、やっぱりやめたとは言いにくかったからだ。親がすぐに諦める姿を見せるのは、おそらく子どもの教育によくない。ちょうど昨日、漢字ドリルにわからない問題があり、腹を立ててノートを放り投げた郁登を、物に当たるな、できないことから逃げるな、と叱ったばかりだった。勇助には、俺の飲み会の話は継続でよろしく、と言われるだろう。そのあたりのことを鑑みると、しばらく通ったほうがいいように思われた。

「大人の仲間が増えて嬉しい。一緒にがんばろうね」

 岡村のきらきらした瞳が希海には眩しかった。

 

(つづく)