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「皆川さんは動きがかなりよくなったね。定位置が定着してきた感じがする」
岡村に声をかけられ、希海は手をとめた。光のどけき会のかるた札の裏面には一からまでの数字とAからJまでのアルファベットが一枚ごとに記されており、それらをもとに試合で使う札を全対戦で揃えている。本日の一試合目が終わり、二試合目用の札を選出しているところだった。
「あ、ありがとうございます」
定位置表が完成して二ヶ月が経った。希海は傍らに表を置いて試合に臨んでいるほか、家でも暗記に努めていた。まだとっさに手が伸びるまでには至っていないが、相手が攻めてきたときに、あそこにあった、と閃きやすく、反応で遅れても向こうの手を追い抜いて札を守れることが増えていた。
「でも、自陣に対する意識がちょっと強いかも。もう少し顔を上げて、視線を敵陣の中段から下段あたりに置いてもいいかもね」
今日は練習会の参加者が奇数で、岡村は一試合目は読手に回っていた。歌を読みながら会員たちの動きを見ていたようだ。今日の岡村は困り顔のクマのイラストに〈KUMATTA〉と書かれたTシャツを着ていた。
「敵陣も意識してるつもりなんですけど……」
定位置が決まったことで、札を並べる段階で自陣を把握しやすくなり、そのぶん、敵陣の暗記に時間を割けるようになったと感じていた。敵陣を抜ける枚数も増え、実際、前に七枚負けだった小学一年生の琉宇に、今の試合では三枚差まで迫ることができた。
「決まり字の短い札だと敵陣にも手が出てるんだけどね。〈ながか〉が読まれたとき、自陣の〈ながら〉にまずいってなかった? 〈なが〉が聞こえた時点で敵陣の〈ながか〉にしっかり手を伸ばす。読まれたのが〈ながら〉なら、お手つきしないようによける。別れ札は敵陣にいくのが攻めがるただよ」
攻めがるたとは敵陣の札を優先して取るプレイスタイルのことだ。送り札の機会を手にしやすく、それを活かすことで自分の得意な盤面を作れる。攻めがるたには競技かるたの基本が詰まっているそうだ。前に岡村から、「強制はしないけど、私は中年の方にこそ攻めがるたを薦めます。流れに乗れば大差で勝てるから、試合に使う体力が温存できるよ」とまっすぐな目で言われ、希海もとりあえず攻めがるたを志すことにしていた。
「共札は歌が読まれた瞬間にどっちが敵陣にあったかわからなくなっちゃうんですよね。どうしても混乱しちゃって……」
「ひととおり暗記が終わったら、自陣のことは一旦忘れてもいいのかも」
「忘れちゃっていいんですか?」
「定位置が身についていれば、相手の攻めこぼしを意外と拾えるよ。っていうか、初めのうちは自陣は取られてもいいんだよ、攻めがるたを目指すなら。とにかく狙うは敵陣。敵陣の二十五枚は全部抜く心づもりでいこう」
「わかりました」
希海は札の仕分けが終わるとスマートフォンのメモアプリに岡村のアドバイスを入力した。ここには毎回の試合結果や反省点を書き留めている。画面をスワイプし、過去の記録を読み返した。〈「わすら」と「わすれ」をずっと並べてたら相手に抜かれた。さっさと片方送ればよかった〉〈終盤、「たち」でお手つき。まだ「た」決まりになってなかった。「たか」を忘れてた〉〈音への集中が足りない〉〈もっと集中すること!〉〈集中!!〉などの言葉に一人頷く。ほとんど一試合ごとに課題は生まれ、解決は一向になされない。問題は積み上がるばかりだ。それでも対処すべき事柄がはっきりしているのは希望だった。
先週、郁登に「うるせえな」と吐き捨てられた。「あとでやる」と言っていた学校の支度を始めないため、やや強く叱責したときのことだった。
「……今、なんて言った?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。希海の声の低さにまずいと思ったのか、郁登は「なにも言ってない」と強張った顔を横に振った。だが、目はせわしなくまばたきを繰り返し、その発言が真実ではないことを伝えていた。
「嘘を吐かないっ」
希海はぴしゃりと言った。「そういう言葉は使わないでって、ママ、前にも言ったよね?」
近ごろ郁登の言葉遣いが急激に荒れている。幼稚園のころはかっとなって手が出ることはあっても、口の利き方を乱暴だと感じたことはなかった。それが最近、友だちに「おまえさあ」と話しかけたり、テレビに向かって「クソじゃん」と悪態をついたりする姿を見かけるようになった。クラスメイトのことを「あいつ、馬鹿だからさ」と言ったときには真剣に叱ったが、「直接は言ってないよ」などと言うあたり、本人にはいまいち響いていないような気がした。
夜、帰宅した勇助に相談を持ちかけたが、反応は「考えすぎ。男なんてそんなもんだよ」と素っ気なかった。
「男って……郁登はまだ七歳だよ?」
「年は関係ないよ。男は舐められたら終わりだからね。俺だって郁登くらいのときに、勇ちゃんって呼ぶなよって母親に突然怒鳴ったなあ」
「そうなんだ……」
希海はコーヒーを啜った。九州の片田舎に生まれた希海にとって、勇助はいかにも都会育ちの男性だった。基本的に物腰が柔らかく、男同士で盛り上がっているときですら、地元の同窓生や兄とは品が違うと感じていた。
「うるせえな、なんてかわいいじゃん。むしろ成長の証だと思うよ」
勇助の言葉に一応は納得したつもりだった。だが、また同じことを吐き捨てられたときに成長の証だと受けとめられる自信はない。郁登が荒っぽい言葉を使うたびに脳裏にちらつくのは、反抗期の激しかった兄だ。郁登には兄のようになってほしくない。その思いを拭いきれず、郁登の発言の端々に耳をそばだてては、注意と許容のあいだで迷うことの連続だった。
人生における課題はわかりやすい形をしていないことのほうが多い。
しかし、かるたは違う。
「では、二試合目の組み合わせを決めます」
岡村がホワイトボードに会員のネームプレートを貼りつけた。今度の希海の相手は先週入会したばかりの大塚だった。三十代前半くらいの男性で、自己紹介によると、大学時代に平安文学を専攻し、そのときに小倉百人一首を覚えたらしい。競技かるたもかじったことがあると話していた。
「よろしくお願いします」
互いに礼をする。とにもかくにも敵陣だ。希海は心を決め、暗記時間の後半はあえて自陣を確認しなかった。序歌が読まれ、岡村の助言に従い顔を上げる。そうすると、自陣はほとんど視界に入らない。一瞬、鍵をかけずに家を出てきたような不安に駆られた。相手の好き勝手にこちらの陣を荒らされるかもしれない。だが、視線は戻さない。大事なのは、敵陣を抜くこと。
「〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉〈いまをはるべと さくやこのはな〉」
試合が始まった。
「〈ふくからに――〉」
一枚目は一字決まりの空札だった。畳を叩く音が一斉に鳴る。そうすることで一度溜まったエネルギーを発散させたり、次の歌に向けて気持ちを切り替えたりするのだ。希海は場にある一字決まりをおさらいし、敵陣右下段の〈さ〉と左下段の〈ほ〉には実際に手を伸ばした。暗記時間の後半二分と同様に、試合中も下の句が読まれるまでは素振りが認められている。身体を動かして取り方をイメージするのは大切だと言われていた。
「〈おくやまに――〉」
二枚目の〈おく〉は自陣上段にあり、大塚に押さえられた。敵陣の〈おおえ〉に気を取られていて守れなかったのだ。思わず気落ちしそうになるのを、それでいい、と希海は自分に言い聞かせる。大塚の送り札は〈つき〉。隣り合っていた〈つき〉と〈つく〉を分けてきた。共札を自陣と敵陣で分け、相手に少しでも取りにくくさせるのは送り札の基本のひとつだった。
三枚目は空札で、四枚目と五枚目はまた希海の陣が読まれた。そのどちらも大塚に取られ、焦りがじわじわと身体の内側を炙っていく。単純に考えれば、札が多い陣のほうが歌が読まれる確率が高い。自分と大塚のあいだには早くも六枚差がついている。多少は自陣にも意識を向けたほうがいいのではないか。迷いがあぶくのように生まれる。いや、今回の課題は敵陣だ。敵陣を一枚でも多く抜くのだ。希海は下がりかけていた視線を戻した。
「〈なつ――〉」
鼓膜が震え、思考する前に身体が動いた。希海は大塚の左中段に向かって腕を伸ばし、指先で思いきり札を払った。
「〈――は まだよひながら あけぬるを――〉」
耳が音を取り戻す。希海は前屈みの体勢のまま数枚の札が飛んでいった方向を見つめた。札のうちの一枚は畳を滑り、和室の端に到達していた。
「ありがとうございました」
畳に手をつき、頭を下げた途端に大きな息が漏れた。大塚に勝った。七枚差で、かるた会に入って以来の希海の初勝利だった。
「皆川さん、すごいですね」
全組の対戦が終わると、大塚は太い眉毛を八の字にして笑った。
「たまたま調子がよかっただけです。いつもはもっとお手つきするので」
「皆川さんは三ヶ月前に入られたばかりだって岡村さんから聞いたんですけど、全然そうは見えなかったです。家でも練習しているんですか?」
「家ではなかなか……。やったほうがいいのはわかっているんですけど」
希海は額を掻いた。決まり字や定位置の復習は欠かさないように心がけているが、スマートフォンで音声を流し、一人でも試合形式で札を取る練習は一回が一時間近くかかることもあり、滅多にできない。朝と昼は家事やパートに時間が費やされ、夕方は郁登の相手をせねばならず、夜は疲れていた。
「大人は忙しいですからね」
大塚は深々と頷いた。「僕も今になって、大学時代にもっとちゃんとやっておけばよかったと思っています」
「大塚さんが大学でかるたをかじっていたというのは、サークルですか?」
「そうです。二週間でやめちゃったんですけど。僕がゼミで小倉百人一首を覚えたことを知った友だちの友だちから誘われたんです。熱心な先輩が何人かいて、週に五日とか六日とか活動しているサークルでした」
「部活とかサークルだとそうですよね。私は羨ましいです。でも、どうしてやめたんですか?」
「そのときは競技かるたがあまりに歌の意味を蔑ろにしている感じがして、抵抗があったんです。ほら、音のことしか考えていないじゃないですか。このゲームに小倉百人一首を使う意味ってなんだよって不満でした」
「今はもう気にならないですか?」
「全然。平安文学となんの関係もない仕事に就いちゃったし、このまま小倉百人一首を忘れるほうが悔しくて……。読みを聞いているだけでも楽しいので、始めてよかったと思っています」
大塚の表情は朗らかだった。
帰りのバスに乗ると、希海は真っ先に咲千にメッセージを送った。初勝利を報告したかったのだ。「たまたま調子がよかっただけです」と大塚には謙遜したが、希海はあの試合で確かな手応えを得ていた。〈なつ〉のみならず、その後も敵陣の札を払えたこと。〈つきみれば〉の歌が読まれたときには〈つ〉の音でまず敵陣の〈つく〉に反応し、二音目が聞こえた瞬間に自陣の〈つき〉に戻れたこと。戻り手と呼ばれるその動きも初めて実践できたような気がする。送り札の機会には比較的得意な札をどんどん選び、それがばんばん読まれて中盤には六連取した。自分はちゃんとかるたをしたのだ、という高揚が血液に溶けて全身を巡っているようだった。今までもかるたをしていたつもりだった。だが、先ほどの一戦は本当に、紛れもなくかるただった。
今回は咲千からすぐに返信があった。
〈やりましたね! おめでとうございます!〉
ハートマークまで添えられたメッセージに続き、〈私は妊婦ライフを満喫……はしていなくて、一日も早く産みたいです。腰が痛い〉と届いた。希海は郁登が生まれる直前のことを懐かしく振り返った。人間の腹部があそこまで膨らむとは思っていなかった。咲千の出産予定日である三月下旬まで、あと一ヶ月強。小柄な彼女に妊娠後期のあの重さは一層応えるだろう。
体調を案じる返事を送り、スマートフォンをダウンコートのポケットに戻した。立春はとっくにすぎているが、いまだに厳しい寒さが続いている。バスの乗客も大半が厚着していた。希海の頭に〈きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ〉という小倉百人一首の歌が思い浮かんだ。春の歌にもかかわらず降雪の光景を詠んだ一首で、現代の暦に置き換えるとしたら今ごろがぴったりかもしれなかった。
あまのはらかるた教室で学んだとき、自分がこの歌に一組の親子を見たことを希海は思い出す。雪の降りしきる中、母親が子どものために花を摘んでいる歌のように感じたのだ。郁登が二歳のころ、前日に公園に置き忘れたバスのおもちゃを取りに戻ったときの自分の記憶に重なっていた。あの日の天気は雪ではなく、小雨だった。「雨がやんだらね」という希海の説得を郁登は受け入れず、「今すぐ行くうっ」と床にひっくり返って絶叫していた。
希海は背もたれに体重をかけて瞼を閉じた。この歌の決まり字は、〈きみがためは〉。〈きみがためを〉が決まり字の、〈きみがため をしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな〉の歌と共札の関係にある。このような六字決まりの札は大山札といい、どちらかの歌が読まれるまではスピード勝負で取ることはできない。相手が札に触れられないように手で囲み、決まり字の最後の一音にさらに耳を澄ませ、出札だった場合はぱっと手を伏せる、囲い手と呼ばれる取り方をする必要があった。
囲い手はまだ一度もできたことがないな、と希海は目をつむったまま思う。
いつかは渡り手もしてみたい。渡り手は共札や同じ音から始まる札が陣の左右に分かれていたときに両方をすばやく払う技で、非常に華がある。あれを決めてみたい。それから、四字決まりや五字決まりに強くなりたい。決まり字の長い札を落ち着いて取るにはどうすればいいのだろう。〈あ〉札の決まり字の変化についていけるようにもなりたい。しなやかなフォームを身に着けたい。指先で華麗に払いたい。美しく札を取りたい。
課題はまだある。
自分は、まだまだかるたがうまくなる。
(つづく)