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言い合いの最中からこれは長引くかもしれないという予感はあったが、喧嘩から一ヶ月が経っても希海は勇助とぎくしゃくしていた。挨拶や連絡事項は交わし、郁登の前ではふつうに会話している。だからこそ、改めて話し合う必要性を感じない。いや、話し合ったところで自分も勇助も謝らないだろう。どちらもいまだに相手のほうが悪いと考えている。希海はそのことを確信していた。
思えばこれほど長期に亘って人と揉めるのは初めてだった。小中学生のころの友だちとの喧嘩は、翌日にはどちらかが折れた。高校生以降はそもそも友だちと正面からぶつからなくなった。大学生になり、ついにできた恋人とは、初めて言い争った際にそのまま別れた。彼の遅刻癖に対する苛立ちが、ある日急に爆発したのだ。次にできた恋人は顔が好みなあまりに希海がすべてを許してしまい、一度も喧嘩しないうちに彼の浮気が発覚した。問い詰めた際も向こうは終始へらへらしていて、口論にならなかった。
結婚前の勇助とは衝突しても、その場で解決することが多かった。だから、この人となら温かい家庭を築けるのではないかと思った記憶がある。希海の退職の件でぶつかったときは双方謝らなかったが、乳児という嵐が家の中心に存在していたから、長々と硬直状態を続ける余裕がなかった。乳児が壊し、なぎ倒していくものを共に直し、瓦礫の隙間で光る宝石を一緒に愛でるうちに、いつの間にか夫婦関係は落ち着きを取り戻していた。
自分と勇助は今後どうなるのだろう。
希海は水筒の麦茶を飲み、外を見遣る。北東地区公民館のフェンス沿いに植えられた木々は紅葉を迎えていた。空は色が淡く、高い。秋が徐々に深まっている。岡村の、「次の対戦を組むよー」という声が和室に響いた。今日の岡村は、オープンカーに乗ったラクダのイラストに〈KORYA RAKUDA〉と書かれたTシャツの上からコルセットを巻いていた。腰痛はだいぶよくなったと言っていたが、まだ本調子ではないらしい。
希海の二試合目の相手はE級の女子中学生になった。
「〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉〈いまをはるべと さくやこのはな〉」
希海は息をとめ、最初の音に耳を澄ませた。だが、アクリル板越しかのように読手の声がくぐもって聞こえる感覚は消えなかった。
「〈ひさかたの――〉」
相手が手首を返すように右下段を払って守る。光のどけき会の名前の由来でもある歌だ。この札が得意な会員は多い。敵陣にあった場合、意識していても抜けるかどうかの確率は半々だ。しかし今、希海は畳から手を浮かせることもできなかった。〈ひさ〉だ、と歌を認識したときには取られていた。
東京都東部初心者大会を欠場した翌週からこの調子が続いている。暗記が脳に入らない。敵陣が遠い。身体が重い。全身の神経が伸びきってしまったかのようだ。たった数音を聞いてしかるべき札に触れるような真似がなぜできていたのか、このごろはそれこそを不可解に感じる。かつて岡村に言われた、「D級に上がるのに一番大事なのは集中力だよ」という言葉を希海は噛み締めた。あれは真理だった。余計なことを限界まで取り除いた頭でしか、意識は研ぎ澄ませられない。気持ちの乱れている人間は集中できず、集中できない人間にまともなかるたが取れるはずもなかった。
結局、二ヶ月前には四枚差で勝った相手に九枚差で負けた。希海は一度もお手つきをしなかったが、それは単純に身体が動かなかったからだろう。お手つきすらできなかったという感覚に近い。一方、相手のお手つきは五回。それでなおこの枚数差なのは、こちらがいかに無様だったかを表していた。
メモアプリに反省点を打ち込もうとして指がとまる。なにも書きたくない。毎試合、自分のふがいなさを突きつけられるのが辛かった。大差で負けそうなときも、以前ならせめて一枚でも多くきれいに札を取ろうと思い直せたが、最近はそのまま意欲がしぼんでいく。自分にこれほど情けない一面があったとは知らなかった。希海は昔から勉強も運動も得意で、人間関係に大きな問題を抱えたこともない。また、無謀な挑戦を好む性格でもなかった。この、困難に立ち向かう機会のめっぽう少ない人生が、根性なしでふにゃふにゃの自分を作り上げてしまったのだろうか。希海は首を横に振り、一文字も入力しないままスマートフォンを鞄に戻した。
「時間だよー。出て出てー」
スマートフォンをいじっていた小中学生を岡村が追い立てる。公民館の部屋の予約は時間厳守で、帰り際は毎回慌ただしい。「はい、今日もお疲れさま。みんな、また来週ね」と岡村が胸の前で手を振った。
翌週の一試合目で、希海は初めて大塚に負けた。
この日も集中力には不安があった。しかし、序盤に敵陣ばかりが読まれたために、攻めがるたが身につきつつあった希海のほうが始めは優勢だった。ここから自分は立ち直るのかもしれない。一筋の希望を感じた。慎重に送り札を選び、共札を分けたあとは決まり字の短くなった攻めやすい札を差し出した。その選択は間違っていなかったはずだ。だが、それらの大半を希海は抜けなかった。大塚の守りは堅牢だった。彼は一枚ずつ着実に札を減らすと、そのまま逆転した。
大塚が残り一枚になったとき、希海のもとにはまだ三枚の札があった。歌が読まれる陣の確率を考えて守りに切り替えようとしたが、動揺が収まらない。大塚とのこれまでの対戦成績は希海の七枚勝ち、八枚勝ち、五枚勝ち、五枚勝ちで、彼を脅威に感じたことはなかった。小倉百人一首に詳しいことと競技かるたで札が取れることは別なのだと、そんなふうに思ったこともある。それがしばらく対戦しないうちに、彼の動きは格段によくなっていた。
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
読まれた〈こぬ〉は空札だったにもかかわらず、最後、希海は自陣の〈おも〉に触れた。同じ音から始まるわけでも子音が共通しているわけでもない。パニックの果てのお手つきで、自らとどめを刺すような負け方だった。
畳から頭を上げた大塚の顔は喜びに輝いていた。その顔に、負けちゃいました、強かったです、と明るく声をかけてやるのが大人の嗜みなのだろう。しかし、どうしても自然な笑顔が作れない。全組の対戦が終わると、希海は「ちょっとお手洗いに行ってきます」と告げ、トイレに駆け込んだ。
個室のドアに鍵をかけ、便器には座らずに壁にもたれた。両手で口を覆い、泣き出さないように呼吸を整える。大塚とは光のどけき会に入ったタイミングこそ三ヶ月しか違わないが、入会した時点の彼のかるたは自分以上に初心者然としていた。希海は、自分は大塚にアドバイスする側だと思っていた。今日も勝ち越していた序盤には、試合後に彼を励ます言葉まで考えていた。
恥ずかしい。悔しい。辛い。
もうやめたい。
頭に浮かんだ言葉の強さにたじろぎ、希海は口から手を離した。自分より早くかるたを始めた人に負けるのは当然だ。だから、練習会で勝てなかった時期にも深刻に落ち込んだことはない。それが後輩に負けた途端、これほどの苦しみに襲われるとは。自分より遅く始めた人に負けると、練習量でも経験値でもなく、素質や才能にこそ上達の理由があるような気がする。自分がかるたをやる意味まで蹴散らされたように感じて、希海は下唇を噛んだ。
郁登が有馬に負けたときも、こういう気持ちだったのか。
希海ははっとした。郁登があまのはらかるた教室に通い始めたのは有馬よりあとだが、幼稚園児にとって、年の差とは絶対的なものだろう。自分より未熟だと思っていた相手に敗北を喫する。郁登は胸がただれそうなほど悔しかったはずだ。希海は今さらながらにその屈辱を理解した。暴れたことは認められないが、叱るだけでなく、そうだね、悔しいね、と言えばよかった。
自分は母親としてもまったくだめだ。希海が両手で額を支えるように頭を抱えたとき、「希海さん、いるー?」と奈穂の声がした。
「あ……いるよ」
「大丈夫? 体調が悪い? 二試合目がもうすぐ始まるんだけど……」
「……ごめん、お腹が痛くて二試合目は無理かも。先に帰らせてもらうね」
もう一戦はとてもできそうになかった。
「わかった、岡村さんに伝えておく。平気? タクシーを呼ぼうか?」
「ううん、そこまでじゃないと思う。ありがとう」
奈穂の足音が遠ざかっていく。希海は数分待ってから和室に戻った。会員たちは二試合目の暗記時間中だった。「大丈夫?」と岡村に小声で訊かれ、希海は「そんなにひどくはないんですけど、早めに帰って休みます」と返した。荷物をまとめて和室を出る。大塚には仮病であることが見抜かれそうな気がして、彼のほうは一度も向けなかった。
普段より一時間半早く自宅マンションに着いた。バスに揺られているあいだは家でぼうっとしたいと思っていたが、エントランスに入る直前で気が変わり、そのまま小学校に赴いた。無性に郁登の顔が見たかった。
校庭では緑のユニフォームを着た子どもたちがドリブル練習の真っ最中だった。希海はフェンス越しにその様子を眺めた。郁登は一番端にいた。本来なら前を向いて足だけでボールを捌かなければならないが、それができずに足もとを見ている。まだ頭身の低いあどけないフォルムに希海の胸は詰まった。グリーンブルズの保護者が集まる一角に急ごうとしたとき、勇助が郁登に近づくのが見えた。勇助が短く声をかけると、郁登の顔はたちまち上がった。
たったそれだけの光景に、希海の気持ちはすっと温度を下げた。勇助と郁登のあいだの信頼感に当てられたような気がしたのだ。足早に小学校から離れ、近くのコンビニエンスストアに入る。目についたレモン酎ハイの缶をなかば衝動的に購入し、店を出ると同時に開けたが、家に着くまでには半分も飲めなかった。希海は残りを流しに捨て、ソファに寝転がった。すると、天井に走るクロスのまっすぐな継ぎ目が視界に飛び込んできた。
郁登が幼稚園に入る前は癇癪を起こした我が子に疲れ、この体勢で呆然とすることがよくあった。うどんが思っていたよりも短かったとか前後ろを逆に着た服を直したくないとか、小さいころの郁登はごくささいな不満から怒りに火が点いた。叱ってもなだめても泣きやまない郁登といると、希海はすべてがどうでもよくなり、自分から生の気配が薄れる気さえした。今思えば、あれは郁登に手ひどい暴力を振るわないための、脳の強制シャットダウンシステムだったのかもしれない。あのクロスの継ぎ目は、近隣住民からの泣き声に対する苦情や児童相談所職員の訪問に怯える気持ちも消え、無為に天井を見上げていた時間に必ず視界にあったものだった。
勇助はここにこんなにもくっきりした線があることを知らないだろう。
希海は額に腕を乗せて目をつむる。自分がなにに苛立ちなにに気落ちしているのか、もはやわからない。ただ強烈な孤独感があった。
〈あはれとも いふべきひとは おもほえで みのいたづらに なりぬべきかな〉
和歌が頭に浮かぶ。決まり字は〈あはれ〉で、郁登にとっての「俺の札」である〈あはじ〉の共札だ。希海も〈あはじ〉は得意で、そのぶん〈あはれ〉の印象は薄かった。試合に使う五十枚に〈あはれ〉のみがあったときには、こっちか、と残念にも思っていた。しかし、今はこの歌こそが身に沁みる。自分のことをかわいそうだと言ってくれる人がいるとは思えない、自分はこのまま空しく死んでしまうのだろう、という内容は失恋を詠っていると天野からは教わったが、今日の希海には孤独感の結晶のように感じられた。
そのままソファで少しうとうとしていたようだ。玄関のドアが開く音で希海は目を覚ました。
「ただい……あれっ、ねえ、パパ。ママの靴があるよ」
「本当だ」
「ママ、かるたからもう帰ってきたのかな。ママ、いるのー?」
郁登が大声を上げた。途端に部屋の中が明るくなり、数十分前との雰囲気の差に希海は思わず笑った。
「いるよ。おかえり」
希海は玄関に顔を出した。
「えー、ママ、早くない?」
「びっくりした」
勇助も驚いた顔をしていた。
「実は体調不良で早引けさせてもらった」
「え、大丈夫なの?」
勇助が尋ねる。
「うん、寝てたらよくなった」
「それはよかった」
勇助が壁に片手を当て靴を脱ぐ。郁登はその腕をくぐるように部屋に上がり、「腹減ったー」と言いながらリビングに突進していった。希海は郁登の背中に「手洗いとうがいっ」と叫んだ。
「昼食、ママも食べるなら三人前作るけど」
脱いだスニーカーに視線を据えたまま勇助がぼそりと言った。
「……お願いします」
「了解」
勇助は小さく顎を引いた。
(つづく)