6
「礼をする順番は自分に近い相手から。だから、もし運命戦になってここに審判がついてくれた場合は、対戦相手、審判、読手の順ね」
「はい」
「それから札がちゃんと五十枚あるかを対戦相手と確認する。試合が始まる前に一番上にあった札を、同じように一番上に重ねてまとめてください。使う札は試合ごとに全対戦で揃ってるよ。札を引き上げて役員に結果を報告するのは勝ったほうの役目ね。その際には自分の所属会と名前だけじゃなくて、席番号も言ってください。三番、光のどけき会の皆川です、一枚です、みたいに」
「……わかりました」
「そんなに心配しなくても平気だよ。基本は普段の練習会と同じだから。下の句が読まれたら動かない、読手のすぐ前や後ろはとおらない、人の競技線内には立ち入らない、誰かが飛ばした札を探すのには協力する。ね? いつもやってることでしょう?」
「そう……ですね」
今日は年内最後の練習会だった。希海は一週間後に出場する迎春全国大会に備え、大会の流れや作法をおさらいがてら、二試合目に岡村と対戦した。五ヶ月前にも教わっていたが、今度こそ大会に出るという意気込みは緊張を高まらせ、気持ちが落ち着かなかった。二匹のワニが互いの尾を咥えたイラストと、〈WANI NARU〉の文字がプリントされたTシャツを着た岡村は「大丈夫だって」と鷹揚に笑うが、希海が大会と名のつくものに関わったのは高校時代が最後だ。「運動部の中で一番楽らしいよ」と噂を聞きつけた友人に誘われてバドミントン部に入り、地区予選に毎年出場していた。しかし、楽らしいという噂は真実で、部員も顧問も誰一人として結果を追い求めていなかった。希海もバドミントンの試合前にそわそわしたことは一度もなかった。
「ねえねえ、希海さん。迎春の日なんだけど、もしかしたら乗り換えの駅が私と同じかも。現地じゃなくて、そっちで待ち合わせをしない?」
奈穂に呼ばれ、希海は彼女と並んで和室の隅に腰を下ろした。迎春全国大会のE級の部には定員数の倍近い申し込みがあったらしく、抽選に当たるかどうかが不安だったが、二人は見事にその枠を掴んでいた。
「駅から体育館までは近いんだっけ?」
「歩いて五分くらいかな。これは助かるよ。真冬で天気の悪い日に駅から遠いところが会場だと、一試合目は寒さで全然動けないから」
迎春全国大会の会場となる区民いきいき総合体育館は、希海のマンションから三十分ほどのところにある公共施設だ。E級の部は毎年そこの武道場で行われているらしい。奈穂は目の前の畳を軽く叩き、「床が柔道用の畳なんだけど、ここみたいなふつうの畳とは違って札が飛びにくいんだよね」と言った。
「一回戦だけでも勝ちたいな」
「希海さんならいけるよ。ただE級って、選手の層が幅広いんだよね。札を覚えたばかりかな? みたいな初心者もいれば、実力充分なのに足踏みしている歴戦の猛者もいるし、始めてすぐに才能が開花した、実質C級みたいな天才もいる。E級は魔窟なのよ。どういう人と当たるかは運だからなあ」
「やっぱり大事なのは運かあ」
「大会までに徳を積むしかないよ。ちなみに私は今年の迎春のために初詣で奮発して、賽銭箱に五百円玉を入れました」
「えっ、効果あった?」
「束負けの一没です」
希海と奈穂は顔を見合わせて笑った。束負けとは十枚以上の差がついて負けることで、一没は一回戦で敗退することだ。東京都東部初心者大会で行われるような敗退者同士の練習試合は、迎春全国大会にはない。どんなに遠くから参加しても、一回戦で負けたらそこで去らなければならなかった。
「あのっ、岡村さん。花琉ちゃんから茉衣子ちゃんがかるたをやめたって聞いたんですけど、なんでですか?」
和室を使える残り時間で坊主めくりをしていた子どもたちが尋ねた。小学校の低学年から中学生まで、揃いも揃って心配そうな顔をしている。そういえばこの一ヶ月ほどC級小学生の茉衣子の姿を見ていない。希海もはっとして岡村のほうを見遣った。
「あー、うーん……」
岡村は眉を八の字にして言い淀んだのち、「かるたをやる気持ちがなくなっちゃったみたい。でも、きっとまた戻ってくるよ」と返した。
「えーっ」
岡村の返答に子どもたちはざわめいた。希海も驚き、「茉衣子ちゃん、どうしたのかな」と思わず傍らの奈穂に尋ねた。
「実は茉衣子ちゃんのママと話す機会があったんだけど……茉衣子ちゃん、それこそ大会で束負けの一没続きで、心が折れちゃったんだって」
奈穂は小声で答えた。奈穂の娘の花琉と茉衣子は同い年だ。二人は練習会でもしょっちゅう一緒にいて仲がよかった。今も花琉は子どもたちの中でこちらが痛々しく感じるほど沈鬱な表情を浮かべていた。
「茉衣子ちゃん、あんなに感じがよくて強いのに……」
もったいない、と続けようとして、希海は慌てて言葉を呑み込んだ。郁登がかるたをやめたことを周囲からそういうふうに言われるのが嫌だった。かるたにこそ価値があり、それを手放したことは人生における大失態だと言われているように思えた。自分もまた郁登にかるたを続けてほしかったからこそ、余計に辛く感じられたのだろう。だが、それは傲慢なのだ。この場には茉衣子も彼女の親もいないが、あの言葉を口にしないことが自分なりの筋だと思った。
「子どもは勝てなくなるとやめちゃうからね」
奈穂が言った。「こういう話はほかの会でも珍しくないみたい。強い子ほど、負けが込んだ時期にすぱっとやめちゃうことがあるんだって」
「勝てるから楽しかったのかな」
「あと、子どもはほかにも楽しいことが周りにたくさんあるからね。友だちと遊びに行ったりゲームしたり、そういうこともしたかったのかも。かるたって、どうしても土日の時間を使うから……。茉衣子ちゃんはかるたが大好きだったけど、それでも我慢してた部分はあると思うよ。まだ小学生だもん」
「そうだよね」
「うちもいつまで一緒にできるかな」
奈穂が弱々しく笑ったとき、いよいよ終了時間が迫り、岡村が片づけを呼びかけた。和室を出たあとは公民館の前でみんなでなんとなく輪になり、いつになくかしこまった顔つきで会釈した。
「よいお年を」
「よいお年を」
希海も頭を下げてバス停に向かった。公民館の自動ドアには〈年末年始休館のお知らせ〉と書いた紙が貼られていた。バス停までの道のりでも正月飾りを設えた家を何軒か見かける。裸の街路樹が北風に耐えている。
息を吸うと年の瀬の匂いがした。
大会当日、希海はアラームの音で目を覚ました。洗濯機をセットして朝食を済ませる。洗濯物を干すのは勇助と郁登に任せる手はずになっていて、今日は夕飯の作り置きもしない。帰りが遅くなった場合には、昨日多めに作って冷蔵庫に入れておいた副菜を献立に足して、インスタントのラーメンなり冷凍うどんなりを適当に食べておいてほしいと伝えている。自分にとって勇助は対等な家族で、かるたは大事な趣味だ。下手に出ることはそういった事実を歪ませてしまう。希海は自分の昼食のおにぎりだけ握った。
希海が家を発つ時間になっても勇助と郁登は眠っていた。学校が冬休み中なのをいいことに、昨晩は二人して遅くまでサッカーアニメの配信を観ていたのだ。希海は勇助の肩を揺すり、「行ってくるね」と告げた。
「ああ、そうか。かるたの大会か」
驚いたことに、勇助はわざわざ布団を出て見送りにやって来た。勇助は玄関でパジャマ一枚の身を「寒っ」と震わせ、「郁登から俺の札があるって聞いたんだけど」といきなり口にした。
「俺の札?」
「百人一首にパパの札があるって、前に郁登が言ってた」
「ああ、〈ゆふ〉ね。勇助の〈ゆう〉から始まる歌があるの」
それは大納言経信が〈ゆふされば かどたのいなば おとづれて あしのまろやに あきかぜぞふく〉と詠んだ歌だった。秋の夕方、家の前の田んぼの稲が音を立てて風に吹かれるさまを表している。感情に絡まるような湿度が低く、さっぱりとした雰囲気がどこか勇助の性格にも通じていた。
「今日はそれを取ってきてよ」
希海は勇助の顔をまじまじと見つめた。
「……敵陣にあったらね。〈ゆふ〉は〈うつしもゆ〉の一枚で若い子が信じられないくらいに速いから、それでも抜けるかどうかわからないけど」
「やばい、希海がなにを言ってるのか全然わからない。でもまあ、頼むよ」
勇助は目ヤニのついた顔で笑った。
「わかった。狙えるチャンスがあったらやってみる」
「今日はがんばって」
「ありがとう。いってきます」
「いってらっしゃい」
希海はストールを巻き直して家を出た。今日はこの冬一番の寒さで、駅までの道では小雪がちらついた。分厚い雲が広がる空の下、スカイツリーは今日も高い。下町と呼ばれるこのエリアに希海が越してきたのは単に勇助の仕事の都合だったが、世界一高いタワーを毎日見上げられる生活は気に入っていた。
奈穂とは予定どおりに乗り換えの駅で落ち合った。「明けましておめでとうございます」と挨拶する。ホームで寒さを嘆きつつ、次の電車に乗った。
「そういえば、今日、花琉ちゃんと琉宇くんは? パパが見てるの?」
花琉と琉宇も迎春全国大会に申し込み、しかし抽選で落ちたそうだ。光のどけき会の会員で本日出場するのは希海と奈穂だけだった。
「ううん、同居のじいじとばあばに任せてきた。うちの旦那は家電量販店で働いていて、この時期は初売りで忙しいからまず休めないんだよね」
「初売り。それは大変だね」
車内は座れない程度には混んでいた。二人でドア付近に立ち、ぽつぽつと言葉を交わす。希海は高校時代を思い出した。田舎の電車は本数が少なく、登校と下校の時間には自分と同じ学校の生徒で溢れた。こんなふうに電車に揺られながら友だちととりとめのない話をした朝が、夕が、幾度もあった。
「希海さんの旦那さんのご両親はどんな人なの?」
「うちはすごくいい人たちだよ」
義妹以外は、と胸の中で付け加えた。今年の正月にも絢子から、「大会? 大人がそんなに真剣にかるたをやってどうするの?」と言われていた。
「嫌な思いとかしたことない?」
「ないかなあ。お義母さんは趣味で忙しい人で、そもそもそんなに会わないんだよね。夫の実家は神奈川だから、遠いってわけでもないんだけど」
「いいなあ……とは思うけど、今日みたいなときには子どもを預かってもらえるし、家賃と光熱費は免除してもらってるし、同居のメリットを堪能してるからなあ。あんまり文句も言えないかあ」
「奈穂さんのところは……大変なタイプのご両親なの?」
「いろいろ言ってくるタイプなんだよね。あれを食べろ、これは食べるな、とか。最近は、かるたはもう終わりにして、花琉を塾に行かせて琉宇には中学受験をさせるべきだってずっと言ってる」
「あー、子どもの教育のことに口を挟まれるのは嫌だね」
親子でかるたを楽しみ、あちこちの大会に出かけている奈穂を妬んだこともあったが、なにごとにも事情はあるものだ。年末の練習会で「うちもいつまで一緒にできるかな」と言っていた際の奈穂の顔を希海は思い出した。子どもを巡る環境がいかに移ろいやすいか、自分もわかっているはずだった。
奈穂の義両親の話を聞くうちに目的の駅に到着した。改札を出たあとは区民いきいき総合体育館の方向に歩き出す人が多く、希海も奈穂とその流れに加わった。動きやすそうなボトムスを穿いている人が全員かるた選手に思えてくる。迎春全国大会の受付は広い武道場の両辺に設けられていた。四百五十人近い選手はあらかじめ十六ブロックに分けられていて、そのブロック内で三連勝すれば三位となり、D級に上がれる。希海はGで奈穂はHだ。それぞれのアルファベットが掲げられている長机で受付を済ませた。
柔道畳の外にあるフローリング部分が選手の待機場所だった。すでに人でごった返しつつあり、希海と奈穂は場内を歩き回ってスペースを探した。自分が所属しているかるた会や学校の名前の入ったTシャツを着ている選手がほとんどだ。想定していたよりは大人が多いが、それでも全体の四ぶんの三は小中高生と大学生が占めているだろう。みんな自分よりもうまそうだ。希海が緊張に胸を押さえたとき、正面から来た人と肩がぶつかった。
「すみま――」
相手の顔を目にした瞬間、希海の声は詰まった。目鼻の小ぶりな造形にも強くカールした髪の毛にも見覚えがあった。「もしかして、光太朗くん?」
「あ、はい」
相手は困惑したような顔で頷いた。やはり天野の孫の光太朗だ。青いTシャツの胸もとには〈HEIMEI KARUTA〉の文字がある。郁登が幼稚園の年長時に中学一年生だったはずだから、今、三年生か。記憶の中の彼は自分よりも背が低かったが、すっかり追い抜かれていた。顔立ちからも幼さが消え、額と頬には赤く膨らんだニキビがあった。
「皆川です。息子の郁登が一時期、あまのはらかるた教室に通っていて、そのときに光太朗くんから競技かるたのルールを教わったんだけど……」
「ああ」
希海のことを思い出したようだ。光太朗は表情を和らげ、その顔のままあたりを見回した。希海は彼の仕草にはっとした。
「違うの。今日は郁登じゃなくて、私が出るの」
光太朗の目が丸くなった。
「競技かるたのルールを光太朗くんから教わったあと、郁登がわりとすぐにかるたをやめたっていう話は天野先生から聞いてるかな」
「いや、聞いてないです」
光太朗は声も低くなっていた。
「まあ、そういうことがあって……でもそのあと、私のほうがかるたをやりたくなっちゃって……」
希海はなぜか言い訳めいた口調で述べた。
「ばあちゃんは」
「えっ」
「うちのばあちゃんはそのことを知ってるんですか?」
「私がかるたを始めたこと? たぶん知らないんじゃないかな」
郁登の癇癪を思い起こすと天野に合わせる顔がなく、また、自分自身のことでコンタクトを取る勇気もなくて、かるた会に入った報告はいまだにできていなかった。咲千が話している可能性も考えたが、彼女から天野のリアクションを知らせるメッセージが届いたこともなかった。
「じゃあ、ばあちゃんに伝えておきます。喜ぶと思います」
「でも、郁登がかるたを再開したわけじゃないよ。喜んでくれるかな」
「喜びますよ。ばあちゃんはかるた馬鹿だから、大人でも子どもでも、かるたを好きな人が一人でも増えたら嬉しいんです」
光太朗は口の端を緩めた。情熱的な指導者だった天野が実の孫によって「かるた馬鹿」と称されたことに、希海も吹き出しそうになる。次の瞬間、同じTシャツを着た女子生徒に名前を呼ばれ、彼は一礼して去って行った。
「あ、ごめんね」
希海は自分の半歩後ろで光太朗との立ち話が終わるのを待っていた奈穂を振り返った。だが、奈穂は希海の言葉には応えず、光太朗の後ろ姿をやや眉根を寄せた顔で見ていた。
「今の子、平明学園の天野くんだよね?」
「そうだよ。天野光太朗くん」
「やっぱり。私がこのあいだの麟玉大会で対戦した子だ。話が聞こえちゃったんだけど、あまのはらかるた教室の先生のお孫さんだったんだね。すっごく強くて、私、二回戦で当たって十枚差で負けたの。だから、絶対に今日で昇段できるよって試合後に声をかけたんだけど、本人いわく、自分はとにかく運が悪いんだって。三試合目の昇段戦で、その大会で優勝するような相手を引くことが多くて、なかなかDに上がれないんだって言ってた。それに、去年は体育の授業で利き腕を骨折して、数ヶ月間、かるたができなかったみたい」
「そうだったんだ……」
希海も光太朗が去った方向に目を遣った。かるた部に所属しながら長期間かるたができなかったのは辛かっただろう。光太朗の姿はとっくに見えなくなっていたが、数秒、奈穂と二人でそのまま佇んでいた。
その後、希海と奈穂は空いているスペースを見つけて荷物を下ろした。それから間もなく「一回戦の対戦を開きました」とアナウンスがあった。対戦の組み合わせが決まったということだ。この大会ではメッセンジャーアプリに搭載されている、個人のIDを交換しなくても参加できるグループトーク機能を使って出場者に知らせることになっている。希海がGのトークを開くと、各選手の対戦カードを机に並べた写真が大会役員より投稿されていた。希海の席番号は百二十八で、百二十七のカードには〈上木陽和〉と記されていた。
「希海さん、がんばろうね」
「うん、がんばろう」
奈穂と励まし合い、柔道畳に上がった。希海は〈128〉の札が置かれた場所に正座して相手を待った。陽和は薄緑のTシャツを来たポニーテールの女の子だった。対戦カードの所属会欄には〈知久間中高かるた会〉とあったが、高校生ではなく中学生だろう。最初は広いと感じた武道場も四百五十人弱を並べようとするといっぱいで、前後左右の間隔は小さい。隣の隣では光太朗が男子大学生らしき選手と向き合っていた。先ほどは自分のカードしか確認しなかったが、彼もGグループのようだ。Hの奈穂の姿は人に隠れて見えなかった。
「では、一番上の札が〈せ〉であることを確認してから札を開いてください」
全員が着座するまでには時間がかかり、やや弛緩していた空気がその言葉で引き締まった。「よろしくお願いします」と陽和に礼をして、五十枚の札を一緒にシャッフルする。札と札がぶつかる音が四方八方で鳴り響き、大きな音の波を作っていく。希海は緊張にまた胸が痛くなるのを感じた。
自陣に札を置く指がかすかに震えている。陽和のほうが並べるのが速いことに焦る。暗記時間中、希海は何度も手をこすった。勝ちたい。だが、それ以上にちゃんとかるたがしたい。やっとこの場に来られたのだ。郁登に請われて百人一首の札を買ったときの記憶がよみがえる。四十歳間近の自分の脳では和歌を百も覚えるのは不可能だと思った。それが今、こうして大会に出ている。身体が動かないうちに終わるのだけは避けたかった。
(つづく)