希海がスパリカの休憩室の壁に貼られた特売キャンペーンの予定表を見るともなしに眺めていると、「おはようございまーす」と溌剌とした声がして、ドアが開いた。声の主は大学生アルバイトの三崎だった。三崎は希海を見つけるなり顔全体で笑うような表情を見せ、「皆川さん、上がりですか?」と尋ねた。
「今、上がったところ。この暑い中、また自転車を漕ぐのかーって思ったら、腰を上げられなくて。早く帰って、夕飯の準備をしないといけないのにね」
希海は水筒を振って苦笑してみせた。九月に入って十日がすぎたが、温度も湿度も一向に秋めかず、真夏の気候が続いていた。今日も外にいるだけで体力を消耗するような暑さだ。それでも約四十日にわたる夏休みが終わったのは、希海にとってありがたいことだった。夏休み中は、地域住民が小学校の空き教室で子どもを見守ってくれる放課後子ども教室に弁当を持たせた郁登を預けたのち、全速力で自転車を漕いでスパリカに出勤していた。勇助にも有給を二回取ってもらった。希海程度のシフトでは公立の学童保育には申し込めず、私立の学童は高い。苦肉の策だった。
「毎日暑いですよね。っていうか、ちょっと久しぶりに会いましたけど、皆川さん、焼けました? 旅行ですか?」
「これは息子のサッカークラブの付き添いの結果。旅行じゃないよ」
希海は自分の腕に視線を落とした。表と裏で色がツートーンくらい違う。地域の少年サッカーチーム、グリーンブルズは、毎週土日に小学校の校庭で活動している。希海はなるべく日陰で見学し、日傘やアームカバーも使っていたが、肌が日に日に黒くなっているのは自分でもわかっていた。
あの日、郁登に「サッカーがやりたい」と言われた勇助は喜んだ。土曜の昼食は勇助の当番だ。彼は自作の焼きそばを食べ終えるやいなやグリーンブルズのホームページを調べ、代表者にメールを送った。旅行先の下調べや宿選びを億劫がり、希海に丸投げしている勇助とはまるで別人だった。以来、残業続きで寝不足でも前の晩に接待で飲みすぎても、勇助は郁登の練習に同行している。最近、ついにチームのサブコーチを引き受けた。監督にサッカー経験者と知られ、ぜひにと請われたのだった。
「あれ? 皆川さんの息子さん、百人一首をやってるって、前に言ってませんでした?」
三崎はロッカーを開け、そこに自分の鞄を押し込んだ。天井のスピーカーからはスパリカのオリジナルソングである「あしたも笑顔ッ!」ではなく、一昔前にヒットしたJ-POPのインストゥルメンタルが流れていた。
「あー、そっちはやめちゃったんだ」
「両立が厳しかったんですか? 息子さん、かるたにはまってましたよね?」
「本人が、かるたはもういいんだって」
あれから二ヶ月近くが経つにもかかわらず、かるたのことを思い出すと希海の胸は痛んだ。咲千からあまのはらかるた教室を紹介され、行きたいと強く訴えていたときの目。まだ短い脚でちょこんと正座して、天野の説明に真剣に耳を傾けていた姿。矢のようにまっすぐに放たれる手。「ママ、〈やまざとは〉だね」と言った口から溢れた、白い息。相手から一枚取っては喜び、希海に負けては「もう一回」と悔しがった。だが、友だちの隼大に誘われたという経緯もあってか、郁登はまたたく間にグリーンブルズに馴染み、チームメイトに「ナイッシュー」と屈託なく声をかける彼を見ていると、希海はかるたに関する自分の記憶が偽物にすり替えられていくような感覚に駆られた。
「本人がそう言ったんですか? じゃあ、しょうがないですね」
「やっぱりしょうがないのかな」
「皆川さんも前に言ってたじゃないですか。習いごとは、本人に気持ちがなくなっちゃったら、続けても意味がないって」
「ああ……」
あれはいつだっただろう。確か、三崎からバレエを習っていたと聞いたときだ。郁登があまのはらかるた教室を知る前だったような気がする。希海は記憶を振り返りつつ、過去の自分に失笑した。言葉が軽い。まるで体裁だけ整えた空っぽの正論みたいだ。習いごとに通う子どものそばには親がいて、親にも感情があることをまったく理解していない。郁登とかるたを挟んで向かい合っているとき、希海は出産してから初めて我が子と同じ楽しみを共有しているような気持ちになった。砂場でのトンネル作りも戦隊ごっこも探検も、郁登の感性を愛おしくは思っても、大人の希海にとってはおもしろい遊びではなかった。郁登が宝物にしていた石は、ダイヤモンドの原石には見えなかった。郁登が捕まえてきたバッタは、本当は気持ち悪かった。郁登が大笑いしている子ども向けのテレビ番組も、なにがおかしいのかわからなかった。
勇助も今、サッカーを通じて、郁登と楽しみを分かち合っているような感覚を抱いているのかもしれない。だが、勇助はあくまで郁登に教える立場だ。サッカー歴もまるで違う。それに比べて、自分と郁登はもっと対等だった。同じ地点からかるたを嗜んでいた、はずだった。
「サッカー、いいじゃないですか。チームスポーツの経験がある子って、なんだかんだ気配りができると思いますよ」
三崎は上目遣いで鏡を覗き込み、制服の帽子を被った。そこに店長がやって来て、「三崎さん。タイムカードを打ったら、まずレジ応対に向かってくれる?」と指示を出した。店が混んできたようだ。希海は同僚の邪魔にならないよう、慌てて店をあとにした。
蝉が鳴いている。希海は自転車のペダルを漕ぎながら、ちょうど去年の今ごろ、郁登と喫茶たまさかに行ったときのことを思い出した。幼稚園の帰り道だった。珍しくパートが四連勤で、自分の好きな空間でどうしても一服したかった。喫茶たまさかは子どもお断りの店ではない。郁登も店内を走り回ったり大声を上げたりすることはなく、ただ、運ばれてきたオレンジジュースをものの三十秒で飲み干すと、あとは「つまんない」をひたすら連呼した。結局、希海も急いでコーヒーカップを空にして、店を出たのだった。
あのとき、自分が息子と楽しみを分かつことは一生ないかもしれないと思った。郁登が成長したところで、コーヒーや喫茶店巡りを好きになるとは限らない。親と子の好きなものは必ずしも重ならない。それまで頭では理解していたつもりのことが、郁登の手を引いて喫茶たまさかを出た瞬間、唐突に腑に落ちた。そんな希海にとって、かるたは思いがけず降ってきた喜びだった。だから郁登にはほそぼそとでもかるたを続けてほしかった。
それも自分のエゴだったということなのだろう。
希海はマンションの駐輪場に自転車をとめ、両頬を軽く叩いた。
小倉百人一首の中で、もっとも多く詠われている四季は秋だ。季節を表現した四十三の和歌のうち、十六首と圧倒的に多い。希海が好きな歌は〈おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき〉と、〈つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみひとつの あきにはあらねど〉だ。十月も下旬に差しかかり、永遠に続くかと思われた夏の暑さもやっと一区切りを迎えた。薄ら寒い空気に肌を撫でられると、理由のわからないさみしさに胸が詰まる。そんなとき、希海はこの二首を思い出した。
ストールを首に巻き、卵と牛乳を入れたエコバッグを肩にかけて歩き出した。食料品は従業員割引のあるスパリカで買うことが多いが、知り合いに挨拶する気力がないときはスーパーハナタケを利用している。スパリカよりもマンションから近く、徒歩で行ける。希海は足を動かしながら、〈おくやまに〉の決まり字は〈おく〉、〈お〉札は七枚、〈つきみれば〉の決まり字は〈つき〉、〈つ〉札は二枚、と頭の中で確認した。せっかく覚えたことを忘れたくない気持ちから、小さな機会を見つけては百人一首をつい復習していた。
郁登が小さいころに「赤ちゃん公園」と呼んでいた公園の横をとおった。鉄棒とベンチがあるだけの、鬼ごっこするにも不自由しそうな狭い空間で、人は滅多に見かけない。しかし、今日はそこに一組の親子がいた。子どもがすずがも幼稚園の制服を着ていたために希海は目を引かれ、それから二人が咲千と有馬であることに気づいた。有馬は鉄棒にぶら下がり、咲千はベンチでそれを見守っている。咲千の脇にはスーパーハナタケのレジ袋があった。
希海に声をかける勇気はなかった。郁登があまのはらかるた教室で暴れて以降、咲千とは連絡を取っていない。だが、謝罪したい思いはあった。その一瞬の迷いが不審な動きとして身体に表れたのか、有馬がこちらを向いた。
「あっ、郁登くんのママっ」
咲千がベンチに座ったまま希海のほうを振り返った。
「本当だ、希海さんだ。こんにちは」
「こ、こんにちは」
「久しぶりですね。お元気でしたか?」
咲千の声が存外明るいことに希海はほっとした。あの日、咲千が郁登に失望したのは間違いないだろうが、時間が経ったことで気持ちが落ち着いたのかもしれない。咲千に招かれたように感じて、希海は公園に入った。
「咲千さんたちは、すずがもの帰り?」
「はい。有馬が鉄棒したいって言うから、買いもののついでに寄ったんです」
咲千は少し痩せたようだった。輪郭がシャープになっている。公園の端には咲千の自転車がとめられ、カゴには黄色い幼稚園バッグが入っていた。
「あの日は本当にごめんなさい。あのかるた教室の日。咲千さんにも有馬くんにも嫌な思いをさせちゃったよね」
「本当に気にしなくていいのに。かるた中に小さい子が泣いちゃうことは、よくあるんです。泣きやまないと歌の読みを再開できないから、泣くのをやめるか部屋を出るかどちらかにしなさいって、大人に迫られるまでがセットなんですよね。天野先生は、多少ぐずったり騒いだりしても許される環境で子どもたちにかるたをやらせてあげたくて、あの教室を開いたって聞いたことがあります。郁登くんはまだ小学一年生じゃないですか。むしろ、あの日まで一度も泣かなかったのが偉いですよ」
希海は頷いたようにもかしげたようにも見える首の動きをした。郁登がトラブルを起こした際に、三歳だから、年少だから、幼稚園児だから、と周りから温かい言葉をもらったことは何度もあるが、希海自身は幼少期に他人の前で泣き喚いた記憶がない。なぜ郁登は我慢できないのだろうという不満にも似た疑問が、どうしても頭から拭いきれなかった。
「このあいだ、夏芽ちゃんも泣いたよ」
鉄棒でくるりと前回りをしてみせた有馬が無邪気に言った。
「夏芽ちゃんが?」
あのポニーテールの女の子だ。希海が意外に感じていると、「そういうものなんです」と咲千は笑った。
「郁登くんは、もうかるたに興味はないですか?」
「そう、だね……。あのあとサッカーを始めて、今はそっちに夢中かな」
「サッカーですか。人気だなあ、サッカーは」
咲千はかすかに唇を尖らせたのち、やにわに希海を正面から見た。
「希海さんは?」
「え?」
「希海さんも、もうかるたに興味はないんですか?」
「私は……」
どきりとした。色素の薄い咲千の目に、自分のシルエットが映っている。数分前まで決まり字をおさらいしていたことが見抜かれたかのようだ。希海は正直に、百人一首の復習だけはしていると打ち明けた。
「もう使う場面はないのに、馬鹿みたいなんだけど」
「だったら郁登くんじゃなくて、希海さんがかるたをやればいいんですよ」
口から「えっ」と声が漏れた。咲千が冗談を言っているのかと思い、「天野先生の教室に大人の私が交ざってたら変だよ。浮いちゃうよ」と笑い飛ばしてみる。しかし、咲千の真剣な目つきは変わらなかった。
「それなら大人がいるところに行きましょうよ」
「大人が?」
「競技かるたにおける中心的な協会があるんです。そこに所属するかるた会っていう団体が全国各地にあって、会ごとの方針にもよるんですけど、ほとんどのかるた会は、大人も子どもも積極的に受け入れています。かるた会なら希海さんも浮かないですよ」
「でも、大人っていうか……私、お恥ずかしながら、すでに三十九歳で、っていうか、もうすぐ四十になるんだけど……」
「そのくらいの年齢の人はたっくさんいます。かるた会にはもっと年配の人も社会人になりたての人も、ふつうにいます」
「でも、すぐに決まり字を思い出せない歌もあるし……」
「百人一首をほとんど知らない状態でかるた会に入る人も珍しくないですよ。私が高校でかるた部に入ったときは、決まり字という言葉すら知りませんでした。みんな、そこから始まるんです」
「でも、ほら、郁登がいるから、そんなに自由には動けないっていうか……」
声を発しながらも自分が言い訳ばかりしていることに、希海は気づいていた。「でも」という言葉が反射のように口をつきつつも、脳裏では初めて札を払った瞬間が再生されている。空を切り裂くように飛んだ札。あのとき感じた新鮮なエネルギーが、右手にまた充ち満ちていくかのようだ。それを解き放つようにまた思いきり札を払いたい。心よりも指先が願っていた。
「それは希海さんのご家庭の問題なので、私はどうこう言えないですけど」
咲千はそう前置きしてから、
「やるときを決めるのは、自分ですから」
と言った。
「そう、かもしれないけど……でも……」
「それに、かるた会は一般的な習いごとの教室とは違って、あくまで練習の場なんです。だから、毎回出席するのが当たり前、みたいなところは、そうないと思います。みんな、行けるときに行くっていう感じですね。私が有馬を産む前に半年だけ在籍していたかるた会はそうでした。仕事が忙しくて、二、三ヶ月に一回しか顔を出せない人もいましたよ」
「咲千さんはもう入らないんですか? そのかるた会っていうところに」
希海は意図的に話の矛先をずらした。これ以上、かるた会に関する情報を知ることに、危惧に近いものを感じていた。指先に再充填されたエネルギーが消えない。そこから自分の中身が作り替えられそうで怖かった。
「有馬が小学生になったら、また入りたいと思っていたんです。それでこのあたりのかるた会のことも調べていたんですよ。前にいたところも雰囲気がよくて気に入っていたんですけど、東京の西のほうだから、さすがに通えないんですよね。ここからだと、たぶん、光のどけき会が一番近いと思います」
「光のどけき会? 〈ひさかたの〉の?」
「そう。〈ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづごころなく はなのちるらむ〉。紀友則の歌」
咲千はまろやかに微笑んだ。「そこに入ろうかなって、前から考えていたんですけど」
「やめたの?」
「私、妊娠したんです。安定期まではあと二週間あって、幼稚園の人にはまだ言っていません。予定日は三月の下旬です」
希海ははっとして咲千の顔を見つめた。有馬も口どめされていたのか、「ママね、お腹に赤ちゃんがいるんだよ」と希海に告げる顔は興奮に赤らみ、やっと水面で息を吸えたスイマーのようだった。
「それは……おめでとう」
「ありがとうございます。だから、かるたはまた当分お預けです。あと、実は年明けから夫が海外赴任になりそうなんですよね」
「た、大変じゃないですか」
以前の雑談の折に、咲千も彼女の夫も実家は北関東にあると言っていた。
「ね。大変ですよねえ」
言葉とは裏腹に咲千の口調は穏やかだった。
「でも、なんとかなると思います」
咲千は両手を下腹部に当て、不敵な表情でひとつ頷いた。
「私、札際は強いんです」
(つづく)