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 十二月の第二木曜の夕方、希海は郁登を連れてあまのはらかるた教室に赴いた。郁登はかるた教室に行くことにも、電車に乗ることにも大喜びだった。メールで教えられた天野の住まいはよく手入れされた庭つきの一軒家で、教室となる一階の八畳間には庭から出入りできるようになっていた。

「今日は体験のお友だちが来てくれました。はい、お名前は?」

「皆川郁登ですっ」

 郁登ははきはきと挨拶した。伊藤がいの一番に拍手し、あとの保護者二人と生徒七人がそれに続く。天野の指示で郁登もみんなに並んで正座した。天野は「今日は二十六番から三十番までをおさらいします」と言うと、座卓に伏せていたA3大の紙を左右に持ち、生徒たちに見せた。

「これは二十六番、〈ぐらやま〉ですね。決まり字は、〈をぐ〉」

 片方の紙は小倉百人一首の読み札を模していた。作者の絵まで再現されているが、幼い子どもも読めるようにという配慮だろう、歌の表記はすべて平仮名だ。もう片方は取り札で、下の句のみが書かれていた。

「〈をぐらやま みねのもみば こころあらば いまひとたびの みゆきまたな〉、この歌の作者は誰でしょう?」

 小学生と覚しき女の子が手を上げ、「貞信公ていしんこうです」と答えた。

「あんなふうに毎回五首ずつ、作者の名前と歌の意味と、決まり字をおさらいするんです。二十回連続で教室に来れば、歌が一周しますよ」

 いつの間にか伊藤が横に立ち、耳打ちするように希海に言った。

「決まり字というのは?」

「それはあとで先生が説明してくださると思います」

 希海も子どもたちの後ろで話を聴いた。天野は六十代ほどの女性で、ボブカットのグレイヘアが印象的だった。肌と姿勢がきれいだ。おさらいが終わると、天野は「ちらし取りの人はこっち、競技かるたの人はあっち」と和室を大まかに二手に分けた。ちらし側には身体の小さな子ども三人が固まり、競技かるた側には小学生らしき四人が集まった。一対一で札を取り合う競技かるたというものが存在することは希海も人気漫画の影響で知っていたが、高校生がプレイするものと思い込んでいたため、小さな子どもが一人で札を並べて「よろしくお願いします」と礼をする光景に、内心仰天した。

「郁登くんは、こっちにいらっしゃい」

 天野が一人残されて心細そうな郁登を呼んだ。郁登が立ち上がると、天野は「お母さんも」と希海にも声をかけた。

「郁登くんは、今度幼稚園で百人一首大会があるのね」

 希海はメールで無料体験を申し込む際にその旨を書き添えていた。

「うん、ある」

「だったら、必殺技を覚えましょう」

「必殺技? なにそれ」

「決まり字っていうの」

「あ、さっき言ってた。〈をぐ〉とか〈ありあ〉とか?」

「そう。郁登くんは賢いのね。百人一首はね、最後まで聞かなくても、最初の数文字が読まれれば札が取れるの。例えばね」

 天野は七枚の取り札が描かれたプリントを郁登と希海に差し出した。

「〈む〉と〈す〉と〈め〉と〈ふ〉と〈さ〉と〈ほ〉と〈せ〉から始まる歌は、百枚の中にもひとつずつしかありません。これを一字決まりといいます」

 そう言われてよく見ると、札の絵の上には、今、天野が口にした七つの平仮名がそれぞれ書かれていた。

「つまりね、〈む〉って聞こえた瞬間に、この〈きりたちのぼる あきのゆぐれ〉の札は取れるの。これができたら、誰も郁登くんに敵わない」

「すごい……。本当に必殺技だ」

 郁登は目を輝かせ、天野を見上げた。

「試合が始まるまで十五分の準備時間があるから、そのあいだにできるだけこの紙にある札を覚えてごらん」

「うんっ」

 郁登はその場に座り込み、食い入るようにプリントを見つめた。先生の話についていけない郁登が不機嫌になることを希海は案じていたが、どうやら大丈夫そうだ。あとは自分も伊藤のように壁際で見学していよう。希海が歩き出したとき、「お母さん」と天野に呼びとめられた。

「せっかくですから、お母さんも一緒にどう? そのときの人数にもよるけど、うちは初心者の保護者のみ、ちらしに加わることをオーケーにしてるの」

「いえ、私は大丈夫です」

「ママもやろうよ」

 プリントに集中していたはずの郁登が振り向いた。

「ママには無理だよ。負けちゃう負けちゃう」

「じゃあ、お母さんには特別に、あと一枚だけ決まり字を教えます」

「えーっ、ずるい」

「ずるいことはないでしょう。郁登くんは幼稚園でたくさん教えてもらってるんだから」

 天野は笑顔で郁登を制してから、教室の隅に希海を手招きした。ついていけば子どもたちと試合をすることになる。気は進まないが、希海が自分の話を聞くことをまるで疑っていないような天野を見ると拒めなかった。

「そうだ。爪切りは使う? メールにも書いたとおり、爪は短くないとだめなのよ。相手を怪我させちゃうかもしれないから」

「それは大丈夫です」

 パート先のスパリカも爪の長さには厳しかった。

「では、お母さんの下のお名前は?」

 天野が秘密を確かめるように尋ねた。間近に顔を突き合わせると、天野からはニッキのような香りがした。

「希海です」

「皆川希海さんか。旧姓は?」

「旧姓ですか? 旧姓はまえです」

「うーん、〈の〉札と〈ま〉札はないし、皆川の〈み〉札も微妙ね」

 天野は楽しそうに独りごちつつ、取り札の束を高速で確認した。そうして選んだ一枚を、「これがいいわ」と希海の手に載せる。〈いくよめざめぬすまのせきもり〉と書かれた札だった。

「あ、これ」

「知ってた?」

「郁登が俺の札だって、いつも言ってます。〈いく〉から始まるから」

「〈いく〉の二文字は、希海さんもすぐに見つけられるでしょう? この歌は、〈あじしま〉から始まります。〈あはじ〉まで聞けば取れますよ」

「〈あはじ〉が決まり字ってことですか?」

「そうです。これを取るのが、今日の希海さんの目標ね。もちろん、わかったらほかの札も取っていいのよ。子どもには遠慮しないように。大人も子どもも一緒に楽しめるのが、かるたのいいところなんだから」

 天野に優しく二の腕を叩かれ、希海は「はい」と頷いた。もう断れなかった。やるからには大人として恥ずかしくない程度は取りたい。希海もプリントを見返し、〈む〉〈す〉〈め〉〈ふ〉〈さ〉〈ほ〉〈せ〉の取り札を頭に叩き込んだ。ふと顔を上げると、ちらしの場所に集まっていた郁登以外の三人も熱心にプリントの束をめくっていた。希海と郁登に渡されたものには七枚の札しかなかったが、あそこには百枚すべての決まり字が載っているようだった。

「はい、それではそろそろちらしのほうも札を並べましょうか」

 天野のかけ声で希海と郁登と三人の子どもは円を作り、百枚の取り札を向きもばらばらに広げた。家のものとは違う、驚くほど硬い感触の札だった。希海はまず〈あはじ〉を探し、それから〈む〉と〈め〉と〈せ〉の場所を確認した。視界いっぱいに平仮名を認めた瞬間、記憶が乱れ、〈す〉〈ふ〉〈さ〉〈ほ〉の下の句はわからなくなった。ほかに希海が覚えている歌は、〈あきのたの〉と〈たごのうらに〉と〈ひとはいさ〉だ。その三首の札の位置も覚えた。

 七枚は取れる。七枚は、取る。希海は自分に言い聞かせた。

「読みは……読みというのは歌の朗詠のことですが、読みは、あちらの競技かるたの試合と共通です。ですから、下の句が読まれるまでに間が空くことがあります。そのあいだも、ちらしの人たちは札を探していて大丈夫です。読みをとめてほしいことがあったら、手をまっすぐ上に挙げてください」

 天野が希海と郁登を交互に見遣る。「はい」と希海が応えた声は、郁登のそれと重なった。

「それと、かるたは音をとても大切にします。本来の競技かるたでは、読手が下の句を読み始めたら、選手も観客も、絶対に動いたり喋ったりしてはいけません。でもこの教室はまだ歌を覚えていない子が多いので、お話しさえしなければ、下の句を聞いてから札を取ってもいいことになっています。その場合はなるべく静かにね。歌が全部読まれても誰も取れなかった札は、全員が諦めて次に切り替えてください。お手つきは、次の一枚がお休みになります。はい、それでは、本日の試合を始めます」

 希海と郁登以外の子どもたちが「よろしくお願いします」と一斉に頭を下げた。しかも、二回。みんな、二回目は座卓に置かれた直方体のスピーカーのようなものに礼をしている。希海も慌てて周りに合わせた。

 天野がそのスピーカーにリモコンを向けると、歌が始まった。

「〈なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉」

 希海はあたりを見回し、〈いまをはるべとさくやこのはな〉と書かれているはずの取り札を急いで探した。だが、見つからない。なぜか歌に聞き覚えもない。郁登以外の子どもたちには札を探そうとする気配すらなかった。希海が戸惑っていると、「これは序歌」と天野が微笑んだ。

「序歌は、百人一首には入っていない歌です。この歌の下の句が二回読まれたら、いよいよ競技開始です」

「〈いまをはるべと さくやこのはな〉」

 伸びやかで朗らかな男性の声が序歌の下の句を繰り返した。余韻が消えると同時に教室に静けさが満ちる。希海は二の腕に鳥肌が立つのを感じた。郁登を出産してからというもの、これほど完璧な静寂を味わったことはなかった。まるで波紋のない湖の水面を覗き込んでいるかのようだった。

「〈なつのよは――〉」

 次の瞬間だった。ぱん、と大きな音がして、競技かるた側から手裏剣のような勢いで札が飛んできた。札は希海の膝に当たり、とまった。なんだ、今のは。希海の左隣では郁登も口を半開きにしている。札は歌が読まれるとほぼ同時に畳を滑り、ここまでやって来た。これが決まり字で取るということか。希海が呆然としていると、正面に座っていたポニーテールの女の子が〈くものいこにつきやどるら〉の札に手を伸ばした。競技かるたの子に比べるとかなり遅いが、それでも上の句が読み終わる前には札を取っていた。

 これは大差で負けるかもしれない。

 希海は唇をきつく結んだ。天野は「ちらしはまだ歌を覚えていない子が多い」と言ったが、下の句が始まるまでに取り札に触れることがここでは最低ラインなのだ。自分はもちろん、郁登が来ていい場所ではなかった。幼稚園ではこんな戦いはしていないだろう。このショックをあと九十九回味わうのかと思うと、希海は郁登が心配だった。プライドの高い郁登がいつまで平常心を保てるかわからなかった。

 だが、〈なつのよは〉はたまたまポニーテールの子の得意な札だったようだ。次の〈こころあてに〉は天野からヒントを出されるまで、ちらし側は誰も手を出せなかった。三枚目の〈ももしきや〉は、希海の右隣に座るショートカットの女の子が取ったかと思われたが、お手つきだった。二ヶ月前に入会したという有馬は、平仮名を読むスピードがまだ遅い。タッチの差でポニーテールの子に〈はるのよの〉を取られ、悔しそうな顔をしている。五枚目と六枚目は札の近くにいた郁登が連取した。天野に褒められて、まだ丸みの残る郁登の頬はたちまち上気した。

「〈む――〉」

 鼓膜にこの音を捉えたとき、知っているはず、と希海は思い、その先はミュートボタンを押されたかようになにも聞こえなくなった。このへん、いや、こっち、と見覚えのある文字列を求め、目線が畳の上を高速で巡る。あった、〈きりたちのぼるあきのゆふぐれ〉。希海は懸命に手を伸ばしたが、小さな手に先にもぐりこまれた。有馬だった。

「〈――めの〉」

 希海の耳に音が戻った。有馬は取った札を満面の笑みで伊藤に掲げた。

「有馬くん、いい反応だったわね」

 天野は有馬に向かって親指を立ててから、

「一字決まりは子どもが速いのよ。大人よりずっと素直だから」

 と希海に対し、慰めのような言葉を口にした。

 その後はしばらく希海の知らない歌が続いた。ポニーテールの子がトップを走っているが、大きな差を開けず、郁登も二番手につけている。希海もわからないなりに、自分の近くにある札は下の句が読まれた瞬間に確保するよう努めた。五人全員が取れない札もたびたび出現した。そういう札は、天野が顔を出し、場からひょいと摘んだ。天野はそれまでに読まれた歌をすべて記憶しているらしく、残っていた出札をまとめて取っていくこともあった。鮮やかな手品のようだった。

 一枚、また一枚と札が減り、おそらく五十枚以下になった。郁登は覚えたばかりのはずの〈ほ〉と〈ふ〉を取った。ショートカットの女の子が「はやっ」と呟くほどのスピードだった。教室内の緊張感も高まり、歌が読まれるのを待つ子どもたちの手はつい宙に浮いたり、札にじりじり近づいたりした。天野はそれを注意しつつ、競技かるたの指導や審判のようなこともしていた。

「〈ありまやま――〉」

 終盤、有馬が一字決まりではない札を猛スピードで押さえた。

「これは僕の札だから」

 有馬は〈いでそよひとをわすれやはする〉と書かれた札を希海にまっすぐ突き出した。おとなしい性格なのだろうと思っていた有馬の誇らしげな表情に、思わず希海も親指を立てた。有馬は子どもたちの中でもひと際小柄だ。遠くになかなか手が届かず、現時点で最下位だが、ぐずったりふてくされたりする態度は一度も見せていない。その心意気も讃えたかった。

「〈あは――〉」

 来た、と思った。肌が粟立った。希海は一首読まれるたびにチェックしていた〈いくよねざめぬすまのせきもり〉の札にすかさず手をかざした。力を抜き、手のひら全体で札を捕らえようと試みる。しかし、次に耳に飛び込んできた音は「〈れ〉」だった。〈あれ〉だ、〈あはじ〉じゃない。希海は慌てて手に力を込め、必死に重力に抵抗した。

「〈――とも いふゆうべきひとは おもえで――〉」

 結局、この歌の札はポニーテールの子が取った。下の句は〈みのいたらに なりぬべきかな〉だった。危なかった。希海はあと数ミリのところでお手つきになるところだったことに気づき、心臓を押さえた。瞼を閉じ、肺が空になるまで緩やかに息を吐く。動揺が治まらなかった。

「よくとまれたわね」

 目を開けると、天野がきらきらした瞳でこちらを見ていた。「あれは共札と言って、決まり字が途中まで一緒だからお手つきしやすいの。希海さん、本当にすごいわ。三字目の〈れ〉を聞き取ったのね」

 郁登が連取したときよりも、有馬が〈む〉札を自分のものにしたときよりも、天野の声は興奮していた。希海は勘違いしてお手つきになりかけたことに情けなさを感じていたが、別段恥ずかしいことではないようだ。壁際で見学していた伊藤も「かっこよかったです」と小さく拍手した。

「希海さんは耳がいいのね。それに頭の回転も速い。瞬時に違うって判断して、手をとめられた。運動神経もいいのね」

 スコールのように降ってきた褒め言葉に、希海は小中学校時代の通知表を思い出した。希海が苦手なのは図工と美術、それに技術家庭科のみで、あとの科目では常に最上の評価を受けていた。勉強は嫌いではなかった。そのことを長らく忘れていたような気がした。

 待望の〈あはじしま〉は終盤に読まれた。今度こそ危なげなく取った。「俺の札なのに」と郁登が口を尖らせる。「どうかなあ」と希海は笑った。

「なんで? 俺の札だよ。だって、〈いく〉だもん」

 郁登を出産してから今日までの六年七ヶ月間で、予防接種の予診票に幼稚園関係の書類に持ちものに、自分は〈みながわいくと〉と何度記入しただろう。郁登も平仮名は書けるが、書く機会はまだ少ない。希海には現時点で郁登本人よりはるかに多く〈いく〉の二文字を綴ってきた自負があった。

「これはママの必殺技でもあるんだよ」

 希海は自分が取った札の一番上に〈あはじしま〉の札を重ねた。

 

(つづく)