丸三日間、頭を捻ったが、どんなふうに交渉すれば妻が競技かるたの大会に行くことを勇助が了承するのか、いくら考えてもわからなかった。希海は夕飯の中華丼を食べ終えた勇助に「ちょっと多く淹れちゃったから、よかったら」とコーヒーを出し、「来月末にかるたの大会があるんだけど」と言った。
「かるたの大会?」
「ほら、川沿いにあるスポーツセンター。あそこの柔道場でやるんだって」
「へえ。前に一回、あそこの施設でフットサルをしたことがあるけど、結構大きいところだったよ。かるたの大会にそんなに人が集まるんだ」
大会によっては申込者多数のために抽選になることもある。勇助が思っているよりもかるた競技者ははるかに多かったが、希海は言い返さなかった。
「それで、私もその大会に出たいんだけど……」
マグカップを口に運ぼうとしていた勇助の手がとまった。
「え? ママが? そんなに本気でかるたをやってたの?」
「D級を目指すって話は前にしたよね? あ、パパは覚えてないか。かるたで昇段するには大会に出ないといけないんだよね」
「あー……」
勇助は目を細めてコーヒーの香りを確かめているような表情を浮かべたあと、「来月末っていつ? 何曜日?」と尋ねて一口飲んだ。
「一番最後の土曜」
「なんだ、土曜か。だったらまあ、ママがかるたの練習会に行くのも大会に出るのも俺にとっては同じだから、好きにすればいいよ」
「そうだよね。ただ、朝、家を出る時間はいつもと変わらないんだけど、帰りが……」
「えっ、なに、遅くなるの?」
勇助が眉をひそめた。
「一回戦負けなら、むしろいつもより早いと思う。でも、昇段のためには三回勝つ必要があるんだよね。三連勝すると四回戦があって、こうなると、家に着くのは六時をすぎるかも」
案内によると、東京都東部初心者大会では二回戦と三回戦に敗退者同士の練習試合が行われるが、一回戦で負けたとしてもこれは棄権するつもりだった。勇助を説得するにはある程度の諦めも肝心だ。他会の人と三試合してみたい気持ちはある。奈穂の言うとおり経験を積みたい。だが、この際贅沢は言えなかった。
「六時すぎかあ」
「もちろん夕飯の用意はしておく。帰ったらすぐにご飯にするし、待ちきれなかったら郁登と二人で先に食べていてもいいよ」
「ママがそこまでするっていうなら、俺はいいけど」
希海は礼を言いかけて、その前に勇助の言葉の最後が引っかかった。
「けど? 俺はいいけどってなに?」
「いや、帰りが遅くなったら郁登がかわいそうだなあと思って。ママがかるたから帰ってきたらあれを言うんだ、この話をするんだって、郁登、土曜のサッカーのあとはいつも楽しみにしてるから」
「そうなの?」
希海は反射的に罪の意識を感じた。吐き気にも似た悔恨が喉もとまで迫り上がり、やっぱり大会に行くのはやめる、と口にしそうになる。先日留美にも言ったとおり、かるたはただの趣味だ。それが我が子に我慢を強いることになるかもしれないと思うと、心の底から申し訳なかった。
だが、心を落ち着かせようとコーヒーに口をつけた途端に気が変わった。信頼できる自家焙煎の店の豆で淹れたコーヒーは冷めてもおいしく、きりっとした苦みが頭の霧を晴らしていく。郁登の話は翌日にも聞けるはずだ。だいたい大会の日も郁登が寝る前には家に着いている。一緒に風呂に入り、今日の練習はどうだった? と尋ねることもできるだろう。
要するに、勇助自身が希海が大会に行くことに本当は納得していないのだ。寛容な夫の顔で「郁登がかわいそう」と発言したことに腹が立ったが、ここで反論して彼の機嫌を損ねるのは避けたかった。せっかく下りた許可を取り消されるかもしれない。許可。口の中にざらりとしたものが広がった。自分はなぜ、なにかをしたいと思ったときにいちいち下手に出て、勇助に交渉してしまうのだろう。希海はコーヒーと共に口内のざらざらを飲み込んだ。
「まあ、私は初出場だし、一回戦突破も厳しいと思うよ。そんなに遅くはならないって」
希海は自虐的に笑った。「そんなのわからないよ」と勇助は言うが、声には明らかに感情がこもっていなかった。勇助が脱衣所に向かうと、希海は荒っぽい手つきで丼鉢を洗った。親子三人でいろんな大会に出ている奈穂が羨ましい。目の奥がつんと痛んだ。奈穂のかるたは子どもとすごす時間を犠牲にしない。子育てが趣味を蝕むこともない。そのふたつは共生し、おそらくそれぞれに豊かな実りをもたらしている。いつか奈穂は大人になった花琉や琉宇と、一緒にかるたに打ち込んだ思い出を語るのだろう。
だが自分は違う。
わかっていた。光のどけき会に所属している大人は岡村や森のように子育てが一段落しているか、奈穂のように子どもと楽しんでいるか、大塚のように子どもがいないかのどれかで、自分のようにまだ手のかかる年齢の子どもと離れて練習会にほぼ毎回参加している人間は一人もいない。練習会が長丁場で、音を重視する競技のために活発な子どもは同伴できず、かつ一日がかりの大会が休日に開かれるかるたは、子育てとの両立には不向きなのだ。
自分は将来、郁登ともっと一緒にいればよかったと後悔するだろうか。
母親にかるたを優先されたことに郁登が傷つく日は来るだろうか。
泡まみれの丼鉢をすすぐ。脱衣所から音がした。勇助が風呂を出たようだ。希海は片頬を涙が流れていることに気づき、手の甲でぐいと拭った。
アスファルトが溶け出しそうなほどの酷暑が続いている。雨の日でも慣わしのようにスパリカを訪れる常連客も、さすがに真っ昼間の外出は控えているようだ。店内はがらんとしていた。唯一稼働しているレジを任され、希海は手持ち無沙汰から周辺の備品を確認した。だが、レジ袋を補充し、紙切れ間近のレシートロール紙を用意しても、レジには誰一人来なかった。
希海はカウンターに突っ立ったまま、一字決まりから十六枚ある〈あ〉札まで百枚全部の決まり字を頭の中で唱えた。東京都東部初心者大会が来週に迫っている。夜、郁登が寝て勇助が帰ってくるまでになるべく一人取りをすることも心がけていた。自分は武井家のように頻繁には大会に行けない。だからこそ、来週の大会でなんとか三連勝を決めたかった。
決まり字はほとんど淀みなく言うことができた。百という数字に恐れおののいていたころが懐かしい。希海が小中学生のとき、テレビ番組が考案したゲームに一般視聴者がチャレンジし、クリアできたら百万円がもらえるという企画が人気を博したことがあった。当時は百万円あればなんでも買えるような気がして興奮したが、上京して一人暮らしが始まると、その金額では一年も生活できないことがすぐにわかった。あのときの、百という数字の価値が裏返ったような驚きに少し似ていた。
希海の退勤時間まで、店は一度も混まなかった。店内に流れていた「あしたも笑顔ッ!」を小声で口ずさみつつ休憩室に戻る。紺の帽子とエプロンを脱いでいると、「おはようございまーす」と声がして、三崎が顔を出した。
「あ、おはよう」
「皆川さんだ。お疲れさまでーす」
「あれ? そのリュック、通学に使ってるって言ってなかった? 大学はまだ夏休みじゃないの?」
希海は三崎がしょっていた銀色の大きなリュックサックを指した。
「レポートのために学校の図書館に行く必要があって、その帰りなんですよ。あー、暑かった」
三崎はリュックサックを下ろすと中から制汗シートを取り出し、首や腕を拭き始めた。石鹸の香りが休憩室に広がった。
「三崎さんって、何学部なんだっけ?」
「私ですか? 言ったことなかったでしたっけ。法学部ですよ」
「じゃあ、司法試験を受けるの?」
「それ、みんな言うんですけど、私が行ってる大学のランクで司法試験に受かるなんて無理ですよ。中学のときに公民が好きだったから法学部にしただけです。将来を考えて選んだわけじゃないですから」
三崎は襟ぐりから手を入れ、制汗シートで脇を拭いた。休憩室にほかに人がいないとはいえ、彼女の大胆な振る舞いに希海は吹き出しそうになった。
「専門はあるの? 三年生ならゼミが始まってるよね?」
「一応、人権ですね。ゼミの先生が基本的人権の研究者なので」
「基本的人権……。なんだっけ。生存権とかプライバシーの権利とか、そういうやつ?」
希海は昔の記憶を掘り起こした。
「そうですそうです。あとは平等権とか社会権とか、あ、最近ネットでよく見かける表現の自由も基本的人権のひとつですよ」
説明する三崎の口調はなめらかだった。本当にこの分野が好きなのだろう。希海自身は社会学部に進んだが、東京の大学に入ることが目的で、専門はなんでもよかった。大学の授業のことは今やほとんど思い出せなかった。
三崎が制汗シートをゴミ箱に捨て、希海を振り返った。
「まあ、誰しもが生まれながらに持っている、その人らしく幸せに生きる権利のことですね、簡単に言うと」
「あ……」
思わず声を漏らした希海に三崎は「どうしました?」と尋ねた。
「いや、的外れかもしれないんだけど……」
「言ってくださいよ」
「趣味って……人権かな?」
話を聞いているうちに閃いたのだった。「その人らしく幸せに」という表現が、希海には仕事よりもなによりも趣味にフィットするような気がした。
「趣味を持つことがですか? まあ、そう言えると思います。他人の人権を侵害しない範囲であることが前提ですけど。自由権の中に思想・良心の自由とか、さっきも挙げた表現の自由とかがあるんです。これを趣味に当てはめることはできるんじゃないですかね」
「そうだよね。ありがとう」
希海は大会に出たいと勇助に掛け合った日から微妙に傷ついていた心が慰められたような気がした。誰しもが趣味を持っていいのだ。八歳の子どもを持つ母親であっても。「なんのありがとうですか」と三崎は笑った。
「実は来週、かるたの大会に初めて出るんだよね」
「皆川さん、本当にがんばってますよね。レジが暇になったときに手がかるたっぽい動きをしてるのを見たことがありますよ」
「えっ、本当に? それは無意識だったな……」
「その来週の大会で全勝したらクイーンになれるんですか?」
思いも寄らない反応だった。クイーンとは競技かるたにおける女性選手の頂点を表す称号だ。A級にならなければ予選にすら出られない。希海は今度こそ吹き出した。
「まさか。私が出るのは一番下のランクの大会だよ。でも三崎さん、かるたの女性チャンピオンをクイーンって呼ぶことは知ってたんだね」
「ニュースで見たことがあったんです」
「へえ、クイーン戦の結果ってニュースになるんだ。でも、私がこれからどんなにがんばってもクイーンにはなれないと思う」
希海は笑った。
「そんなのわからないじゃないですか。諦めないでくださいよ」
「諦めてないよ。そもそも目標にしたことがないの」
希海は以前に郁登から、目指すのはD級ではなくA級ではないかと訊かれたことを思い出した。子どもや若い人にはトップクラスは志さずに鍛錬を積むということがよくわからないのかもしれない。未来をたくさん抱えている人の感覚だな、と希海は眩しく思う。こちらは肉体のピークをとうにすぎてからかるたを始めた身だ。半年前よりも一ヶ月前よりも先週よりも、自分は強くなったと思えることが一番の喜びだった。
「クイーンって、そんなにすごいんですか? かるたは老若男女が一緒に楽しめるものだってよく言うじゃないですか。だったら、どんな人にもトップに立てるチャンスがあるんじゃないですか?」
「なんていうのかな、三崎さんが法学部に入ったのにもかかわらず、司法試験に合格して国際機関の裁判官になることを考えてないのと同じかも」
「あっ、そんなにすごいんだ。それを言われるとなにも返せない」
希海と三崎は視線を交わして同時に笑った。
「でも、来週の大会は勝つつもりで出るんですよね?」
「もちろん」
希海は真面目な顔で大きく頷いた。
「がんばってください」
三崎も頷いた。
(つづく)