一生懸命理屈を考えたんだから、あとは「ゆるやかな紐帯」の形成を目指して行動あるのみ。
しかし、紐帯の形成は一朝一夕に叶うことではないので、まずは種まき、ということになろう。
では、どこに種を蒔けばいいだろうか。
望ましいのは自発的な関わりを基本とし、最低限の関係性の基盤が確保される場所。さらに参加や離脱の自由度が高ければ言うことなしだ。条件に適合する場を見出し活用できればいいが、さあどうすればいいか。
一番見つけやすいのは、やはり社会的な立ち位置や生活環境が似た人たちの間だろう。たとえばママ友が好例だが、あいにく私はママではないので別の集団を見つけなければならない。
次は、なんらかの共通点――出身地、趣味、特技など、話題や共感を分かち合える間柄だろうか。
昭和の昔は同郷意識を頼りに異郷での互助を目指す県人会のような組織が盛んだったようだが、今はどうなのだろう。私より上の世代だと県人会もまだそれなりの影響力があるらしい。しかし、私世代で加入している人はいるのだろうか。また、大都市出身の場合、そもそも県人会的なものが存在しない気がする。少なくとも神奈川県大阪府民会なんて聞いたことがない。こういうものは郷里からの距離が遠いほど、あるいは郷里の人口規模が小さいほど組織化されやすいのかもしれない。なんにせよ、大阪人気質を考えると、この線は望めそうにない。ま、あったところで私は入らないだろうが。
むしろ、共通の関心や継続的な活動を目的とする集まり、つまり趣味のサークルやコミュニティの方が、取っ掛かりとしては手が出しやすい。また定期的な勉強会やボランティア活動なども新しい繋がりを求めるにはいい気がする。
なぜなら、このような場で生まれた人間関係は活動自体が主目的となるため、個人間の関係性に過度な期待や負担がかかりにくいと考えられるからだ。つまり、選択的関与を実現するにはもってこいなのである。それなりの関係になった上で、追々どのような場面で力になれるかを明らかにしておけば、よい関係性にすることができるはずだ。
単純に仕事がほしいのであれば、業界団体や職能団体、あるいはオンライン上の専門家コミュニティーや異業種交流会もいいかもしれない。私もかつては異業種交流会で仕事を得たことがある。とはいえ、仕事を主体とする繋がりはどうやったって仕事上の利害関係や上下関係が影響してくるので、長いスパンでのゆるやかな紐帯を得たいのであればあまりよい方法とはいえないかもしれない。最初に発生した権力勾配を後になって覆すのは、なかなか骨が折れるものだから。
また、新しい関係を求めるだけでなく、旧知の間柄を再構築するのも手だ。人間関係のリストラクチャリングだ。カタカナビジネス単語のリストラじゃなくて本義の方。大局から見た根本的再構成をすることで、望む関係に調整しなおせるかもしれない。
では、これらをどう自分を取り巻く現実に落とし込んでいけばいいのか。脳内でいくら御高説を垂れたところで、実現しなければ机上の空論だ。
そうだなあ……。
順当に考えれば、私がまず手を付けるべきは、現状もっとも手薄である地域コミュニティーへの参与だろう。これを可能にするには……などと眉根を寄せて考えていたある日のこと。
早朝、私はゴミを捨てに出た。我が町内のごみ捨て場は常設ではなく、決められた日時に指定場所まで持って行くパターンなのだが、とにかくカラスが多い地域なので集められたゴミ袋の上にはブルーシートとネットが掛けられている。
これにより、普段はほぼ無事に収集されていくのだが、その日はたまたま誰かが適当な置き方をしたらしい。一羽のカラスがさかんにゴミ袋をつついて中身を散乱させていた。
とはいえ、まだ飛来してさほど時間が経っていないようだ。被害は小さく、かつ他のカラスたちが集まってくる気配もない。今のうちに片付ければ散乱は最小限で抑えられるだろう。そこで私は急いで家から箒とゴミ袋を持ってきて片付け始めた。
すると、背後から声をかけられた。同じようにゴミを出しにきた近所の人だった。どうかしたかと尋ねられたので、カラスが散らかしていたと説明すると、片付けを手伝ってくれた。自然と会話が生まれた。さらに、偶然外に出てきたゴミ捨て場の向かい側の家の人も会話に加わった。いわゆる「話の輪」が意図せず生まれたのだ。現住地に引っ越してきて数年経っているが、ほぼ初めての出来事である。
なるほど、と腑に落ちた。
環境維持のための自発的な行動は地域コミュニティーにとっては好ましいものである。好ましい行動を取っている人間には声を掛けやすい。よって、コミュニケーションの緒になる。
ご老人が自主的に寺社や公園などの掃き掃除をしている姿などを見かけると、たいへん公徳心あふるる尊い行為だと頭が下がる思いがしていたものの、奉仕という側面だけではなく、掃除によって誘発されるコミュニケーションが一種の報酬になっているのかもしれない。
これは発見だった。普段から当たり前にやっている人には「なにを今更」な話なのだろうが、私にとってはかなりグッドタイミングな発見だったのだ。
種って、こうやって蒔くものなのかもしれない。
そう思った。ならばここで一念発起して自主的に毎朝御近所の掃除を、とはならないのが私の私たる所以であるわけだが、それでも方法論を現実に落とし込む端緒を掴めた気がした。
善き哉、善き哉。
気分的にはずみがついて、御近所案件に関する私のフットワークは俄然軽くなった。
そうこうしていたら、一週間ほどしてまた案件が発生した。以前から少しお付き合いがあった地元の国際交流協会から、緊急のヘルプ要請が来たのだ。翌々日に予定されているイベントの人員が急遽足りなくなったので、手伝いに来てくれないかというのだ。
だがあいにく、その日は午後遅めの時間から予定があった。よって、いつもならスルーするところであり、その時も最初はそうしようと思ったのだ。
だが、ふと思った。
事情が事情だけに、午前中だけのわずかな時間でも人手が欲しいかもしれない。イベントとは概してそういうものだ。
そこで「正午頃までなら」の条件付きで返信してみた。すると「それでもいいのでお願いします!」と即レスだった。文末にはハートやらキラキラ星印やらの絵文字がいっぱい飛び散っていた。「藁みたいなヤツだけどまあいいや。とにかく助かった!」感がこれでもかこれでもかとにじみ出ていた。
またまた、なるほど、と腑に落ちた。
私というリソースをどう使うかは先方次第なんだから、こっちで勝手に決めつけないで条件だけ示して丸投げすれば、それはそれで役立つこともあるのだ、と。まさに選択的関与である。
こういうわけでイベントにボランティアとして参加し、わずか三時間ほどではあるがお手伝いをした。行った先で何かしら劇的な出会いがあったわけではない。淡々と手伝い、淡々と辞去しただけである。それでも有意義な会話を交わした人はいたし、協会の人には私という存在が認識された。
これもまた、種の一つとなりうるだろう。もし私がその気になれば、もう少し深く関与する機会を掴みやすくなっただろうから。
案ずるより産むが易しじゃないか、動けば見えてくるものが必ずある。
これら二つの出来事によって、当たり前過ぎて忘れていたことに今更ながら気付かされた思いがした。すっかり勢いづいた私は、決心した。勢いを趣味や特技方面にも波及させよう、と。
すると、また見えざる手が働いた。
Facebookの広告に、今の私が趣味として始めるにはもってこいな案件が表示されたのだ。
洋裁教室である。
手先が不器用なことでは人後に落ちない私だが、最近とある理由で洋裁熱が高まっている。しかし、中学と高校の家庭科でしか縫製作品を縫ったことがない私がいきなり洋服作りをするなど無謀の極み。よって、入門レベルでいいから安価で気安く教えてくれるところが近所でないかと探していたところ、あったのだ。私にちょうどいい教室が。
さっそく体験レッスンを申し込んだところ、縫い物は思っていたより性に合ったし、その気になれば生徒同士も付かず離れずの交流ができそうな雰囲気である。いずれ種に化けるかもしれない。月謝制の教室なら離脱もしやすい。
しかし、見えざる手はこれで終わらなかった。
残りの課題、昔からの関係をリストラクチャリングする機会も訪れたのである。
なにこれ。なんだかトントン拍子でちょっと気持ち悪いんですケド。根がネガティブ思考なのでつい何かの罠では? と警戒してしまうわけだが、「いや、物事がうまく運び出す時というのは概してこういうものだ」とも思う。
こうして種まきは少しずつ、だか着実に進んでいる。しかし、まだまだ足りない。おそらく発芽率はさほど高くないからだ。ならば下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、じゃないが、もっともっと種蒔き場所を開拓すべきだ。
さらに言えば、もう少し自分のニーズに沿った、つまり将来的には生活上での互助を視野に入れられるような人脈を作れるようにしたい。
だが、それはどうすれば叶うのだろうか?
少なくとも、現在のような単発/散発の種まきを繰り返しているだけでは心許ない。今すぐは無理でも、最終的にはゆるやかに組織化できるような、そんな繋がりを模索する必要がある。
これはなかなか難しそうだ。
けれども、道を探っていけば、また見えざる手が働くかもしれない。
動けば道はできる。
それがわかっただけでも、ここ数週間の行動は無駄ではなかったじゃないか。
なんにせよ、またちょっとモンガーズを招集して、今後の方針について諸般にわたり検討することにしよう。
こうしたわけで、第二回会議の開催が決定したわけだが。
それが思わぬ波乱を呼ぶとは、私はまだ知るよしもなかったのである。