先週、動子は唐突に説教を始めた。そしてそれは延々と続いている。そのため、引き続き彼女の言い分を聞かなければならなさそうだ。
とはいえ、なんだか無駄に長いので、ダイジェスト版にしてお届けすることにしよう。読者諸賢におかれましては、公開説教にもうしばらくお付き合いください。
もう一つ重大な問題がある。お前は少しぐらい“固い人間”と思われた方が侮られずに済むと思っているだろう。だが、重ねて言うが、お前はもう五十も半ば近い。つまり世間的には「年長者」と呼ばれる範疇に入っているのだ。
そんな年齢の人間から届くメールやメッセージの言い回しがやたらと固い一方では、相手に必要以上の緊張を強いる結果になるとは思わないのか。特に若い人を相手にした時だ。五十代のこわいおばはんなんて、仕事相手としては最悪ではないか。
結局のところ、お前は人間関係構築にかかる労力をマナーやマニュアルを使って手抜きしようとするから、いまさら繋がり方なんてものを探さなければならないのだ。
だから、お前が学ぶべきはまず人との関係に手抜きしない心構えと方法論だろうがこのスットコドッコイ!
以上、である。
う~む。
動子の指摘はまるっきり的外れではない。傾聴すべき点もなくはない。
だが、私にも言い分はある。
たとえばメールの文面についていえば、近頃の若い人のメールは過剰敬語がひどい。~させていただいて~させていただき、~させていただければと思います、みたいな受動と尊敬語の魔合体が続く。そのせいで極めて意味が取りづらい。悪文もいいところだ。
また、語彙の少なさも異常レベルである。私が若い頃には強制されずとも社会人マナーの本を買って勉強したりしたもんだが、今どきの人はしないもんなのかねえ?
ま、そういうわけで、私としては正しい敬語の使い方をそれとなく伝授しているつもりだ。
「頼まれもしないのに?」
頼まれないでもやるのが年長者としての責務である!
「はいはい、わかったわかった。じゃあ百歩譲ってそこはいいとして、別に相手が若い人じゃなくても、あんたは常に同じような調子じゃない? それはどう説明するの? とりあえず形式に則っていればいいやってノリなんだったら、本質的に過剰敬語と変わらないよね。つまりあんたも若い人のこと、偉そうに言えないんじゃない?」
チッ、うるせぇな。
「あ、なに? あんた今舌打ちした?」
はいはいはいはいはい、すみませんでした。おっしゃる通りです。私が悪うございました! 手抜きばっかりでごめんなさい!
「なに開き直ってんのよ。あんた、いつも自分は理詰めでないと納得できないってゆってるくせに、実際に理詰めされたら逆ギレかよ」
ますます呆れ顔の動子。
しかし、いくら相手が自分(の分身)とはいえ、欠点ばかりまくし立てられたら腹も立つというものだ。とはいえ、ここを乗り越えなければよき「つながり」を見出すチャンスもなくなるだろう。ここは気持ちの抑えどころだ。仕方ないので、ひとまず動子の言葉に全面降伏することにした。
「オッケー、納得したのね? したんだな? なら、話を先に進めましょう。今回、お話をうかがうことにしたのは前回もお名前が出てきた須貝さん、次は作家の橘ももさん、そして最後は前職で上司だったN氏ね」
N氏と書くとなにやらショートショートの登場人物のようだが、れっきとした実在の人物である。お名前は後々明かすことにする。
「この方々は、モンガーズが誰一人持っていない個性――温和で人を構えさせない雰囲気を持っているよね。それゆえに人から好かれているのではなかろうかと思うわけ。この点についてはあんたも異論はなかろ?」
確かにその通りである。みなさんそれぞれ職業も年齢も活躍する分野もまったく異なるが、オープンマインドを感じさせる笑顔と広い人的ネットワークを持っている点で共通している。人選としてはたいへんよろしい。
「よし、じゃあ取材を始めるわ!」
というわけで、動子はまず新潟に行くことにした。須貝さんが仕掛け人となっている二つの活動を見せてもらうことにしたのだ。
さて、ここで『老い方がわからない』の連載や書籍を未読の方に向け、須貝氏と氏が主催するNPO法人「身寄りなし問題研究会」について改めて簡単に説明しておきたい。
須貝氏は長年福祉畑で活動してきたこの分野のエキスパートで、高齢福祉相談窓口で仕事をしていた折に「身寄り」がないために様々な問題に直面する当事者と多数関わったことをきっかけに、平成29年に同じ問題意識を持つ同志とともに「身寄りなし問題研究会」を発足させた。
氏の活動がユニークな点は、福祉分野の支援活動や相談業務、啓蒙活動を行うだけでなく、もっと広い範囲で地域や職域のコミュニティーを繋ぐハブを作り出そうとしている点だ。
そうした取組みのうち、今回見学させてもらったのは「イキダン」と「福壇BAR一刻」の二つだった。
イキダンは「粋な男のトレーニング教室」の略で、名前の通り男性を対象にした各種肉体トレーニングをワンコインほどの安価で提供している。とはいえ、女性の参加もまったく問題ない。トレーニング内容は幅広く、ボクササイズやエアロビクスのようなトレーニング種目から自己整体やヨガのような調整系のレッスンまで含まれる。
活動の主目的は、引きこもりがちなシニア男性を家の外に引っ張り出すこと。
一方、「福壇BAR一刻」は新潟市の繁華街・古町で運営されているバーである。福壇とは須貝氏による造語で、文壇や画壇があるなら、福祉関係は福壇でいいじゃない、ということらしい。居抜きで借りたカウンター十席ほどの小さな箱で、ポピュラーな酒と乾き物だけがメニュー。なお、一刻はかの名作マンガ『めぞん一刻』から取ったそうだ。
基本は須貝氏がマスターを務めるが、日替わりで臨時ママがカウンターに入ることもあるが、みなさん福祉や医療関係の本業を持つ人たちだ。
どちらも目的は「つながり」の形成に置かれている。
つまり、勉強したい要素がたっぷりつまった試みなのだ。だったら実際に体験してみない手はない。
そんなわけで去年の秋に続き、二度目の新潟入りと相成ったわけである。
そして、これが小説であれば、動子はここで感動的なロールモデルを得て、自らの道筋を見出すことになるのだろう。
だが、現実はそれほど甘くない。そうは問屋が卸さない。
「『イキダン』はなかなか参加者が伸びないんだよね~」とは須貝さんの言である。一般的にいい歳をした独身男性はコミュニティーとの繋がりが希薄であり、自ら動こうとしないとされているが、実際にそうであるらしい。
「やっぱりさあ、みんなと一緒になにかするっていうのは大切だと思うし、やってみると楽しいっていう人も多いんだけどね、なかなかね~」
腰を上げさせるのが一苦労、ということなのだろう。
まあ、私も当事者の気持ちはわからないでもない。というか、痛いほどわかる。
たとえ活動に少し興味を持ったとしても、これまで積極的に運動をしてこなかった人間は、そもそも着ていく服がない/運動するための靴がない、から躓いてしまう。
さらに、仕事を通してのコミュニケーションしか知らないから、場の雰囲気自体が想像もつかない。どうせ馴染めないだろう、と頭から決めてかかり、勝手に壁を作ってしまうのだ。
そして、とどめが「自分のような人間が参加しても意味がない」的自己否定だ。
もし行ったとして、そこですでに小さなコミュニティーが生まれていたら、溶け込む努力をする前に勝手に疎外感を覚え、心を閉ざしてしまう。どのような場でも古参はすでに独自の雰囲気やルールを作ってしまっているものだ。郷に入っては郷に従えではないが、新参者は、少なくとも当初はそれに従うしかない。コミュニケーションが得意な人間はそれに易々と従えるものだが、抵抗感を持つ者もいる。そして、あからさまな拒否はされなかったとしても、なんだかされた気分になって「あの場は閉鎖的」と決めつけるのだ。
あとはもう「時間がない」とか、「今更新しい人付き合いは面倒」などなど、自分に言い訳をしてせっかく動いた気持ちを握りつぶしてしまう。
こうした気持ちの流れは、決して特別なものではないだろう。多くのコミュ障当事者が経験しているはずだ。
須貝さんのように、独り者の不安や悩みを理解し、有効な解決方法の一つである地域コミュニティへの参加を促すため、あれやこれや手を尽くし、より気軽に、そして楽しく参加できるような環境づくりをしてくれる人はどの地域にもいる。
ところが、当の本人が現状から出ようとしないのであればどうしようもない。
人間は、本質的に「安定」した状態を良しとする。安定とはストレスを感じにくい状態であり、いわば、自分にとっての「心地よい巣」のようなものだ。巣自体に多少問題があっても、その内にいれば予測可能な出来事しか起こらず、変化に対応するストレスにはさらされないと感じていれば、無意識のうちにこの状態を維持しようとする。こうした状態を今どきは「コンフォートゾーン」と呼ぶらしい。
コンフォートとは慰安や慰め、気安さ、快適さを意味するが、コンフォートゾーンについていえば、その状況は必ずしも最上級の快適や慰めを意味しない。たとえば、母親の作るご飯がたいしておいしくなくとも、食べ慣れていればそれはそれで「母の味」として安心するようなものなのだろう。
そして、この「最高ではない心地よさ」を保とうとする心理の裏には、変化に対する強い抵抗が潜んでいる。ある種の人間にとって、未知の出来事や、予測できない変化は最大のストレスになりうる。特に長年波風のない生活を続けていれば、この傾向が一層強まる。
こうなると、未知なるものや変化に対して必要以上に強い不安や恐怖を感じる。 「失敗したらどうしよう」「新しい環境に馴染めないかもしれない」といったネガティブな思考が、変化を恐れる気持ちを増幅させるのだ。
一旦こうした状況に陥ると、人はさして快適でなくとも、とりあえず現状を維持しようとする。そして、新しい何かを始めることに抵抗を感じはじめる。なんでも、これは、脳がエネルギーの消費を抑え、安全な状態を保とうとする働きによるものなんだそうな。脳にとって慣れ親しんだ習慣や環境を変えることは大きな負担となる。そのため、人は無意識のうちに現状維持を望んでしまう。これを現状維持バイアスという。人の脳とは基本、怠け者なのだ。怠け者が人類のデフォルトなのだ。なんだか安心できるではないか。
たとえばSNSのインターフェースデザインがちょっと変わっただけでも、だいたいの人間は「使いづらくなった」と文句をいう。実際にはむしろ使いやすくなっているのに、それでも慣れている動きができなくなると文句をいう。慣れればいいだけのことなのに、人は変化に伴うコストを過剰に評価しがちである。
また、日本人にとっては「周囲の目」も現状維持バイアスの強い動機になる。たとえば、突然スポーツを始めたところで、先にやっている人たちに比べれば下手くそなはずだ。そんなのは当たり前なのだから、多少できないことがあっても胸を張っていればいいのだが、それができない。
「どんくさいやつと思われただろう」「こんな初心者がいたら迷惑に違いない」と誰に言われずとも思い込む。周囲の目が気になるあまり、新しいことへの挑戦をためらってしまう。
逆に、過去の成功体験に囚われてしまい、現状維持を選ぶ人もいる。企業でいっぱしの地位についていたとか、なんらかの指導的位置にいたなどのタイプだ。これまで何につけ黙っていても良きに計らってもらっていたから、いきなり知らない人ばかりの環境に放り込まれた途端、何をしていいのかわからない。でも、何をしたらいいのかわからないなんて無能の極みである。昭和平成を偉い人として過ごしてきたら「やれることぐらい自分で考えろ! お前の頭は帽子置きか!」とかなんとか言って部下たちを罵った経験もあろう。ところが、それが全部自分に返ってくるのだから、まともな人間ならば居心地が悪くて当然である。
コンフォートゾーンは、長年の習慣や経験によって形成されたものだ。それを変えることは容易ではない。新しいことを始めるには、それまでの価値観や生き方をある程度見直す必要があるため、心理的な抵抗が生まれてしまうのだ。
結果的に、新しいことに挑戦する意欲は失われる。
これらはあくまで例に過ぎない。人は誰でも、心地よく過ごせる「コンフォートゾーン」を持っている。いわば心の「安全地帯」のようなものだ。誰だって、安全地帯にとどまり続けたい。ましてや年を取ってくると余計なエネルギーは使いたくないものだ。
新しいことに挑戦することは、失敗する可能性や、予想外の事態に直面するリスクを伴う。このような不確実な状況を避け、現状を維持しようとする本能的な働きを一体だれが笑えるのだろう。まして、外に出て新しい仲間と出会い、未知のスキルを習得するためにかかる時間や手間ときたら、実際より大幅に大変に感じる。
それゆえ、変化することで自分の生活に大きな影響が出て、究極には心のバランスを崩す可能性があるのではないか、とまで妄想が進む。生物としての生存本能が、変化を危険なものと認識しているのだ。自然界では、不変の環境が安全を保証するからだ。そのため、現状維持を保とうとする心理が働くのは、ある意味自然な反応と言える。
しかし、コンフォートゾーンにとどまり続けることは、成長の機会を逃すことにつながる。新しい知識やスキルを身につける、人間関係を広げる、そして自己実現に向かって進むためには、積極的にコンフォートゾーンから飛び出すことが必要だ。
そして、飛び出すためには、小さな一歩から始めるしかない。いきなり大きな目標を設定するのではなく、できることから少しずつチャレンジしていくことで、自信をつけ、より大きな目標へと進んでいくことができる。
いずれにせよ、心地よい「巣」から飛び出し、新しい世界に挑戦すること。
それができなければ、老後は危うい。変化を恐れる気持ちを克服し、新しいことに挑戦することで、私たちはより豊かな老後を送ることができるはずだ。
とかえらそうなことを言いながらも、実際はまだ困難すぎてお茶飲みながら「どうしたもんだべなあ」と部屋の片隅で三角座りしているのが現実なんだけど。
新しい世界なあ。どうやれば飛び込んで行けるのかなあ。もしかしたら、酒が入るとこの心理的障壁も軽くなるかもしれない。
ということは、福壇バー的アプローチのほうが私には有効か?
次回はそこを考えてみよう。