最初から読む

 

 任された動央子は考えた。
 ちっちゃな脳みそをフル稼働させて考えた。
 だが、古人曰く、下手へたの考え休むに似たり、である。「つながり」を得るための良策なんてものがいきなり出てくるはずもない。
 こういう場合、めげずあきらめず粘り強く考え続けられる人格がモンガーズ内にひとりでもいれば、きっと門賀美央子はもう少し立派な人物になれていたことだろう。
 だが、残念ながら、そうしたペルソナは金輪際生まれなかった。揃いも揃って短絡的で拙速で我慢の足りない子ばかりだ。おそらく、それがモンガーズに共通する基礎人格なのだろう。実に残念な人類である。
 それでも、ごく一部は長年の経験やちょっぴりの努力によっていくばくかの改善が見られたものの、動央子(略称・動子)にはそれが及ばなかった。未だ「落ち着きがない」と通信簿に書かれた小学生時代と大差ない。
 だから、すぐに次の結論に至った。
 わからないんだったら、それが上手な人に聞けばいいじゃん!
 いや、お前さ。いきなり「人との上手な繋がり方教えてくらさい」と頼まれた相手がどれほど当惑するか、理解しているのか? 迷惑をかけるのでは、と考えないのか?
「え~、だって人に迷惑をかけるのを恐れるな、っていうのが前著『老い方がわからない』で得た教訓だったんじゃないの?」
 いや、それはそうなんだけど、“迷惑をかける”の意味が違うっていうか……。そもそも、なんでそんな簡単に事が運ぶと思ってんのよ。
 ところが。
 私の懸念をよそにとっとと人選し、連絡した動子は、あっという間に三件のアポ取りに成功してしまったのだ。
「ほら、やっぱり案ずるより産むがやすし、よ。きちんと理由わけを話してお願いすれば応えてくれるものなのよ」
 得意満面の動子。
 だが、ここではっきりさせておこう。
 手柄はお前にあるのではない。こんなしょうもないお願いを快く引き受けてくださった先方にあるのだ、と。
 ここで押さえておかなければならないことがある。
 動子の人選の理由だ。
 第一条件は当然ながら「社会的つながり」をたくさん持っておられる方、だった。この点について、大変ありがたいことに、私の身の回りには顔が広い人、多方面で活躍されている人がたくさんいる。
 第二条件は人付き合いにおいて、私とはまったく違う環境を持っておられるのではないかと思しき人物である。具体的に例示すると、良いことがあればお祝いしてもらえ、悪いことがあれば心配してもらえる人である。言い換えれば人望がある人、だ。
 だが、この二条件に該当する方は何人もいる。そんな中からどなたにお願いするかとなった時、動子がまず考えたのは「申し出を快く受け入れてくれるかどうか」だった。
 考えてもみてほしい。
 条件に当てはまるような方々は総じてお忙しいものだ。それでなくとも時間がないだろうに、繋がり方探しをしているので参考になるような話を聞かせてくださいなどとお願いしたら、よほど懐の深い人でないと「アホかね君は?」と一蹴することだろう。
 いくら踏みつけにされても気づかないタイプの動子であっても、ケンモホロロはさすがに悲しい。だから、もし断るとしてもやんわりと、私が傷つかずに済むような言い回しで断ってくれるだろう人にしよう、と思った。
 そして、思いながら、これって案外大事なのかも、と今更のように気づいた。
 「つながり」を持てるかどうかの局面で重要なファクターとして働くのは、やはり感情面でのケアができる人間かどうか、なのだ。
 私はどちらかというと無神経なタイプなのだろう。持って回った言い回しは好まないし、直截的な話法の方が理解しやすいと思っている。だから、ハイコンテクストな理解を求められる会話よりも、率直かつ端的なやり取りで済めば、それがベストだ。だが、それでもやはりにべなく断られると気まずいし、嫌な気分にはなる。たとえ引き受けてくれたところでいかにも渋々なのが丸出しだと、なんだか悪いことをした気になってしまう。
 結局、笑顔の二つ返事で引き受けてくれそうな人、断るにしてもこちらが嫌な気分にならないように気を使ってくれる人に優先して声がけしようと思うのは自然なことなのだ。
 ひるがえって、私自身はどうだろう。
 人の頼みはよほどでない限り断らないし、引き受けるなら気持ちよく引き受けるようにしているつもりではある。
 けれども、もしかしたら、他人様から見たらそうではないのかもしれない。
 だって、あんまり人から頼み事をされることがないもの。
 なぜなのかな? いや、もちろん単に役立たずとみなされているだけなんだろうけれど。でも、箸にも棒にも掛からぬほど無能ではない……はず……だ、たぶん……うーん、これ以上考えると自信がなくなる一方なのでこの点についてはひとまず思考停止。
 もう一つの可能性は、物事を頼みづらい人と思われているのかもしれない、ってこと。もし、同程度の能力を持っている人間が複数いたとして、何かあった時に声をかけられるのは「頼みやすい人」だろう。
 そして、「頼みやすい人」には二種類ある。
 「人格的に頼りにされている人」と「こいつなら絶対黙って言うことを聞くだろう」と侮られている人、だ。私が人を頼りにする時は絶対前者基準で選ぶ。というか、私の言うことを黙って聞いてくれるような奇特な人は周囲に存在しない。
 でも、後者優先で選ぶ人も珍しくはない。後者タイプはつまり「断れない人」であって、そこに付け込まれる。そして、結果的に人付き合いに疲弊していく。
 私は疲れるのが何よりも嫌いなので、嫌なら嫌とはっきり断る。だが、断る際にはちゃんと気を使って相手が気分を害さないようにしている、はずである。だって、そういう社交上のマニュアル的やり取りは一通りマスターしているはず、だから。
 けれども、自分で思っているほどにはきちんとできていないのかもしれない。
 前々からなんとなく感じているのだが、人は案外自分では得意と思っていることの方がまるでできておらず、不得手と思っていることの方が意外にも高い評価を受けているものではなかろうか。
 たとえば、私の場合、こんな商売をしている以上は平均よりは文章がうまいのだろう……うまいはずだ、きっとそうだ、そうでなきゃ困る。ところが褒められることは滅多にない。それどころか、書いてからひと月も経って自分の文章を読み直したら、その悪文っぷりに辟易することしばしばだ。だから、きっと自分で思っているほどにはうまくないのだ。全然。
 一方、普段まるで意識することはないものの、時折声を褒められることがある。人によっては、私の少し低めの声が耳に心地よく感じられるようなのだ。
 褒められ初めは忘れもしない、高校一年の時だった。
 私が高校生の頃といえば昭和終期、携帯電話などというものはまだまだ「夢の道具」だった。一般高校生は各家庭の固定電話を使うしかなかった。よって、電話をかければだいたい相手の家族に取り次いでもらうことになる。
 その際、いくら子供でも「モンガと申しますが、~さんはいらっしゃいますでしょうか?」とちょいとよそゆきの声で言ったりする。これが大の苦手で友達んに電話をするのは一大事なんて同級生もいたが、私は実家が商売をしていて、取引先からかかってくる電話を取るのが日常茶飯事だったおかげで、小学校高学年にもなると大人相手の電話でも受け答えぐらいはできるようになっていた。門前の小僧なんとやら、である。つまり実地訓練済みだったわけだが、普通のサラリーマン家庭のお母さんにしてみれば、我が子の同級生が大人びた声で大人びた言葉遣いをするのが驚きだったのかもしれない。
 友人が電話を切ったとたんに寄ってきて、「今の子、あなたの同級生でしょ? ずいぶんときれいな声できちんとした挨拶をする子ね!」と大絶賛だったそうな。
 翌日、学校で友人からそれを告げられて、生まれて初めて受けた意外な方向からの称賛に大いに戸惑いながらも、とてもうれしく思ったものだ。37年経ってもまだ覚えているぐらいだから、よっぽどうれしかったのだろう。たぶん、この経験があったせいで就職後も電話番が苦も無くできたわけだが、それはまた別の話。
 とにかく、友人のお母さんを事始めに、以後作り声で話した後は何度か同じように褒められる機会があった。でも、地声を知っている自分自身では美声と感じたことは一度もない。つまり、外部評価と内的評価は一致せず、逆転しているのである。
 事程左様に自己評価と外部評価にギャップがある例は事欠かず、そのおかげで私は慢心から逃れられている、のかもしれない。つまり、自分で得意と思っているものほど世間的には大したことはない、がデフォルトの認識になっているのだ。
 この点は、今後繋がり方を模索していく上でも重々留意しておかなければならないだろう。いざ事を起こすにあたっては、難なくできるはずの過程ほど念入りに点検しなければ。
 大幅に逸れた話を元に戻すと、今後人付き合いを増やしていく上で気に留めておくべきは、自らの行動が社交上の掟に合致しているかチェックすべし、ということだ。
「う~ん。それは別に間違っちゃいないだろうけどさあ」
 動子がなにやら浮かない顔で口を挟んできた。
「あんたの場合、逆にやり取りが妙に固すぎるところが人を遠ざけるんじゃない?」
 と、おっしゃいますと?
「いや、だからさ。たとえば、前著『老い方がわからない』でがいひであきさんに連絡を取った時のことだよ」
 須貝秀昭さんとは新潟でNPO法人身寄りなし問題研究会の代表を務める方で、福祉分野のエキスパートだ。『老い方がわからない』で取材させてもらったことが御縁となり、単行本出版時には帯用の推薦文をいただいた。
「二度目に連絡した時のことを思い出しな」
 ということは、帯文を書いてくださったお礼を兼ねて、三度目の面会をお願いした時のことね。
「そうそう、あんた、あの時Facebookのメッセージから連絡したでしょ? その時の文面(の一部)がこれ」

お世話になっております。先般は拙著に帯文を寄稿いただきありがとうございました。御礼申し上げます。

つきましては、一度直接御礼を申し上げたいのと、現在の御活動を見学したいのもあり、○月○日におじゃましたいのですが、よろしいでしょうか。
恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。

 確かにこの通りだったけど。
「あんた、須貝さんとはこの時すでに二度お会いしてるよね? 一度目は束の間、二度目はオンラインだったけど、そこで須貝さんのフレンドリーな人柄に触れて感心してたんじゃなかったっけ?」
 その通りです。あの、つゆほども人を緊張させない構え、ほんとかなわないなあと思ったものでした。
「だったらさ、なんでその次の面会をお願いするメッセージの文面がこれなわけ?」
 何か問題でも?
「どう考えても固すぎるでしょうが」
 そうかなあ? 社会人として普通だと思うけど。
「じゃあさ、これに対する須貝さんの返事はどんなだった?」
 あら、嬉しい(*´∇`*)のひと言でした。
「あんた、それ見てどう思った?」
 おお、受け入れてくれるっぽい! と安心しました。社交辞令でもうれしいって言ってもらえたらこっちもうれしいし。
「だよね? なのに、あんたはなんて返事したっけ?」
『ありがとうございます。当日お目にかかれるのが楽しみです。』です。
「なんでそうなるのかなあ?」
 動子は呆れ顔で肩を落とした。
「先方はごくカジュアルに歓迎の意を表してくれているのに、あんたがこれじゃあかえって失礼とは思わないわけ?」
 え、失礼、ですか?
「そうよ。だってこれじゃあ先方の好意を無視して、『こっちは距離を置きたいんです、馴れ馴れしくしないで』って言ってるようなものじゃない」
 そうかなあ? 私としては先方を立てているつもりなんだけど……。
「そこよ、あんたの問題点は。いいこと、よく聞きなさい!」
 なんだか突然説教モードに入った動子の言いたいことをまとめると、次の通りである。
 まず、誰にでもていねいに接することは決して間違いではない。しかし、お前のていねいさは、敬意をもってそうしているというより、相手との適切な距離感がわからないから無難を狙っているだけだ。単なる手抜きだ。
 自分では社交上のやり取りは一通りマスターしているとか抜かしているが、とんでもない。社会に出たばっかりの若者が、とりあえずマニュアル通りにするというならともかく、お前は自分の年をわかっているのか。もう五十も半ばに手が届こうかというのに、なんで他者との適切な距離感がわからないのか。それはお前が長いこと他人との関わり方をないがしろにしてきたからだ。つまり、お前の「ていねい」は怠惰の結果に過ぎぬのだ!
 
 ……なんだか痛いところを突かれた気がする。だが、これで終わらなそうである。
 どうやら来週に持ち越すようだ。

(第9回へつづく)