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 某月某日、東京の銀座にある中華料理店で、動子はある女性からお話を聞いていた。
 その人の名は橘もも。幅広いジャンルの作品を手掛ける小説家である。ティーンズ小説からライトノベル、さらには映画やゲームのノベライズまで、その活躍の場は多岐にわたる。代表作には「それが神サマ!?」シリーズや、『忍者だけど、OLやってます』などがある。
 小説家としてデビューした時、橘さんはなんとまだ高校生だったそうだ。第七回ティーンズハート大賞(講談社X文庫)で『翼をください』が佳作受賞し、それが商業出版での処女作となった。年下だが、物書きとしては大先輩、というお方だ。
 ただし、最初に出会った時、彼女の立場は作家ではなかった。二十代の橘さんは某雑誌の編集者をしていて、取材の現場でお会いしたのである。
 初対面の印象は、コロコロ笑う笑顔がかわいいお嬢さんだな、だったことは今も覚えている。
 雑誌の取材現場では、編集者は黒子に徹しながら、場を適宜コントロールしなくてはいけない。しゃしゃり出すぎても、傍観者になってもだめだ。取材対象者がストレスを感じることなく、スタッフが各々の仕事に専念できる環境を整えるのが役目だ。橘さんは、若いながらもそれを自然にこなしていたように思う。
 とはいえ、同じように有能な編集者なら他にもいる。橘さんが違ったのは「今度食事でも」という一般的な社交辞令をきちんと実行する律儀なタイプである点だった。
 もし、世界中で別れ際に交わされる「今度食事でも」が百パーセント実行されたら、世の飲食店は常にどこも満席になっていることだろう。だが、そうはならない。果たされないのが前提の社交辞令、それが「今度食事でも」である。
 しかし、橘さんのそれは空約束ではなかった。
 本当にその後食事会の場が設けられ、私もそこにお呼ばれしたのである。
 その後も、橘さんとは何度かプライベートで食事をすることになるのだが、仕事絡みでなく完全プライベートで交流する機会がある編集者は、長いライター生活の中でも彼女ともう一人二人ぐらいしかいない。
 他は、私も含めたいてい言葉だけで終わるものだが、橘さんはちゃんと誘ってくれる。私のように普段あまり人から誘われない人間には、これだけで随分うれしい。
 しかも、毎度こちらがぜひ行ってみたいと思うような素敵な店を選んでくれる。この時点で、食い意地のはったモンガミオコがホイホイ出て行くのは必定なわけだが、根がネガティブゆえに一度でも嫌な気分になったら二度は行かない。けど、橘さんとの会食で嫌な思いをしたことは一度もない。
 これはなぜだろう、と思った時、まず脳裏に浮かんだのは彼女の人懐っこさである。常に人を安心させるような、人懐っこさを漂わせているのだ。第9回で、お願いする相手は「もし断るとしてもやんわりと、私が傷つかずに済むような言い回しで断ってくれるだろう人」と書いたが、まさにそれである。
 ただし、今回ご登板をお願いしたのは、そればかりが理由ではない。
 橘さんが近ごろ出された小説『恋じゃなくても』にとても気になる言葉があったのだ。
 それは登場人物のひとりで菓子職人の男性が発した「凡庸な変わり者」というキーワードである。
 この言葉は物語の後半で、主人公と男性が日本酒バーで同席し、結婚観について語り合うシーンで登場する。
 せっかくなので、核心になる部分をちょっと引用してみよう。

「変わり者の自覚はあるんですよ、僕。でも変わり者にしては普通っていうか、凡庸っていうか」
「凡庸な変わり者なんて、います?」
「いっぱい、いるでしょう。世間はね、極端に変な奴は放っておいてくれるんです。でもほんのちょっと、いくつかの部分で世間に迎合できない奴のことは我儘だとみなす。で、あれこれ口を出してくるんです。普通はこうする、普通はこうしないって、勝手につくった檻に入れようとする(後略)」
『恋じゃなくても』橘もも(双葉社)より引用

 これを読んだ時、「凡庸な変わり者」とは実に言いえて妙だな、と感心した。同時に、そのような存在として生きる者のしんどさをコンパクトに表現してくれているな、とも。
 『恋じゃなくても』は主に婚姻を視野の中心に起き、いわゆる「普通の結婚」「普通の家庭」と縁遠い人たちの事情や言い分を書いた小説だ。
 縁遠さの理由はそれぞれ違う。同性愛者、他者に対して性的欲求を抱かないアセクシュアル、性的にはノーマルだが結婚制度に価値を見いだせない者などなど多様だ。
 こういう柔軟な視点で世を見ている橘さんだから、幅広い交流関係を維持できるのではないか、人に好かれるのではないか。そう思った。
 ところがどっこい、当の本人は「自分は人付き合いが苦手だ」と言うではないか。それなのに若い頃からずっと続く付き合いがたくさんあるのは、他人との関係性を維持したいという思いが強いからだという。御本人の言を借りるなら「執着心が強い」のだそうだ。
 一度できた関係性を、なるべく失わずにいたいと願う気持ち。
 これを橘さんは執着と呼んでいた。
 執着。
 聞きながら、なるほど、これは一つのキーワードだな、と直感した。
 橘さんは執着が深いゆえに、自と他の関係性について深く考えることがしばしばだという。それは同時に自分自身に深く分け入る道程となる。これが小説を書く力の源にもなるのだろう。
 ひるがえって、私はどうか。
 前回書いたように、私はすぐ人間関係を諦める。
 これはたぶん、多感な時期に仏教書にかぶれたせいだ。仏教では、人の苦は執着することによって起こるので、安らかな心を手に入れたいなら執着心を手放さなければならないとされているのだ。
 これはもう絶対的に正しい。
 愛する人との別れ、嫌いな人との遭遇、欲しいものが手に入らない、こうした苦しみや辛さはすべて、対象になんらかの執着心があるから生まれる。お釈迦様がこれらを手放したら楽になりますよ、と説いた(ということになっている)のは至極当然だし、間違いないところだろう。ゆえに、私にとって執着はもっとも排除しなければならない感情として認識されている。
 だから、何事であれできるだけ執着しないようにしてきた、つもりだった。ところがどっこい、かなり薄くなっていたはずの執着心はしっかり私の内側に残っていたのを実感したのが一昨年から昨年にかけて、だった。
 『恋じゃなくても』の登場人物たちは「普通にできない/なれない」自分に苦しみながら、それでも各々が周囲と折り合いをつけていこうともがく姿が描かれている。
 私はもがく前に諦めて捨ててしまった。
 凡庸な変わり者であることを早い段階で受け入れ、それによって周囲との摩擦を避けて生きてきた。
 ある意味、人生をサボったようなものだ。
 結局のところ、私は単に人間関係の煩わしさを避けたいがために執着していない振りをしていただけなのかもしれない。そして、それはある程度心の安定に寄与してきたのだろうが、現実世界をサバイブするための社会的関係性を築かないまま事ここに至る結果になってしまった。
 それでよかったことなど、こうして今、本のネタにできていることぐらいである。他には何一ついいことなんかない。……いや、精神安定には役立っているのかな、やっぱり。でも、そうした消極的コンフォートゾーンから出るのだと決心した以上、「つながり」を求めて、ちょうどよい加減の執着心を持つべきなのだろう。
 お釈迦様も極端を廃して中道を行け、とおっしゃっているではないか。執着を捨てると偽って逃げているようではこの先はあやうい。
 今こそ、逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ、の時なのだ。
 な~んて、かっこよく言ってみたところで、まだ何をしたらいいのか、全然わかってないんですけどね。
 まあ、とにかく目の前の問題から逃げないことから始めるっていうのが、私にとっては一番よいことなのでしょう。
 ただ、これだけは特筆しておきたい。
「逃げちゃだめだ」は私のような逃げ上手の人間が考えなければいけないことで、世の中には逆に逃げなさすぎの人があまりにも多い。逃げなきゃいけないような場面でも逃げないのだ。
 最近は「逃げてもいい」が一つのトレンドにもなっているが、私に言わせたら「逃げないといけない」ところから逃げずに満身創痍になっている人が多すぎる。
 あまりにも逃げない人を見ていると、自分が痛めつけられることに喜びを見出すタイプ? と邪推したくなる。精神的マゾは確かに実在するだろう。虐げられることでハアハアしちゃうタイプ。虐げられることに謎の優越感とアイデンティティーを見いだせるタイプ。それはそれで、御本人が幸せならばいいんじゃないかなと思う。
 けれども、そういう一部特殊な人以外は、傷つけてくる相手や環境からはさっさと逃げるべきだ。
 「逃げ」は時に強さであり、新たな始まりを呼ぶ。
 言葉に付きまとう、どこか後ろ向きで弱い印象に足元を絡め取られて一歩が踏み出せない人もいるだろう。しかし、状況に応じて「逃げる」という選択をすることは、恥ずべきことではないし、むしろ強い人間だからこそできることだと私は考えている。
 現代社会は、多様な価値観が入り乱れ、常に変化し続けている。その中で、誰しもが様々なストレスやプレッシャーに晒され、精神的な負担を抱え込んでいるのは火を見るより明らかだ。SNSなんぞ、まさにそんな声で溢れているではないか。
 そんな時、無理に頑張り続けようとするのではなく、一旦立ち止まって状況を見つめ直し、自分自身を守るために「逃げ」という選択をすることは、決して悪いことではない。
 逃げることは、単なる逃避ではなく、自分自身と向き合い、心のバランスを取り戻すための大切な時間となる。
 もちろん、ただ闇雲に逃げ出せばいいってものでもない。効果的に逃げたければ、なぜ逃げるのか、どこへ逃げたいのか、そして逃げた後どうしたいのか、しっかりと自分自身と向き合い、明確な目標を持ったほうがいい。
 でも、そんなことを考える心の余裕すらなければ、どこでもいいからまずは逃げ出せばいい。
 繰り返すが、「逃げる」ことは、決して弱さの表れではない。むしろ、自分自身の心の声を聞き、大切にすることができる強さがある証拠だ。それは、困難な状況から逃げるのではなく、より良い自分になるために、一時的にその場から離れるという、賢い選択なのである。
 私たちは、時に理不尽な要求や不当な扱いを受けることがある。そんな時、ただ我慢し続けるのではなく、勇気を持って「ノー」と言えることも大切である。
 「逃げ」は、理不尽な世の中と戦うための第一歩。新たなスタートを切るための準備期間なのである。逃げることで、心身のリフレッシュを図り、新たな視点から物事を捉えることができるようになる。
 「逃げ」という選択肢を認めることで、私たちはより自由で豊かな人生を送ることができる。そして、自分自身を大切にし、心を健やかに保つことができるだろう。心の健康はなにより大事だ。それがなければ居場所も繋がりも探せない。
 というわけで、逃げ続けることで心の健康をなんとか保ってきた私は、堂々と次の段階に進みたいと思う。
 次回、お話を聞くのは好きなことをするために自ら新環境に飛び込み、そこで得た人脈を次のステージに活かすというまさに理想的な道を歩んでこられた人である。
 お楽しみに。

(第12回へつづく)