ここのところ、どうにもなにやら居心地が悪い。
 なんの居心地かっていうと“今生きているこの世界”の居心地が悪い。私を取り巻く世界のありとあらゆることが私を落ち着かない気分にさせる。
 たとえば自然災害。
 私が子供の頃は震度5クラスの地震でも大地震って感じがしたものだが、今は震度6や7クラスが珍しくもない。
 天候も変化している。同じく子供の頃、気温32度なんて予報を見た日には目が飛び出る思いがしたものだった。けれど、わけのわからぬ猛暑が続いた2024年の夏には32度なら「あ、今日は涼しい?」と思った。ナチュラルにそう思った。
 雨の降り方だっておかしい。しとしと雨が無くなり、ドカ雨というかバカ雨というか、度外れの豪雨が当たり前になった。ノーコンもいいところである。村雨や篠突く雨といった情緒ある言葉を使うのは申し訳ないほどだ。
 世界情勢は言うまでもなく無茶苦茶。グローバルに極右が台頭し、不健全な民族主義が広がっている。国際社会はならず者国家が幅を利かせ、法の支配がおろそかにされている。 ならず者が幅を利かせ云々については国内だって大差ない。為政者や権力者の罪は不当に軽く扱われるが、庶民は刑法通りに裁かれる。
 公共サービス、交通や物流インフラはどんどん削られているのに一過性の公的イベントには公金が惜しげもなく注ぎ込まれる。税金は上がり、生活費は高騰する。結果として日々の暮らしは目に見えて萎み始めている。
 なんなんだろう、これ。
 21世紀って、もっと夢に溢れていたんじゃなかったっけ?
 世界は平和で、街では透明チューブの中を車が走っていて、家事はぜんぶロボットがやってくれて、みんな宇宙服みたいな変な服を着ているんじゃなかったっけ?
 ま、そんなレトロフューチャー的風景は単なる昭和生まれのノスタルジーだとしても、ベルリンの壁が崩壊してから米国で911が勃発するまでは、なんとなく世界は平和に向かっているんじゃないか、みたいな感覚があった。社会だってもっとまっすぐ進歩していくものだと信じていた。今思えば、そのオプティミズムは世間知らずの為せる業だったわけだけれども、ここまで夢も希望もない感じになるとはよっぽどのペシミストでもない限り考えていなかったんじゃないだろうか。
 ……と、いかにもありがちな時事ボヤキはここまでにして。
 とにかく、現在の私は、世界に対する居心地の悪さを感じている。しかも、少しずつではあるが、確実に強くなっている。
 この感覚を最初に持ったのは拙著『死に方がわからない』の執筆中だった。生死を巡る社会制度が、徹底して独り者を許さない仕組みになっている、と痛感した時だ。そのあたりの経緯については『死に方がわからない』および第二弾である『老い方がわからない』に詳しいのでぜひそちらをお読み願えればと思うのだが、現状これだけ自己責任が叫ばれる世の中のくせに法的な家族がなければ何もできない仕様になっている。これには強い矛盾を感じる。そして、その矛盾が私を居心地の悪くさせている。
 だが、原因はそれだけではない。
 世に出回っている独り者を巡る言説の端々に、私を落ち着かない気分にする“ニオイ”がつきまとっているのだ。
 この数年、報道や文系学問の世界では「孤独」に対する考察が流行している。
 ネットの書店サイトで「孤独」や「孤立」をキーワードにして検索すると、わんさか関連本が出てくる。新聞記事の検索でも同様だ。孤独をテーマに長期連載する新聞社もあるほどだ。
 孤独が深く考察されること自体はよい、と思う。
 でも、問題は論調だ。
 目に入ってくるもののほとんどが孤独をネガティブな文脈で語っているのである。
 どうやら彼らの多くはこう結論付けたいらしい。
 独りは害悪。
 独りは病気。
 独りでいるのは人間失格。
 盛っている表現に感じられるかもしれないが、要約すればこう言ってますよね、みたいな言説があちらこちらに飛び交っている。
 これが私には滅法ウザい。
 しかもウザさに拍車をかけるのが、何かと扁平な理解の多いマスメディアだけでなく、孤独や孤立をテーマにしている研究者、さらには“支援者”とされる人々までそんな感じの発言をしている点だ。
 もちろん、露骨にそう表現することは稀だが、「でも突き詰めるとそう思ってるんですよね?」と半笑いで問い詰めたくなるのである。
 これってなんなのだろう?
 独りで生きるっていうのは、そんなにおかしなことなのだろうか?
 群れないでも平気なのは、人格を疑われるようなことなのだろうか?
 私にしてみればいずれもNO! である。
 正直、単にマジョリティのマイノリティ迫害のように感じられて、とっても気持ち悪い。
 けれども、どうやら世の中にはいい年した独身者を即異常者とみなす風潮もあるらしい。そもそも歴史的に見れば、独りものは時として妖怪扱いされることすらあった。日本の山姥や西洋の魔女がそれである。今だって、犯罪者が独身だったりすると、その事実をことさら強調したり、揶揄されたりするケースが珍しくない。
 よくて珍獣、ひどければ変質者。つらいところだが、これが世間の目だ。
「結婚しない人生があるだなんて、考えたことがなかった」
 これは少し前、友人と話していた時に言われたことである。
 私は心底驚いた。文字通り目が点になるほど驚いた。
 あ、ここで今どき流行りの女同士マウント合戦を期待したならあしからず。彼女と私はそんな関係ではない。彼女の感慨も、私の驚愕も、実に素朴なものだった。私にとっては人生のオプションのひとつに過ぎない結婚が、彼女にとって絶対条件だったというだけだ。
 しかし、彼女と私は同級生。同じ時代に生きてきた人間だ。育った場所もそう大きくは変わらない。それでも、これだけの差がある。私はまずその事実に戸惑った。
 私が現在身をおいている出版業界では、ずーっと独身を通している女性は、少数派ではあるが珍しくはない。また、大学時代の友人にも独身者がチラホラいる。だから、独身女性を指してことさら何かネガティブな発言をしようものなら、とたんに糾弾されるであろう空気が満ちている。もちろん、裏側や酒席ではそれなりのことを言っているのだろうが。しかしながら、表立って馬鹿にするような勇者はまずいない。
 よって、世間一般でももうすっかり「結婚して家族を作る」はひとつの選択肢に過ぎない、という共通認識が出来上がっているものだと思い込んでいたのだ。
 けれども、そうではなかった、らしい。
 特に、東日本大震災とコロナ禍は潮目を変えた大きな出来事だったように思う。
 東日本大震災ではさかんに「絆」が強調され、続いてやたらめったら「家族」がクローズアップされるようになった。震災を期に結婚しました、なんて話がバンバン流れてきた。身近にも本当にそういう選択をした人もいた。特に珍しい光景でなかったのは間違いない。
 こうした風潮を後押ししたのは政府の少子化対策だろうと推察する。2008年に生まれた「婚活」なる言葉が一般語化し、2013年には「婚活・ブライダル振興議員連盟」ができた。さらに、ネット上での出会いサイトの利用が一般化し、2012年にはマッチングアプリがリリースされ、スマートフォンが一人一台の時代になった2020年代からはネットde婚活は珍しくもなくなっている。恋愛市場なる気持ち悪い言葉が盛んに使われ始めたのもこの頃からだったろうか。電車に乗れば婚活広告を見ないことはなく、スマホのマッチングアプリは花盛り。テレビは相も変わらず恋愛ドラマがのべつ幕なしに作られ続けている。親から結婚への圧力があって云々の導入パターン、もうそろそろ飽きないのかしら? と私なんぞは思うのだが、これこそが結婚適齢期(笑)のリアリティなのだ、とする共通認識は確固たるものなのだろう。
 さらに、コロナ禍で人々が隔離を余儀なくされるようになると、ますます家族のよさが強調されるようになった。この間、実は家族間のDVや児童虐待の相談数が増えているにもかかわらず、だ。まるで、その事実を消し去りたいがごとくの勢いで「家族っていいね!」が蔓延した。
 しかも、それだけでは終わらなかった。
 ポリティカル・コレクトネスを前提とする現代的な“優しさ”が発動し、血縁や婚姻による家族が作れないなら疑似家族的なパートナーを作ればいいよ! とのありがたいアドバイスが社会に広がりつつあるのである。
 なんだかもううんざり。
 いや、私とて家族やパートナーの大切さはよくわきまえている。「自分以外の誰か」が人生に豊かさをもたらし、彩りを添えることは否定しない。それに、独りでできることには限界がある。人間は集団で生きることを選んだ生物だ。生物学的にも「ぼっち」が最適解ではないのは明らかである。
 けれども、勢い余って「独りでいる人はかわいそうな孤立者です! 社会悪です! 弱者です!」みたいな言い方をされてしまうと「いやあ、それはちょっと勘弁してよ」となるのだ。
 わかってくれとは言わないがそんなに俺が悪いのか、ってやつである。
 社会的繋がりは拒否しないけれども、別に家人や子供や疑似家族は求めない。
 そんな人間もいたらおかしいか?
 しかし、繰り返しになるが、日本社会では社会的繋がりの第一を婚姻もしくは血縁関係に置いている上、それらがない場合も保証人なる謎の第三者が求められる。よって、それを所持していない/できない人間はなにかと不便が生じるようシステムが成り立っているのだ。独り者には近頃流行りの“合理的な配慮”とやらすら用意されていない。
 その不便さが社会に対する居心地の悪さの源になり、あげくこの社会には居場所がないような気にさせられているのだ。
 とはいえ、私自身は比較的最近まで社会に対して、それほど居心地の悪さを感じてはいなかった。なにぶん人にどう見られているかに関しては鈍感であり、かつどう見られていたところで気にしないたちだからだろう。
 けれども、前々著、前著で、社会制度が徹底して独り者を無視している現状を知ると、さすがにのんびり気分も消えてきた。一度気がついてしまうと、まるっきり無視もしづらい。知らないうちにできていた背中のできものに一度でも触ってしまうとその後はなんだか気になってしょうがなくなるあの現象と同じだ。
 よしんば、心情面では無視できたとしても、現代を生きる一市民である以上、制度面ではなんらかの形で対応せざるを得ない部分もある。
 本来なら、社会制度を独り者に適応させることが肝要だ。独りが独りのまま社会に居場所を確保し、独りの人生を楽しく全うできる社会にしたい。それが私の望みだ。
 だが、皮肉なことに、それを独力で実現するのはほぼ不可能である。
 さて、どうしたものか。
 また考えなければならないことができてしまった。困ったことである。

(第2回へつづく)