最初から読む

 

 一人でやり遂げるのが難しいならチームの力で! を合言葉に(いつのまに?)門賀美央子内ペルソナを総動員したモンガーズが召喚され、あいかわらず生産性のない会議進行ながらもひとまず担当分けは決まった。
 そして、トップバッターは「孤独」「孤立」についての認識を深める担当の夢央子、略して夢子が任されることになった。
 ペルソナの中では頼りないこと怠央子と双璧をなすわけだが、本を読むこととあれこれ思いを巡らせることは好きなので、まあ適任だろう。それに、門賀史の中ではもっとも古いペルソナのひとつである。そのためか、頼りないながらも発言力は強い。
 というわけで、金央子がハラハラする中、関係しそうな書籍を買いまくった。そして、読んだ。
「まず、孤独とはなんぞや、ですわよね」
 夢子さんがなんだか優雅にステップを踏みながらやって来た。
「それについてこれらで学びました」と差し出されたのはフェイ・バウンド・アルバーティ著『私たちはいつから「孤独」になったのか』(みすず書房)、ヴィヴェック・H・マーシー著『孤独の本質 つながりの力』(英治出版)の二冊だった。
「まず、『私たちはいつから孤独になったのか』のすばらしいところですけど、序章の冒頭がいきなりビートルズの『エリナー・リグビー』の話から始まりますの!」
 は? そこですか? 
「わたくしたちが大好きな『エリナー・リグビー』ですわよ! これはもう運命の一冊としか思えません!」
 なんだか興奮してらちが明かない感じになっているので、簡単に解説したい。
「エリナー・リグビー」とはビートルズの7枚目のオリジナル・アルバム「リボルバー」に収録された曲で、エリナー・リグビーなる架空の女性を通して人生の孤独と虚しさを歌う。深みのある歌詞と当時としては異例の弦楽八重奏を使ったアレンジなどが画期的で、20世紀ポップスの歴史を変えたとされる名曲だ。
 私は、ビートルズ直撃世代である母親の影響で幼い頃からビートルズに慣れ親しんでいたが、自ら進んで本腰をいれて聞くようになったのは中学生の頃から。しかも最初は「ビートルズ・フォー・セール」ぐらいまでだった。
 しかるに、高校あたりに入ってから聞く音楽の幅がぐんと広がり、その段階で「よくわかんないけど、とにかくすげー」と何かに目覚めた思い出の曲が「エリナー・リグビー」なのである。若造ゆえ歌に込められた孤独への絶望感には気づきもしなかったが。
 そんなわけなので、仕事の一環としてページを開いた途端、この曲のタイトルが目に飛び込んできたら興奮する気持ちはわからないでもない。でも、夢子のテンションは正直キモい。 しかし、一度興奮状態に入ったらただでは終わらないのが夢子である。第二段階として読んだ次の三冊には、さらに大変な感銘を受けた、らしい。
「まずはなんと言ってもこの一冊、『生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ』(講談社現代新書)ですわ! ここにはモンガーズのみんなが心得ないといけない大事なことが書かれてありましたの! なんてすばらしい~♪」
 アリアでも歌い出しそうなテンションで出してきたのは、哲学者・戸谷洋志氏の著書だった。新自由主義がはびこる世界の中でやたらと信奉者の多い「自己責任」とやらを解体し、こいつらがいかに社会と人を破壊しているかを検証しつつ、代わるものとして「弱い責任」なる概念を提唱している。
「次におすすめなのはこちら、『ぼっちのままで居場所を見つける――孤独許容社会へ』よ! タイトルからしてわたくしたちにぴったりではありませんか!」
 こちらは英文学者の河野真太郎氏がちくまプリマー新書、つまりティーン向けに孤独と孤立の本質を、歴史的経緯を踏まえて解説し、最終的にはぼっちでも生きられる社会を目指そうと呼びかけている。
「そして最後はこれ! 阿比留久美 著『孤独と居場所の社会学~なんでもない“わたし”で生きるには』(大和書房)です! おおフロイデ!」
 最後の一節は言わずと知れた第九の歌詞だが、ここでこれが飛び出るのはなにも夢子にクラシックの素養があるからではない。幼い頃に読んだ『ぽっぺん先生の動物事典』で、ぽっぺん先生が興奮するとこう叫んでたのを真似しているのである。つまり、夢子の精神レベルは小学生時代からさほど進歩していない。よって、このパートはそのつもりで読んでいただけると大変助かります(筆者注)。
 ひとまず夢子担当パートで登場する書名は出揃ったが、当の本人はエア指揮棒を振りながら感極まっているので、私が代行して話を進めよう。
『私たちはいつから孤独になったのか』の著者であるフェイ・バウンド・アルバーティは孤独の本場、英国の文化史家である。なお、年齢は私と同い年。なんとなく、縁を感じる。専門とする研究分野は複数あるようだが、そのうちの一つに「感情史」なる聞き慣れないものがあった。どうやら、近年始まったばかりの学問であるらしい。
 しかしながら、完全に新しいジャンルというわけではなく、歴史学の中から生まれた新しいアプローチだという。これまでは扱いきれないものとして等閑視されていた「感情」から史料を読み直せば発見があるんじゃないか、という流れで起こったそうな。
 学問のトレンドは未だに欧米先行だが、こちらも御多分に洩れず、一九八〇年代末頃に米国の研究者が「エモーショノロジー」なる概念を提唱したのが嚆矢とされる。だが、多くの関心を集めるようになったのは二〇〇一年に起こったアメリカ同時多発テロ事件――9.11がきっかけだったとされている。
 万事忘れっぽい私であるが、9.11の一報をテレビで見た時の状況だけは四半世紀近く経った今でも、はっきりと覚えている。
 その時、私は自室でテレビを見ながら友人と電話で話をしていた。どんな話をしていたかは覚えていないが、他愛ないものだったと思う。そして、何かおもしろいことがあって大笑いした瞬間、テレビ画面にWTCに突っ込む飛行機が映ったのだ。
 笑いは一瞬にして止まり、「なんやこれ?」と大声で叫んだ。当然、友人はいぶかしむ。
「早くテレビを点けて! ニュース見て!」
 ただならぬ口調に驚いたのか、理由を問うこともなく友人は私の言葉に従ったらしい。まもなく「なんやこれ!」と異口同音に叫ぶ声が受話器から聞こえてきた。
 なんでも、人間の脳というのは、感情が大きく揺さぶられた経験をより強く記憶する仕組みになっているらしい。脆弱な記憶力の持ち主である私が、あの瞬間の細部をこれだけ覚えいてるということは、それだけショックが大きかったのだろう。
 外国のいち市井人である私でさえこんななのだから、米国人にとっては計り知れない衝撃だったはずだ。彼らの感情は大きく揺さぶられ、しばらくショック状態が続いた後に報復の旗が高々と掲げられた。理性を以て平和裏に対処しようとする声は力を失った。そして巻き起こった報復戦争、それに伴うテロリズムの拡散、人種/宗教差別の拡大などありとあらゆるネガティブな動きは災いの種となり、世界各所で不健全なナショナリズムを伸長させ、人類全体の雲行きを怪しいものにしている。
 結局、歴史を大きく動かすのは「民衆の感情」ではないか。当たり前といえば当たり前だけれども、研究対象としてはさほど重視されていなかった部分が一気に切迫感のある問題となって、米国の知識層を揺り動かした。
 一方、日本では二〇一一年に9.11に勝るとも劣らない事態が勃発した。そう、東日本大震災だ。これが日本における感情史再発見の大きな契機になったと、ものの本には書かれている。
 日本の国土、そして日本人の心が激しく動揺したあの震災。9.11に倣って3.11と呼ばれるようになる地震が発生したあの瞬間のことも、私はやっぱりよく覚えている。
 地震発生時、私は当時住んでいた東京都墨田区のアパートで、いつも通りパソコンの前に座って仕事をしていた。部屋にはスピーカーからは穏やかなクラシック音楽と、キーボードを叩く音だけが響いていた。
 そこに妙な地響きが混ざった。ん? と思った瞬間、床が波打つような感覚が襲ってきた。 地震かなと思うや思わないうちに、揺れは大きくなった。しかも長い。私はとっさに関東大震災がとうとうやってきたのだと早とちりした。阪神・淡路大震災では建物が歪み部屋から脱出できなくなった事例が報告されていたのを思い出し、携帯電話だけ持って急いで外に出て、玄関ドア前の踊り場で揺れが収まるのを待った。
 扉の向こうではバターン、ガシャーンとなにかが倒れ、壊れる音が聞こえている。地震への恐怖心より、部屋の惨状を思ってうんざりした感情の方がより強く記憶に残っている。やがて長い揺れが収まり、部屋に戻った。
 仕事部屋は本が散乱するほか、パソコンの液晶モニターとブラウン管テレビが仲良く重なり合って落下していた。もしあのまま椅子に座っていたら怪我していたかもしれない。外に出るという判断は正しかったらしい。
 台所では食器棚が倒れ、テーブルとゴッツンコしていた。観音開きの扉は開き、中から食器類が飛び出していた。大事にしてたウェッジウッドのカップとソーサーのセットが割れているのが遠目でもわかって、特大のため息が口から飛び出した。後ほど点検すると高価な食器から優先して壊れ、百均で購入したのやらシールを集めてもらったのやらは全部無事だった。人生、そんなものである。
 それよりなにより、食器より悲惨だったのはガスコンロの上に置いていた大鍋だった。出汁を取るために昆布をつけて置いていたのが見事ひっくり返って、2リットルほどの水が床を濡らしていたのだ。なぜか昔から拭き掃除が大嫌いな私にとって、これが一番精神的に堪えた被害だった。よっぽど応えたらしく、以来、液体が入った鍋や薬缶を放置する時は必ずシンクに置く癖がついた。たった一度で完全に習慣づけられたのだから、よほどガックリきたのだと思う。
 だが、この時の私はまだ東日本の太平洋沿岸でとてつもない被害が発生しつつあったこと、また原発のメルトダウンという未曾有の事故の引き金が引かれたことも知らなかった。それでもこれほどはっきり記憶しているのだから、私の感情は相当揺さぶられていたのだろう。自分では冷静なつもりだったが。
 私が体験したレベルの“震災被害”がまったく取るに足らぬ微々たるものであるのは言うまでもない。しかし、私の個人史上では忘れられない特記事項となった。そして、特記事項はなにかの折りに触れ心に甦り、現在の私のり方にも強く影響している。
 しかし、それでもまだ私は「感情」が生活や人生観にもたらす変化について軽視していた。前述した通り、心穏やかならぬ日々が続きはしたが日常が完全に壊れたわけではなかったし、物書きの端くれとして状況を冷静に観察する態度は取れていた。これは父が事故に倒れ、それに伴い予想外のドタバタが数年にわたって発生した時も同様だった。
 だから、過信していたのだ。
 私は感情に左右されるような人間ではない、と。
 そんな根拠のない自身がもろくも崩れ去ったのは、昨年、二〇二三年のことである。
 きっかけは、あるミュージシャンの急逝だ。高二の時からずっと好きだったバンドのフロントマンが突然亡くなった。
 たぶん、この出来事がなければ、私はアルバーティのプロフィールに「感情史」の文字を見ても大して反応することはなかっただろう。そして、孤独を研究する著者の専門分野にそれが入っていることの意味も理解できなかったはずだ。
 でも、今は違う。感情が人の心身にどれほどの影響を与えるのか、身をもつて知ったのだ。
 訃報をきっかけに、半年ほど完全に感情のコントロールを失った。本気の本気で泣き暮らしていたのだ。童話などでは泣きすぎて目が潰れた人が時々出てくるが、あれは実際にあり得るんだと腹に落ちるほど泣いた。
 はい、すみません。呆れていますよね。
 肉親でも親友でも恋人でもない人間の死にそこまで打ちのめされるなんてバカじゃないの? と思ったことでしょう。否定はしません。だって、私自身も自分でそう思っていたから。
 彼の死になぜこれほど打ちのめされているのか、理由がまったくわからない。確かにずっと聴き続けていたし、ファンクラブに入るほどでもあった。けれども、いわゆる“推し”というやつではない。純粋に、彼が所属するバンドの音楽性と彼の声が好きなだけだと思っていた。なので、いわゆる推し活的なこともほとんどしたことがない。自分でもゆるいファンの域を出るものではないと思っていたのだ。
 ところが、だ。生別死別を問わず心引き裂かれるような別れを何度も経験してきたにもかかわらず、これまでとは比べ物にならないほどの苦しみに襲われた。驚くよりほかない。その理由については未だ言語化できないでいるのだが、仮説はある。彼の死は、いわゆる蟻のいつけつだったのではないか、ということだ。
 人生の中で別れを経験するたび、打撃から一日も早く回復しようと努めてきた。それが正しい態度であると信じていた。そして、負の感情をできるだけ早く始末することにこれまでは成功してきたわけだが、実はどこかに処理しきれなかったおりが感情の貯蔵タンクに溜まり続けていたのではないだろうか。そこに、まったく想定していなかった死という巨石が突如投下されたことで、一気に溢れ出てしまった気がするのだ。
 昔から年を取ると感情的になると言われるが、それも案外このシステムに依るのかもしれない。長く生きていれば誰もが苦しみや悲しみを経験する。その処理速度や許容量は人によって異なるが、それでも半世紀も経てばどんな処理システムでも対応しきれなくなる瞬間が訪れるのだろう。澱を除く有効な手段はなく、溢れた分は垂れ流すしかなくなる。それが涙もろさや怒りっぽさとして表れるのではないだろうか。老人の問題行動は器質的には脳の理性を抑制する部位の老化と説明され、実際にその通りなのだろう。だが、そればかりでもないのだろう。
 生きていくとは、日々心に小さなヒビが入っていくことでもある。修復可能なほどの小さな傷も、積み重なれば全体を脆くする。脆くなったところに大きな衝撃がくれば一発だ。老朽化した建物がちょっとした地震や台風でも崩れてしまうようなものである。
 そう考えると、老いる過程で心の耐震工事――つまり感情の扱い方を後半生仕様に変更するのはかなり重要であるはずだ。
 いずれにせよ訃報に触れたことで、これまで自分の中にはないはずだった喪失感や虚無感、絶望が表面化して、とても見えやすい場所に居座ってしまった。結果、感情は究極的には分析不可能であり、時として理性のコントロールが及ばぬものなのだとした。
 そしてこれはまさに、私の人格史上画期的な発見となったのである。

(第4回へつづく)